「全ては幻想に(追記あり)」サタデー・フィクション LSさんの映画レビュー(感想・評価)
全ては幻想に(追記あり)
映画内の現実と戯曲「サタデー・フィクション」内の世界がオーバーラップする。繰り返されるシーン。何が演技で何が現実か分からないまま物語が進む。女も男も顔が強いイケメン役者たち、西洋と東洋の入り交じった上海租界の空気、クライマックスの激しいガンアクション、コントラストの強いモノクロ映像とも相まって、最後まで非現実的な雰囲気があった。
振り返るとストーリーはシンプルで、著名な中国人女優ユー(裏の顔は連合国側のスパイ)が、日本の情報将校・古谷から日本軍の新暗号のコードワードを聞き出す作戦に参加を余儀なくされ、周りの人々を巻き込んでゆくというもの。古谷の亡妻がユーによく似ていることから、古谷を拉致し薬(自白剤?)の影響下の幻覚で妻だと思わせて秘密を打ち明けさせるという計画は、不確定要素がありすぎて(映画のプロットとしても、作中現実の計画としても)説得力が弱いと思った。が、こんな計画に乗ってでも、スパイから足を洗い、開戦のどさくさで出国して恋人の演出家と生きることを願ったのかもしれない。
ただ、ユーが機密入手に成功しながら嘘の報告をした(日本軍の侵攻先はシンガポールではなくハワイだった)理由がよく分からなかった。古谷の妻の死(計画の一部で、入れ替わるため謀殺された)や、古谷拉致のために自身の元夫を殺させてしまったことへの悔悛なのか。
結局、土曜日が来て、ユーの未来も、妻の幻影を求める古谷も、上海租界も、全てはまぼろしと消えた。
話にはやや瑕疵があると感じたものの、スタイル重視の作りは嫌いではなかった。純中国映画でこのコスモポリタンな感じが出せることに感嘆し、自分の偏見にも気づかされた。
11/28追記:
1)かばこさんのコメント(ありがとうございます)に触発されて少し考えてみた。
養父はフランス租界で古書商を営みながら諜報の世界にもいるが、どこのスパイなのか。舞台である1941年12月の時点で、フランスは親ナチスのヴィシー政権となっている。またユーが上海に戻る前に任務についていたインドシナも、1940年6月のヴィシー政権成立後の日本との協定により日本軍の仏印進駐が行われている。つまり作品中のフランス本国は親独で日本と協力する枢軸側であり、それに対してユーや養父はドゴールの自由フランス(レジスタンス)側として活動していたのだろう。
そこからの仮説だが、まずユーの報告が正しいか間違いかにかかわらず、開戦すれば上海租界に日本軍が入るのは明らかである。その場合、養父が正しい情報を打電し、開戦後も現地で枢軸国に対する諜報活動を続ければ、いずれは捕まり、恐らくは処刑されるだろう。一方、養父が間違った報告を上げて信頼を失えば、あるいは(劇中でそうなったように)失望して任務を放棄すれば、上海を離れて生き延びられるかもしれない。ユーは養父を騙すことで命を救おうとした、と考えるのは飛躍が過ぎるだろうか。
2)レビューを読んで「シャドウプレイ」の監督だったと知った。今年完全版とドキュメンタリー「夢の裏側」を観て、(書きかけでアップしなかったが)中国現代史の文脈と膨張する都市を独自の切り取り方で咀嚼しながら、中国本土でこれほど洗練された、西洋と遜色ないミステリーを撮れるということに驚いた、との感想を持っていた。本作はエンタテインメントに振りながらも、都市への眼差しに共通の独特さを感じた。
こんにちは
共感をありがとうございます。
私は、ユーがシンガポールと嘘をついたのは、養父に一矢報いたんでは、と思いました。養父は彼女への愛はあったようですが、ずっと利用されてきていて、ユーとしては愛憎あるところかと思います。