追想のレビュー・感想・評価
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砂利の砂浜はとても歩きにくくて。。。
新婚初夜。かつて、映画ではコミカルに描かれることが多かった一夜の一瞬。でも、ベッドの上で起きた少しのすれ違いが、新郎新婦の人生を決定的に決裂させることだって、確かにある。一昔前、"成田離婚"なんて世知辛い流行語もあったし。本作は、そんな軽く見られがちな小さな悲劇がなぜ起きたか、そして、それが若い男女になぜ後戻りを許さなかったかを、長短交えた時間の経過を駆使して追い続ける。そう、スルーされがちなテーマを真剣に、破綻なく描くことで、少々大仰に言えばタブーに挑戦しているのだ。まずは、原作者と監督の勇気を称えたい。新婚旅行の舞台はイギリスのドーバー海峡沿岸にある世界遺産、チェジルビーチ。遠目には日本の"天橋立"に似た美しい砂浜は、しかし、小さな砂利に足を取られてとても歩きにくい。そこをそぞろ歩く2人が危なっかしくて、その後の彼らの運命を予感させる。風景と物語のマッチングにも注目したい。
大人の顔でも魅せるシアーシャ。肌荒れが残念…
シアーシャがブレイクした「つぐない」と同様、イアン・マキューアンの小説が原作。ロマンチックな雰囲気をほのめかす映画邦題に対し、小説の邦題はズバリ「初夜」。英国もまだ保守的な時代、互いに初体験となる男女の焦り、もどかしさがほとんどギャグの域に達していて思わず笑ってしまう。
「レディ・バード」に続き、シアーシャは最近の出演作で初体験に縁がある。天才子役と呼ばれていたけれど、今や24歳。着実にキャリアを積んで、大人の女性をしっとりと演じられる年頃になったということか。「レディ・バード」は高校生役で、ニキビ跡を敢えて隠さずに役作りしたことが話題になったが、本作でもアップになると顔の肌荒れが目立ってしまうのが残念。
取り返しのつかない失敗と、それが人生に与える深刻な影響という点では「つぐない」に近いが、戦争の時代にからめ壮大に展開する前作に比べると、こちらはやや小粒な印象。
無垢で無知でどうしようもなく愛おしい
一日も持たずに終わった新婚生活。ハネムーンの最中に若きカップルを襲った悲劇を描いた今作は、ちょっとわかりにくい部分はあるものの、「愛しているからこそ乗り越えられなかった」過去と、過ぎ去った時だけが許容できる痛みを描いている秀作だと思う。
夫婦として初めての夜を迎える二人、フローレンスとエドワードの、初々しい様子から映画は始まる。ぎこちない素振りでベッドルームへと移る二人の緊張を緩めようとするかのように、フローレンスは急にエドワードに話をするよう求める。
そこから二人がどんな風に愛を深めていったかが語られる構成だ。
出会いやデートの様子は、仲睦まじいカップルそのものなのに、この初夜の緊張感は何だろう?
フラッシュバックするフローレンスの記憶。はっきりとは語られないが、父親との間に何か性的な忌まわしい過去があったように思える。
エドワードが父親とテニスをするくだりも、「絶対に勝ってはダメ」と釘を刺していたり、その後の父親の激昂ぶりを見たりすると「この父親は、何かヤバそう」と思わせるには十分だ。
階級社会のイギリスで、二人は出自も志向も違う。惹かれあって一緒に時を過ごし、互いの思うことや家族のことを語り合って、受け入れあって、そうやって結婚までたどり着いた、若くてイノセントな愛。
精神的に高まる愛の一方で、肉体的な愛の欲求は満たす術もわからず入り口で立ち止まったままだ。
フローレンスにしてみれば、苦い過去の記憶と愛の持つ汚らわしい一面への不安がどうしても拭えないでいる。
「結婚するのに幸せそうに見えない」彼女は、結婚の先にある「愛の営み」への憂鬱さから逃れられていないのだ。
今から思えば、早すぎるディナーすらも、その後に控えている二人の「儀式」をせっついているように感じる。
思いきって自分が抱えて苦しんでいるものの正体をエドワードにぶつけられれば、この恋の結末は違ったものになっていたかもしれない。
でも愛していたからこそ、自分の汚らわしい部分をどうしてもエドワードに話せなかった。
身勝手すぎるとエドワードに責められても、「悪いのは私」と言うことは出来ても、その先は言えない。
彼女が性愛への呪縛から解き放たれるのは、父親が他界した後の話なのである。
生涯最高の恋は?と聞かれれば、あの人のことを思い出す。そういう意味の「追想」なのだろう。
出会った時が違っていたなら、きっと二人は幸せになれたはずだ。
歳をとった後になれば、自分の無垢さと無知さを痛感することだろう。
「あの恋」が素晴らしいものだったと互いに認識し合うエンディングは、ほろ苦い余韻に満ちていた。あの日、別の人生を歩み出した二人が再び恋の余韻に浸れたことは、ささやかながら幸せなことだったと、そう思う。
彼もまた20世紀の少年だったのだな・・・おあずけ!
新婚初夜までずっと「おあずけ」を食らっていたエドワード。初夜まであと僅か。緊張の中に微笑ましさが混在し、追想シーンも含めて序盤はコミカルにも描かれていた。しかし、上手くいかなかった・・・というお話。
オープニングのチェジル・ビーチでのやりとりがロック好きの人間にはぐさりと刺さる。Eで頭痛がしてAで起きて(だったかな?)、B7でどうのこうの。エドワードはどこまで知識があったのか、チャック・ベリーには無茶苦茶詳しい様子だったし、ラジオから流れる「ロール・オーバー・ベートーベン」が絶妙だ。ちなみにフローレンスの言う“トニック(主和音)”は当たってるし、単なるEではない。Aはサブ・ドミナント(下属和音)、B7はドミナント(属和音)。
恋人同士のエピソードや初夜そのもののシーンがメインとはなっているが、個人的にはフローレンスがバイオリンを弾くエニスモア楽団や、1975年のレコードショップ店員となっていたエドワードのシーンが好き。さらにエディの母親が電車のドアにぶつかり脳損傷を患っている部分が心に響くのです。しかも、遠近法について語っているときに電車がそのまま遠近法で描かれてるなんてのは笑っていいのかどうかとも・・・。裸になって絵を描いているなんて悲哀に満ちています。
結婚生活6時間。どんな終わり方やねん!とツッコミを入れたくなった瞬間、その後怒涛のごとく時が流れてエドワード目線での物語。ちっちゃい女の子がレコード店に現れ、ママの誕生日プレゼントにチャック・ベリーのレコードを買った瞬間、涙腺が緩んでくる。あぁ、フローレンスは結婚して子供まで・・・
さらに21世紀になってエニスモア楽団の最終公演のニュース。ここはやっぱりC-9の席を取るだろ!間に合え!というか、しっかり座ってるという速い展開。もしかするとシアーシャ・ローナンってお婆ちゃんメイクが似合ってるんじゃないかと思うくらい。と思いつつも涙ボロボロ。こんなにすれ違いムービーだとは思わせない意外性に感動できました。感動しすぎて忘れてしまったけど、反核運動は一体どうなったんだ?
ちなみにE、A、B7のコード進行でC9をプラスすると、カッコいいブルースになりますよ!どこまで意図したものか知らないけど・・・あぁ、永遠のロック少年で良かった(ロックじじいとも言いますが)。
フローレンスがエドワードを怖がる原因は なんだろうか?
フローレンスは父親の前では萎縮している。
父親の、テニスコートでのあの「大声」での叱責を見て思いました
― 父親の家庭内での暴力的・抑圧的な子育てが、じつは相当に娘フローレンスのPTSD になっているのではないかなぁと。
エドワードのことがあんなに好きであってもね、後付けの恋愛感情のめっきが早晩剥がされてしまうほどの幼少期からの体験、すなわち父性への恐怖感と“男性性”への反射的な拒絶です。
(もちろんフローレンス自身の元々のパーソナリティーもあるのでしょうが)。
そのことは
ホテルでの二人の「初喧嘩」やベッドインに焦るエドワードの「大声」へのフローレンスの過敏な反応を見れば、彼女の家庭内での源体験が想像できてきます。
対して、
エドワードの実家のお父さんは、息子の連れて来たこの優しいガールフレンドを心底喜び「結婚しろ」と短く言ってくれた。この父と子は心優しき娘の登場に感極まってむせび泣いていたではありませんか。
ああ、平凡でもよいから二人には相性良く結婚して 幸せになって欲しかったなぁ・・
それにしても、
男と女。別個の存在が共棲を始めるのは難しい。輸血や臓器移植同様、ものすごく簡単ではない事なのだと改めて思いました。
(牧師さんがフローレンスの異変を心配していましたが、専門のカウンセラーがこの二人には必要だった。間に立ってくれる信頼できる第三者がいなかった)。
人間は複雑です。
同居という“臓器移植”様の拒絶反応を如何にして抑え、自覚してポジティブに克服し、あるいは笑って上手にスルーする技術を得られるか。これは結婚生活の継続の鍵ですよ。生育歴の足かせと呪縛から自由にならなければ。
バーブラ・ストライザンドの「追憶」のオマージュでしょうか。今作も、なぜ?なぜ?と呟きながら悲しい別れに泣かせてもらいました。
エドワードとフローレンスの結婚は6時間。
(いきなりの自分語りですが)僕の結婚は20年でした。めっきの下に隠された地金に克つ事は、夫と妻にとって、お互いまったく容易ではありませんわ。
皆さんのご健闘とお幸せを祈ります。
1960年代イギリスは性に対して保守的だったのだな。静かなトーンで新婚の二人を描くほろ苦い作品。
ブッカー賞受賞作家イアン・マキューアンの小説「初夜」を、シアーシャ・ローナン主演で映画化した異色のラブストーリー。
1960年代のイギリスを舞台に、海辺のホテル(原題:On Chesil Beach)で新婚初夜を迎えた若い夫婦の心の機微を描いたとあるが、もう少し丁寧に時代背景を描きこんだほうが作品に奥深さが出たのではないかと思えた作品。
初夜の部分は微笑ましかったし、時代を表す衣装の数々は(特にシアーシャ・ローニャンが身に着けていた濃いスカイブルーのドレス)見応えがあったし、作品の気品を高めていたと思う。
<2018年8月10日 劇場にて鑑賞>
原作未読だが小説邦題だけでゲスい想像しててごめんなさい。
原作のあらすじを知った時には、なんでそんなことになっちゃうのか、あらあらまあまあ童貞処女だもんね焦っちゃったのかなあ、プークスクスと艶笑譚っぽくかるーく考えていたのだが。
二人の間の深く暗い溝に、男女間の/階級間の違い以上のそれに、仄めかされるその原因に、そして二人とも無意識にお互いの地雷踏みに行くというか傷抉りに行くのやめてあげてと悶絶しながらなすすべもなく観ているだけしか出来ない自分の立場に、ただうなだれるしかないのだった。
からの、ありえたかもしれない未来を想像させて切なさ遣る瀬無さいやこれで良かったのかもと複雑な感情を引き起こす後日譚からのエンディングに救われた。いやアレがないとダメージ大きすぎですもの。
『ベロニカとの記憶』でもそうだったが、「調子に乗ってやらかす浅慮な若造」にピッタリのビリー・ハウルと、むしろ上品清楚というか潔癖で禁欲的なこちらの方が本線なのかシアーシャちゃんのメイン二人が好演だった。
難しいですね
エドワードは男性のプライドが許さなかったのだろうし、フローレンスは過去に性被害を受けて男性恐怖症だったのだろうし、素直に全て話さないと難しいですね。それも明け透けと話せる事ではないだろうし。男性は後悔するのでしょうが、女性は終わったことを思い出したりしないので、ラストの悲しそうなフローレンスはエドワードが見たかったフローレンスの表情だったのかなと思います。
動機
結婚の動機を本人は肉付けし過ぎて、かなりマッチョなものに。重過ぎる。より自分に自然なものに合わせる。しかし、作品に悪意も感じる。必要以上に時間を引っ張って、若気の至りを人生の決定的な傷跡にしてしまう。振り返ってみればそれというのはあるが、日常においてそれを引きずり過ぎることもなかろうに。
特殊メイクはそのシーンへの感情移入をそっちのけに技術的な出来栄えの良し悪しに目がいくので、興が削がれる。主演の2人はよく演じている。
いつか訪れる夫婦のすれ違いを初夜に込めて
個人評価:4.0
シアーシャ・ローナンにうってつけな古風で育ちが良く潔癖な役柄。
初夜をとても神聖に捉え、そしてお互いがその行為自体を夫婦にとって最も重要な行為として位置付けている。
性行為にスポットを当てているが、夫婦生活において、お互いの感情のすれ違いのスチュエーションは多々あり、それをお互い受け止める余白があるかどうかを物語っているかの様に感じる。
いつか夫婦に訪れるであろう、感情のすれ違いが、初夜という特別な行為に集約され、これから起こるはずだったすれ違いの長い夫婦のストーリーを、結婚6時間で描き上げたよう物語。
原作が「初夜」というタイトルとの事だが、追想という邦題は、あの初夜の出来事をより深い瞬間のように捉え表現している。
愛する人への思いやり
それが完全に裏目に出てしまう。
愛を込めて話すことの難しさ、自分を抑えることと許すことのバランス、自分の感情に向き合うことの難しさを感じた映画だった。
1975年、2007年はもういいかなとも思った。
フローレンスには理由があったのでは?
私は、初夜(と言うには明るすぎたが、白夜?)のモヤモヤベッドシーンの間の回想に答えがあったように観ました。
小さい女の子が大人の男とボートに乗ってて、ロープを巻く作業の指示を受けてる。大人の男はフローレンスと言ってたから、シアーシャとだれか。
その後神父(か牧師)に婚約してるのにあまり乗り気でないけど何?と、聞かれるけどフローレンスは答えない。でも、明らかに何かある。母にはいえない。
小さい女の子が、遠目から大人の男に見られつつ、身を縮めて嫌そうにベッドに横たわってる。
フローレンス父は、テニスをしている父とエドワードをしばらくの間見ていたフローレンスを異様に怒る。
フローレンスは、ふとももにかかったエドワードの精液をみてパニックになった。
これらの事から、父から精神的かつ性的な虐待を受けており、性行為まではいかなかったかもだけど、精液をかけられたことがあるのでは?
そのことを何をされていたかも分からず、ただ怖い事として秘めていて、セックス関係のことと関連していることはちょっと気づいてて、エドワードとの行為で父にされていたことに類することが夫婦のセックスだとわかってしまったのではないか、と観ましたが、どうなんでしょうか?
フローレンスがその後どうやってそのトラウマを克服したのかはわかりません。もしかしたら子供たちは養子かもしれません。
結婚(再婚?)したチェロの人はもしかしたらゲイかもしれません(エドワードとの浜辺での口論で同性愛者がどうのってゆってたし?って思ってるけど、あれは同性愛者同士のような社交用夫婦ではどう?というフローレンスの提案の例えなだけかも)。
いや、私の解釈ですがね、その可能性あるんちゃう?って思いました。
何にせよ、フローレンスもエドワードも互いを愛していたとは思いますが、いかんせん若かった。
それは無知であり、自信のなさであり、それが相手をよく観察して慮ることを遠ざけたのですね。
後は1962年の宗教観と貞操観念が結構影響してますわな。
21世紀は大概婚前交渉してるし、例え結婚までお預けでももっと性の知識あるからねぇ。
初夜のうちに決裂で終わるんかと思いましたが、1975年、2007年まで時が流れてびっくりしました。そんな壮大になるんやというギャップ萌えでした。
そして老けメイクが本格的で凄かったです。
前半のうまくいかないと初夜が、コント?と思って笑ってしまいましたが、フローレンスの過去に思いが巡り、エドワード聞いたげてよちゃんととか、フローレンスもわかるでしょ?じゃなくて具体的に告白しなさいよとかって焦れてました。
みすすめていくに連れ、ハマる映画でした。
シアーシャは幅のある役者でますます素敵です。
レディバードと中の人同じとは信じられへん。
エドワード役の彼は、ドーナルグリーソンとエディレッドメインを足して二で割ったみたいな雰囲気でした。
どうでもいいけど印象に残ったこと。
フローレンスはパンティはかずに浜辺にいきましたよね。気になって気になって…
エドワードがフローレンスの水色ドレスの肩部分を腕側にずらして脱がそうとしてるのが、いや、絶対無理やで?って思った。
フローレンスの回想の時のワンピースたちがどれも可愛かった。
人生における大事な出来事の意味が解るのは「そのとき」ではない
シアーシャ・ローナンの初体験シーンを観るのは、これで3度目だわ(「ブルックリン」「レディ・バード」)。
これぞ女優。
ほんとうの人生においては1度しかないことを、女優は何度も演じる。
しかし、まあ、これだけ立て続けに主演映画が封切られるとは、どれだけ仕事してるのか。
いま、売れっ子であることは間違いないけど、彼女に合った“いい仕事”を選んでるなあ、と思う。
さて。
チェジルビーチの長い浜を、2人の男女が歩くシーンから本作は始まる。原題は On Chesil Beach。
男はエドワード。少し粗野だが歴史好きな青年。女はフローレンス。クラシック音楽を学んでいて、いつかホールで演奏するのが夢だ。
2人は恋に落ち、ついに結婚。
ところが新婚旅行先での初夜の些細な行き違いから、別れてしまう。結婚期間は6時間。
ときは1962年。ネットもAVもない時代。世の中はまだまだ保守的。
こういうトラブルってあったんだろう。
ベッドの後、フローレンスはホテルを飛び出してしまう。エドワードは追うがチェジルビーチの浜辺で口論となり、別離。長い浜の上、対角線上に2人が離れていくショットが印象的。浜は、そのまま人生を象徴している。長い長い浜を、それから2人は別々に歩く。
若さゆえの不寛容。
ほんの小さなことから、人生の重大事を喪う物語。
だが、そうと解るのは、若者たちがもう少し年を重ねてからだ。
後日譚が印象的。
男の経営するレコードショップに小さな女の子が訪ねてくる。
ふとした会話から、その子はフローレンスの娘だと分かり、そして、フローレンスがエドワードを忘れていないことが分かる。
ラスト。
夢だったホールのステージに立つフローレンス。あれから45年が経ち、彼女にはもう孫までいる。そのステージを見るエドワード。
その後、2人は逢うのか?
映画は、そこまでは描かない。
余韻を残すエンディングである。
音楽はクラシックばかりかと思っていたら、舞台はロックが花開く60年代イギリスで、時代を映す選曲も楽しめる。
エレ片コント太郎ツッコミハイライト@Sep.23
原作未読。しかし所謂、“童貞あるある”みたいな内容なのだが、テーマとしては『覆水盆に返らず』といったところなのだろうか。
ただ、大変風光明媚なセシルビーチのロケーション、時間軸の長さ、それによる歴史の変遷みたいなものが背景に埋め込まれていて、美しく、叙情的に、そしてメランコリックに描いている作品である。まぁ、結局は主人公の男の儚い自分史なのだが・・・。
でも、自分としては同じ男としての目線として大変共感を覚える、というか断然肩入れしてしまうのである。
構成としては結婚初日の短い時間の間に、それまでの新郎新婦のそれぞれの生い立ちや馴初め、愛の育みがカットバックのように差し込む編集である。これ自体の編集方法はそれ程ストレスを感じない。しかし、二人とも初体験だったことから、その幸せへのアプローチがはっきりとUターンへと切り返してくる。その大事なところのきっかけである、女の過去の父親との舟の中での出来事が、しっかり描かれず、そのモヤモヤ感が、ずーっと引き摺ってしまうのである。原作もそうなのか、それとも映画オリジナルなのかは不明だが、ここをはっきりしてくれなければ、この男のこれからの人生に対しての思い入れが変わってしまうのだ。勿論、その後、女は子供を3人も設けることになるので、その潔癖症は克服されたことは容易に想像が出来、だからこそ、あの時、最後に折角女が手を差し伸べたのに、男はそれを意地で切り離してしまうことなどせずに・・・なんていう思いがもっと重層的な感情で彩ることができるのにと思うのだが。ここが有耶無耶だと、単に男の間抜けさばかり強調されてしまう。父親に自慰の手伝いをさせられたとかの原因による、PTSDとかならば、愛情と奉仕のバランスが取れない若い男ならではの青臭い懐かしさが、ラスト前の“C列9番“のシートへと誘う流れになるのだと思うのだが・・・
それと、結局、男は歴史学者には成れなかったこと、中古レコード店で働くことの運命が、すっかりカットされてしまっている点が腑に落ちない。そこまでロックにのめりこんでいたのかに説得感が感じられなかった。いくらBGMが、Tレックスやチャックベリーだったとしてもそれはあくまでも時間軸を表現する小道具の域を出ないから。
ま、色々文句は付けたけど、しかし総じて今作品の文学的な作りは大変興味を持って鑑賞できた。最後の男の涙ながらの拍手は、余りにも悲しく寂しく、そしてだらしなく、可哀想な印象を鮮明に観客に植え付け、そして決してハッピーエンドではない、胸を締め付ける辛さをもたらしてくれた。鑑賞後の心の機微を揺らし続ける今作品のレベルの高さに拍手である。
今では考えられない無垢さ
現代は性に対してオープンになって、こんなことがあるとは考えられないが、この気持ちは理解できる。
時代が変わっても、根本的な感情、愛情は不変であることを認識した。
ラストに静かな感動。
シアーシャさんの美しさに◎。
☆☆☆☆ 文句を言いたい事が沢山有るんだよ! でもなあ〜…。 でも...
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文句を言いたい事が沢山有るんだよ!
でもなあ〜…。
でもなあ〜…。
泣かせんじゃねえよこのやろ〜(つД`)ノ
2018年8月20日 TOHOシネマズ/シャンテシネ3
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