「キラキラしていないが大事なことを伝えようとしている映画。」ここは退屈迎えに来て xmasrose3105さんの映画レビュー(感想・評価)
キラキラしていないが大事なことを伝えようとしている映画。
人は「幻想=イリュージョン」の中に生きていると思いますが、この映画で、椎名くんはみんなのイリュージョンです。イリュージョンは自分だけでなく、相手も皆一人一人が持っている。他人のイリュージョンを「想像=イマジネーション」すること。それが、人同士が繋がっていく始めの一歩になる。
想像が実際と合っているのか、それはやはり本人や本物と実際話したり、一歩踏み込んでみないとわかりません。
関わってみると、色々気付く。自分のイマジネーションがいかにズレていたか。実は自分の願望で、考えていたんだと知る。つまり、イリュージョンだったと。人は無意識のうちに、自分が見たいようにバイアスをかけてしまう。
実際とイリュージョンの間の、溝。
リアルと願望の大きな溝と言ってもいい。
溝を知り、打ちのめされ、傷つく。
そしてそこを渡るのは、容易でないのもわかる。
でも、辛くてもはっきり見た方がいい。
その溝が見えていなくて、というか溝と向き合うのを避けて、でも避けてるのがバレないよう生きている人は、多いですよ。
年取るとそれが顕在化してくる。
劇中のマキタスポーツさんを観て、何かを感じて欲しい。仕方がない。批判する気はない。
でも映画の登場人物はみんな若い、まだ間に合う。
映画では「退屈なここ」と「憧れのどこか」。「地方」と「東京」。「自分」と「椎名くん」。こっちとあっちをわかりやすく描きつつ、登場人物は皆それぞれ見えない溝にどんよりしている。
溝をどうしたらいいかわからず自信喪失する人。
溝の手前まで行ったが、引き返してきた人。
溝は渡らずこっちで楽しく過ごそうと決めた人。
他人を利用して溝を渡ろうとする人。
自分で渡ろうとあれこれ試みる人。
背負って渡ってくれる迎えを待つ人。
溝との向き合い方が、その人を表す。
素敵な登場人物が少ないけれど、それでいい。またリアルだと思いました。
なぜか、野球のイチローを思い出しました。
もちろん「迎えに来て」のスタンスではない。
でも先日日本で小学生向けにしていた挨拶で、こんなことを話してました。
「僕が生徒だった頃は先生や指導者の方など、確かに、導いてくれる人達がそばにいてくれた。
でももういまはそういう時代じゃなくなったと感じます。
今は自分で、自分を、教育していかなければならなくなった。君達はそれを覚えていて欲しい。」
昔は居たんだと思います。
溝を渡る時に、手を貸してくれる人が。
渡り方を教えてくれる人が。
「ここは退屈迎えに来て」でOKだった。
私をスキーに連れてって、という映画に当時多くの男性がメロメロになりました。
就職も結婚も、親や教授や上司が決めてくれていた人が普通にたくさんいました。
新保くんが椎名くんを手助けしようとしますね。
「私」さんに惚れてんじゃ?
こういう愛の形もあるからね。新保くん、いいヤツ。
え、椎名くんに惚れてる?どっちだろ。
いずれにせよ、先導してくれる人がいないなら、自分が誰かの先導者になってやる、くらいの気概で、泣きながら原チャリぶっ飛ばす新保くん。
ぶざまですか?
いいえ、こういうのをカッコいいというんだよ。
この映画の救われどころ。
傷つくのを前提で、好きになった誰かと関わる。
自分のイリュージョンがぶち壊され、
自分のイマジネーションの限界を知り、
そこで初めて自分の無意識の願望に向き合える。
が、そういう態度で生きている人は、実社会でも今は少ないのかなあ。
でもそれが自分探しであり、その繰り返しで自分を理解していく。相手や世界を深く知っていく。
楽しいじゃないか。
果てしない旅。
死ぬまで続くよ、どこまでも。
こんな自分もいた、と知る時、
嬉しい時もあれば、
反吐が出るほど汚く、受け入れられない時もあるだろう。他人に否定されて、生きる価値無しと感じることも、今の時代は多い。
でも、自分を育てるのは、自分しかいない。
自分の好きになれる自分を作っていこうと思いました。あんまり肩肘張らずに。