「万引き=バレないように盗る、万引き家族=バレ無いように盗ってきた家族」万引き家族 ヒロさんの映画レビュー(感想・評価)
万引き=バレないように盗る、万引き家族=バレ無いように盗ってきた家族
この物語は安藤サクラのセリフ 「盗ったんじゃない、拾った。誰かが捨てたものを拾った」に集約されている。
万引き家族は捨てられた人々。樹木希林は夫、安藤サクラは母になること、リリーフランキーは学歴や仕事(男性社会)、男の子と女の子は親である。(松岡茉優は後述)
そんな面々が集まって全く血の繋がりは無いけど、でも最も心休まる「家族」を作った、という話。
是枝監督は家族という血縁で繋がった価値観を壊したがるというか「家族とは何か。親や血は選べないし、それが自分にとって心休まらない場所なら、それは家族なのか?家族って心休まる他人でもいいんじゃないか」という価値観がすべての作品に共通している。
ただ、家族の集まり方が「万引き」だった。
女の子は虐待の上に腹を空かせていた所を、男の子はパチンコ屋の車の中からそれぞれ連れ去られている。子供達二人は恐らくそのままの場所に居たらネグレクトで亡くなっていた可能性が高いが一応、親の保護下に居た状況下から連れてきてしまっている。
樹木希林は夫を奪われ一人ぼっちだったが同居という型で彼女の家にリリーフランキーと安藤サクラが転がり込んできた。さらに死も隠蔽され年金も「万引き」される。
リリーフランキーと安藤サクラが「万引き」して作ったのがこの家族だった。(そもそも安藤サクラもリリーフランキーが前夫から「万引き」して奪ったものだ。リリーフランキーが作中で「俺は万引きしか教えられるものが無い」と言っていたが彼の人生は人からバレないように物を盗って積み上げてきたものだということだろう。)
しかし万引きは犯罪である。それに唯一、対抗したのが男の子である。彼はもともと賢い子で最初から万引きに罪悪感があった。反面、バレなければ良いしその技術があるとも思っていたが柄本明に女の子を巻き込むなと諭された事で万引きが犯罪であり、はなからバレていることも悟る。この彼の贖罪の意識が万引き家族を崩壊させた。
「時には犯罪も犯す血縁も無い社会的弱者が、彼らの居場所では安らぎを感じていた。果たしてそこは法律は犯していても悪だろうか?」が本作のテーマである。
が、どうも私はこの作品にしっくり来なかった。それはテーマを重ねすぎた為だと思う。
この映画には自分が確認出来た限り以下、3つの問いが掛けられていると思った。
・社会的弱者が生きる為に行う犯罪は罪なのか?社会の欠陥では無いのか?
・血が繋がらなくても心安らぐ他人の集まりは家族と呼べないのか?
・社会的に間違っていても当事者に取って居心地の良い空間を世間は否定する権利があるのか?
幾ら何でもテーマを重ねすぎた。どれか1つに絞り、それに映画の中で監督自身の見解を誠実に示すべきだ。テーマを重ねすぎた為に何を伝えたいのかがボヤけてしまっている。
物語についてもっと細かく言えば私が疑問に思ったのはリリーフランキーが脚を怪我する場面。この怪我によって彼が働けなくなり、安藤サクラも職を失って仕方なく樹木希林の死を隠蔽し年金不正受給に手を染める。その行為に対して男の子が倫理感や樹木希林への愛情から取った行動で問題が発覚する、という流れならば生きる為の年金不正受給(法律違反)という善悪や倫理を問う問題提起が出来たはずだ。ところがこの怪我が後遺症も無く治る。物語上、全く怪我が機能していない。あの怪我の描写は何のために入れたのか分からなかった。
もしくは是枝監督はそもそも何かの問いに対して自分の考えを示す事を目的としておらず、倫理命題を重ねて世間の常識(これも曖昧なものだが)とはかけ離れた所にあるユートピアを見せ観客の常識・倫理感を突き崩したいという欲求のために作っているとしたら、万引き家族は是枝監督がやりたいことが出来ている。
しかし、それは映画として誠実なのだろうか?客から金を取って2時間の映画を見せ、その映画が見るに耐えない出来だったとき観客の損失は映画代だけでは無い。製作者は観客を2時間分殺した、映画製作とは人の生死がかかった仕事だという話を聞いたことがある。
是枝監督は観客に倫理命題を突きつけた上で、観客から2時間奪う責任を果たしたのだろうか。
だが、本作は非常に評価されている。その理由はパルムドールを取ったからだと思う。内容よりも海外での実績から良作とされているのでは無いか?では何故パルムドールを取れたかというと是枝監督の才能、人を綺麗に見せることができる力の為だと思う。この作品、万引き家族はずっと何か食べている。それも安っぽいスーパーの残り物やカップラーメンを下品に食うのだがそれがリアル且つ綺麗なのだ。もしも現実にあばら家に住む貧困家庭の食生活を見たら目を背けたくなるような光景かもしれない。しかし是枝監督はその環境をまるでこの世のユートピアのように演出してしまう才能がある。そこにヨーロッパが好む哲学的雰囲気を上乗せしたのでパルムドールを取れたのではないかと思う。
そして日本人は海外の評価に弱い。これにより万引き家族は名作映画となったと推測する。
この映画を見て観客に何を感じろというのか、何を感じて欲しいのか私には分からなかった。私が鈍感なだけなのかもしれないが少なくとも私には伝わらなかった。
是枝監督の映画製作動機が「何かを伝えたい」では無く「観客の倫理に揺さぶりを掛けたい」ならば今後も私は彼の作品に拒否反応を示すだろう。
最後に松岡茉優について。彼女はほかの家族とは違う。彼女は何かから捨てられた存在では無く、捨てた側の人間。推測だが彼女は元々、実の家族と自分自身に嫌悪感を感じていた(反抗期に由来するようなものか)。そこに自分の家族は樹木希林という女性の犠牲の上に成り立っているという事実を知り、樹木希林に対する贖罪と自分より不幸な存在から感じる安堵を得たくて、この家族に加わったのではないかと感じた。
彼女の葛藤はとても現代的で理解出来る。しかし彼女の人物設定はこの物語で語ろうとする問題からズレている。松岡茉優自身の魅力もあり、彼女の場面は美しいのだが、この話の中では違和感を感じてしまった。先のリリーフランキーの怪我といい、この映画には物語が伝えたいことからズレている場面が多いのだ。その原因は恐らくだが撮りたい場面から物語を構想していった為ではないかと予想する。その結果、物語がチグハグな構成になってしまっている。脚本がテーマを貫いていないという印象。
と、ここまで書いてふと思った。松岡茉優の立ち位置こそ、この映画を象徴しているのかもしれない。「よく分からない」という点で。