「誰に向けた映画なのか?」シュガー・ラッシュ オンライン しろくまさんの映画レビュー(感想・評価)
誰に向けた映画なのか?
映像の美しさ、カーレースシーンの迫力はさすがのクオリティ、シャンクやイエスなど本作から登場するキャラクターも魅力的。ディズニープリンセスはじめスターウォーズなどの多彩なゲストも楽しい。
吹替版では出来るだけオリジナルキャストの声優が出演しており、エルサは松たか子、アナは神田沙也加、ラプンツェルは中川翔子、そしてバズ・ライトイヤーは所ジョージと豪華ラインナップである。
さて、本作ではインターネットの世界を独自の“解釈”によって可視化してある。これがとてもよく出来ている。
インターネット空間の中のユーザーはこんなだろうな、とか、ネットコンテンツの視聴、ネットオークションの様子など、ああ、確かにこういうことだな、と感心させられる。
だが、こうした点において、一体、誰に向けた映画なのか、という疑問が生じる。全体的に比喩が難しいのだ。
例えば、重要なモチーフとなるネット上のバズる動画。
バズることがお金になる、さらには、アルゴリズムを解析して作為的にバズらせる、という仕組がわかる子供はどれだけいるのか?
「猫と赤ちゃんの動画ばっかり」という皮肉の声はもう、大人に向けたものでしかない。
ポップアップの解釈も楽しかったが、これもまた、どういうネットユーザーを想定しているのか。
スマホにもポップアップはあるが、ポップアップブロックは一般的にはパソコンのものだろう。
いまやネット利用のメインはスマホ。
パソコンのことは大学生か社会人しかわからないはずである。
さて、後半、ネット空間の混乱をもたらしたウィルスソフトだが、起こった現象は解決するがウィルスそのものは駆除してないままだ。
いいのか、これで?
ラスト近くに、パトロール中の警官(アンチウィルスソフト)が、ウィルスを捕まえるぐらいのシーンがあればよかったのだが。
さて、本作におけるラルフの課題は難解だ。
彼は友人であるヴァネロペと「一緒にいること」を望む。
その想いは肥大化し暴走するが、「自分はヴァネロペの想いを汲んでいない」ということに気付き、「他者が、その人であろうとすることを認める必要性」に気付く。これは普遍的なテーマである。
物語の後半、ネット空間を混乱させ、ラルフ自身もヴァネロペもピンチに陥れる「ラルフの肥大化した想い」。
そう、一見「敵」とも見えるものは、ラルフ自身なのである。本作では「敵」は倒す対象ではない。求められるのは、(「敵」に見える)暴走し肥大化した自我と対話することである。
これ、難しくないか?
例えば「ズートピア」。本質はイデオロギーの対立であっても、その存在は主人公の「敵」としてわかりやすく表現されていた。
そもそも難しいテーマを選んでいる意欲は評価する。しかし、それが、わかりやすい表現として成功しているとは思えない。
細かいことを言うなよ、と思うかも知れない。
しかし、細かいことまでキッチリ作り込んで観る者を関心させながら、素晴らしい映像表現を駆使して作品テーマを伝えるのがディズニーアニメではなかったか。
そしてディズニーアニメにはいつでも練られた脚本があって、キャラクターの行動には強い説得力があった。本作では、この点においても不満だ。
“居場所”である「シュガー・ラッシュ」がなくなることを悲しんでいたヴァネロペ。「飽きたとは言ったけど、なくなっていいなんて思ってない」とまで言っていたのに、ネットの中で出会ったレースゲーム「スローターレース」に魅了され、ここに残りたいと言い出す。
ヴァネロペは「やりたいこと」と友情の二者択一を迫られる。彼女の葛藤は「友達に着いて行くことで、やりたいことができなくなってもいいのか?」という、これまた普遍的なテーマであり、観る者の共感も得られるだろう。
だが、このことと、もともとの事の発端である「シュガー・ラッシュ」(というゲーム機)が壊れて困った、ということとは、ねじれの関係にある。この“ねじれの関係”は解消されることはないままにストーリーは決着してしまう。ゆえにラストのヴァネロペの選択にはカタルシスを得られず、どうもスッキリしないのだ。
本作を観終わって「どうしたディズニーアニメ」という思いが残る。子供にもわかりやすく、そして大人には深い。ゆえに大人も子供も一緒に笑って、一緒に泣く。そういう体験を与えてくれるのがディズニーアニメではなかったか。
ディズニーアニメゆえ厳しい評価なのではなく、1本の映画としての完成度に疑問を抱いてしまう。よって厳しい評価となった。