「浮ついていても許されるのが東京」ここは退屈迎えに来て いぱねまさんの映画レビュー(感想・評価)
浮ついていても許されるのが東京
約10年くらい前、ラジオばかり聴いていた。勿論FMなどではなく、専らAMで喋り中心の番組だ。そんな中で数少ない曲掛けで、“フジファブリック”がよく流れていた。三十路後半だったから、もう音楽もあまり聴かなくなり、興味が無くなり掛けていたから流行りの十把一絡げの内の一つなんだろうなと、その時は気にも留めなかった。暫くして、そのボーカルである人物が亡くなったことがニュースになった。他人事だと思い、このグループは終わるんだろうなぁと気の毒に思った。しかし、フジファブリックは驚くことにメンバーを替え、再出発するというニュースがアナウンスされる。例えが悪いが、ミスターチルドレンで桜井和寿があのまま病気で歌えなくなったら、サザンの桑田佳祐がガンの進行を食い止められなかったら、多分、両方のグループは自然消滅して、それぞれのファンの心の中で音楽を奏でることになるだろうと思う。それ程バンドの中心が居なくなれば、そのバンドは寿命なのだ。しかし彼らはそのまま同じグループ名で活動を続け、引き続き今の音楽シーンを引っ張る牽引車の一つに成長している。カリスマ、神、天才と呼ばれた前任者の夭折において、フジファブリックに対するイメージの厚みが他のバンドにはないものとなっているのである。
長々と書いてしまったが、そのグループが劇伴及び主題歌を提供しているのが今作であり、初期メンバーの代表曲『茜色の夕日』を登場人物がリレー式にアカペラで謳うことで、作風に大きく影響されていることも特徴なのである。
勿論、小説が原作で未読なのだが、ネットで読書感想を追ってみると概ね映像は則しているらしく、制作陣のオリジナルは少ないようである。そしてプロットは、明らかに『桐島部活やめるってよ』のテイスト。スクールカーストの中でのリーダーを巡る周りの人物がどのような思いを抱いていたのか、10年後大人になったそれぞれが過去を振り返りながら、あの頃の気持と、現在のリアリティとのギャップ、その心のヒダを丁寧に拡げながらストーリー展開していく。『桐島』と圧倒的な相違点はそのリーダー自ら登場することで、よりリアリティをもたらし、かなりの現実感を演出していることである。それがもたらすものは、夢や希望といった正のベクトルの真逆、厳しく辛い社会の洗礼を、たとえ中心人物だったリーダーまでも浴びることを免れることなくきちんと描いたかなりのビターな作品としての仕上がりなのだ。
原作では短編型式になっているストーリーを群像劇として編集しており、ストーリー当初はその相関図が全く不明で理解しずらく、中々入り込めない。場面転換で年代がクレジットされるのだが、そもそも繋がりが分らないから戸惑ってしまう。ただ、後半になるにつれ、段々とその細かいストーリーが繋がりだしてくればストレスは解消していくことはそれでよい。問題は、今作の俳優陣の実力揃いの豪華さは、却って作品に過剰な画力を及ぼしているのではないだろうかという危惧である。色々な映画やテレビ作品で、キーマンとなるような高レベルの演技力を誇るしかも若い俳優をここまで贅沢に披露して、但し、ストーリーそのものはかなり内向きなネタなのだから、そのバランスの悪さが際立っているのがスクリーンに漏れてしまっているのだ。ま、端的に言うと、高校生役はあまりにも他のエキストラの中で浮いてしまっているのである。高校生にはまるで見えない配役は、シーンそのものが、まるでコントのように見えてくる。話のシリアスさとのギャップが悪いように出てしまっていてかなりの違和感である。
ストーリーそのものは、結局ラストの、元リーダー格だった男が、その男を憧れていた女の名前を覚えておらず、改めて名前を訊くというオチで、自分の今までの膨らませ過ぎた想い出補正を無残に割られてしまうということで、それはそれで着地点は面白い。
幾つかの支流である、リーダーの妹の話、同じクラスメートの、歳が離れているオヤジと付合っている女の子の話、そして、内田理央と岸井ゆきのの話は、大胆に削ってもよいのではと思ったのだが。岸井が最期に結婚していて、相手がそのリーダーだったというオチは、まるでビアンの匂いをさせておいての、実は高慢ちきな友達を泳がせていて、最期に逆転するという展開をミスリードの演出で語られているのは面白かったけど。それと、門脇麦の話はもっと掘っても良かったのではないだろうかと少々、残念である。あの話はもっとアイロニーが演出出来ると思うのだが・・・。
多分、今作は明確なターゲットの年齢層がいて、それ以外はあまり響かないのではないだろうかというのが総括である。