「町田康が斬られた時点で物語も斬られて候」パンク侍、斬られて候 本の虫のロラン・バフチンさんの映画レビュー(感想・評価)
町田康が斬られた時点で物語も斬られて候
原作者が序盤で斬られているのにお気づきだろうか?
詳しくは言えないが、開始一分で斬られるキャラがいる。
それを原作者の町田康が演じている。
クレジットを見たときに一つの仮説が、細長く薄い着想を寄せ集め、トントンカンカンと建築された。
原作者は言わば物語の指揮者である。映画の最高権力者が石井監督だとしても、ストーリーを産み落としたの町田康である。
そんな町田が死んだ。
指揮棒を持つ暇すらなく壇上から去ったのである。
さすれば、他の登壇者は独り歩きし、物語は崩壊する。
特にアナーキーだったのがラストである。ある人物がラストを締め括る役割を果たすのだが、それは古典で何度も使い古された展開だった。前衛文学を思わせる芸術形式破壊に古典文学の結末は相容れない。筋を通しても全容が崩れる。
いや、そもそもこれが現実だ。ショーペンハウアーにはあまり詳しくないが、彼はこの世界を個人の意志がひしめく世界だと考えた。個々の意志が上座を目指して椅子取りゲームをする理不尽な世界だ。メロドラマ、青春、ハードボイルドと個人の脳内は一つのイメージにずっぽり浸り、そのフィルター越しに混沌の海を水中観察と来たもんだ。
本来はジャンルが要り組むポリフォニー(多くの意識と声で奏でる)の世界であるが、自分の人生を語るときはどうにもモノローグ(自分の意識と声で語る)世界でしか語れない。
私は私の声しか知らないからだ。
この映画を気に入らないあなたは悪くない。
転じて言えば、気に入った私は悪者である
それも多くのクリエイターにメディアの既成概念を破壊してほしい大悪党である。
私は私を規定する象徴界を破壊できないけれども、フィクションの世界ではできるのだ!と感動した。
若者語訳すると「言葉とか喋れねえサルになれば完璧なジョーシキ破りワンチャンいけっしょ。それメディアでやっちゃってまじやばリスペクト」だ。
破綻による物語の限界を知りたければ、その反面教師である本作を観るべきであろう。