母という名の女 : 映画評論・批評
2018年5月29日更新
2018年6月16日よりユーロスペースほかにてロードショー
“母もの”のイメージを衝撃的に覆す、2018年上半期屈指の戦慄映画
海辺の一軒家で姉とふたり暮らしをしている17歳の少女バレリアが妊娠した。しかし初めての出産は不安がいっぱいで、同じ年の頼りなげな恋人は定職にさえ就いていない。そこに長らく疎遠だった母親がタイミングよく帰ってきて、救いの手を差しのべる。しかし「これでひとまず安心だ」などと思う観客はひとりもいないだろう。すでにこの導入部にはただならぬ嫌な予兆がこびりついており、母親の登場シーンはいかにもタイミングが“よすぎる”のだ。しかも、これは「父の秘密」「或る終焉」という唖然呆然のバッドエンディング映画で名を馳せたメキシコの鬼才ミシェル・フランコの最新作。従来の“母もの”のイメージを根こそぎ覆す、戦慄のドラマの幕開けである。
ペドロ・アルモドバル監督の“母もの”映画「ジュリエッタ」も記憶に新しいエマ・スアレスが今回演じるのは、いかなる目的で、どこからやってきたのかもわからないアブリルという謎だらけの母親だ。赤ん坊の夜泣きに苦しむ娘からたちまち育児の主導権を奪ったアブリルは、さらなる信じがたい“強奪”を重ねていく。さまざまな物理的かつ法的な段取りを迷いなくこなしていくその手際のよさは、冷徹なる完全犯罪の遂行者のよう。おまけにこの美しき母親は熟した女の匂いを濃厚にまき散らし、ふたりの娘のみならず若い男をも手玉にとっていくのだ。
こうして観る者は、狙った獲物は逃がさない真意不明の怪母アブリルの言動からひとときも目が離せなくなっていくのだが、その胸騒ぎのサスペンスを増幅させるのがフランコ監督の特異な語り口だ。一切の無駄をそぎ落とした演出は、あらゆる描写が即物的でシンプルの極み。それゆえに世にも奇妙で異常な事態が、静かに、平然と、確実にエスカレートしていく様が、あれこれ頭をひねる必要もなくダイレクトな衝撃として伝わってくる。むろんこれはジャンル映画ではないが、何やら新種の体感型ミステリー・スリラーを観てしまったかのような動揺を覚えずにいられない。
そして終盤、とてつもないストーリーのうねりが待ち受ける本作は、謎の怪母に敢然と立ち向かうもうひとりの母親=バレリアの闘争を描き出す。フランコ監督お得意の“尾行”シーンにゾクゾクさせられつつ、車に乗った登場人物を執拗に後部座席からのアングルで撮る演出がここで生きてくる。最後の最後に真正面から映し出される、ある人物の驚くべき顔! そこに浮かぶのは歓喜か、それとも狂気か。この2018年上半期屈指の恐ろしい映画にふさわしい、完璧なラスト・ショットがそこにある。
(高橋諭治)