「若松映画の映画というメタシアター」止められるか、俺たちを しろくまさんの映画レビュー(感想・評価)
若松映画の映画というメタシアター
門脇麦に尽きる。
ただし、破天荒な青春群像劇となり得たところが、門脇演じるめぐみをメインに据えたために、良くも悪くも物語が浄化されてしまったように思える。
だって、あの頃のポルノ映画の独立プロが、果たして、これほど「きれい」だっただろうか?
しかも監督は、「彼女がその名を知らない鳥たち」(傑作)で、あれほど汚い人たちを描き、観る者の心揺さぶった白石和彌。
おそらくはノスタルジー、そして死者を悪くは描けない、ということか。
若松孝二に私淑していた曽我部恵一が音楽を担当。彼の柔らかな声は映像にはなじむが、実際、当時聴かれていた音楽は反体制のメッセージを込めた、もっと鋭いものだったはず。こうした点を鑑みても、現実の「あの頃」との差異を感じる。
父を知らない娘(めぐみ)が、若松孝二の父性に憧れ、父の面影に惹かれて男に抱かれる。
そして彼女は映画を生むことも、子供を産むことも出来ず死を選んだ。
当時はいま以上に職業と性差の考え方がはっきりしていた。映画を生むのは男性という暗黙のルールがあったのだ。
しかも、母になれば絶対に映画は生めない。せっかく、ここ(助監督のチーフ)まで来たのに、積み上げてきたものは無になる。彼女は映画と我が子と“2人の子”を選べなかったのだ。
さて、本作は「映画の映画」である。劇中、はしばしに映画への愛が溢れている。
従って、この作品がメタシアター的になるのは当然だろう。
そもそも本作は劇中でめぐみの死を悼みながらも、と同時に作品として若松孝二へ追悼を捧げるという二重構造を持っている。
また、本作は、映画作りそのものが、「若松孝二的」だ。
映画を撮影しているシーンで、助監督のめぐみが「背景に関係ない人が映ってしまった」と指摘するシーンがあるが、若松孝二は「そんなの誰も見てねえよ」と一蹴する。
なるほど。劇中、町を歩くシーンで、どう考えても当時にはないものが映り込んでいるところがあるのだが、それは若松組の映画作りなのだな、と合点がいった。
また、何かのインタビューで井浦新が、本作の撮影期間は2週間だったと言っていたのだが、やはり、めぐみが仕切って撮影日数を短くしたというやりとりが出てくる。
本作が若松プロの再出発となるとのこと。そのことにふさわしい映画作りを志向したのだろう。