「これが巨匠だそうです」旅のおわり世界のはじまり 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
これが巨匠だそうです
黒沢清監督はトウキョウソナタだけは良かったです。
そのほかの監督のしごとはすべて「細かすぎて伝わらないモノマネ」のようです。
なんかがあるのは、わかります。
ただし、その「なんか」が果たして巨匠の才能によるものなのか、弱点なのかが、わかりません。
ときどきものすごい短絡があります。
クリーピーでも予兆でも岸辺でも散歩するでもダゲレオでもリアルでも、その短絡を見ました。
なんて言ったらいいんでしょうか。
あぜんとする/絶句する/あっと驚く/拙いとしか思えない「省略」をやってくれます。
あるとき彦一は「怖くておかしくて悲しい話をしてくれ」とせがまれ「鬼が出てオナラをして死んでしまった」と話します。不平を言われると「鬼が出れば怖いだろ、オナラをすれば可笑しいだろ、死んでしまえば悲しいじゃないか」と釈明します。
鬼が出れば怖い/オナラをすればおかしい/死ねば悲しい──これらの直線的な表現方法が、黒沢清監督の映画に、たびたび出てきます。ただし、それが、なにかの含みなのか、まんまなのかが、解りません。ものすごく解りません。
たとえば散歩するで主人公らが教会に迷い込んだときおもむろに東出昌大扮する牧師が出てきていきなりコリント人への手紙を話すシーンがあります。あたまん中はてなだらけになります。
今回これを見て、黒沢清監督には無いと、個人的には決着しました。この監督は、トウキョウソナタを撮り得たわけですが、それは度重なるラックか、青天の霹靂のようなものだと思います。
愛の賛歌はジョークでもセルフパロディでもタイアップでもありません。監督は、かんぜんなる真剣度で愛の賛歌を選んでいます。「巨匠」の肩書きが、それを許していると思います。
舞台で歌うことを夢見る女性とか、山羊逃がすとか、びく落として引き上げて200㎝の魚捕まえるとか、コンビナートの火災とか、中学生の想像力が監督に憑依した感じ。
どうなっているんだろうか。
ムスリムたちの風景に一ミリもなじまない風体で世迷い言をぬかしまくるひたすら不愉快な女と、どこまでもAwkwardなできごとで成り立っている試練の映画でした。現実世界以上の気まずさが間断なく襲いかかってきます。
これを技巧や手法だと解釈するなら虐待も猫かわいがりであり、いじめも「おごりおごられるかんけいでいじめはなかった」ということになるんじゃないでしょうか。
おわりもせず、はじまりしない、旅のおわり世界のはじまりでした。
この監督は、元ネタのないご自身の妄想を真似ているのであって、そもそも「細かすぎて伝わらないモノマネ」ですらないということが、わたしにもようやく解りました。
あまつさえ、映画の拙さを許し得ても、他国で、醜態をさらしているのは、許せません。よそ様の生活圏をひらひらのスカートで闊歩しやがって。びくびくしながら街を歩きやがって。途上国を瞰下している先進国のつもりなのかなあ。
と・ん・で・も・ね・え・ぞ。
個人的に、今この国に、年毎でベスト10つけられるほどのまともな映画はそろわないと思っています。その証拠に、「巨匠」を入れとかないとマズいと判断した権威主義のキネマ旬報がこの映画を10位として、体裁を整えたわけです。
ちなみにひたすら同衾する映画が1位です。日本アカデミー賞では官房長官に23回質問した人の原案に基づく映画が作品賞です。なんでも花畑にする親の七光りカメラマンがわが国最先鋭の監督さんです。知らなかったわけじゃないですが、もう外国との対比ができなくなっている業界だとは思っています。