「映画と現実の絆なのかも」万引き家族 tamoさんの映画レビュー(感想・評価)
映画と現実の絆なのかも
この劇中の家族は、もちろん架空ではあるが一つ一つの要素が実際の事件を反映しているので、まるで現実の場面を覗いているようだった。
身につまされてつらい場面もあったが、目をそらす訳にいかない力がこの映画にはあった。
盗みはする、不正受給はする、しかも血のつながりも無い、とんでもないこの“家族”の元に親に虐待され逃げて来た女の子がやってくる。
厄介な事になったと最初は帰そうとするが、結局女の子は住み着く。この事が引き金となって、やがて家族は崩壊することになる。
終盤、高良健吾扮する捜査員(検事?)が女の子に「君たちの絆は本物じゃない」というようなことを言っていた。
(本当か?)と思った。絆がつながりという意味なら、太い細いはあるかも知れないが本物、偽物はないだろう。「本当の家族の絆が本物だ」というなら、実の親に虐待されたこの女の子をこの偽装家族は迷惑に思いながらも決して追い出さなかった。そして手を上げることもなかった。弱い者がさらに弱い者を叩く構図が、この貧しい家族には不思議とない。
リリー・フランキー扮する父は、取り調べで「なぜ子どもに万引きをやらせていたか?」の問いに「他に教えられるものが何もないんです…」と答えた。
(そうか、彼は父になりたかったんだ!)自分の唯一の技術を教えることで彼は父になった(気がした)のだ。それが端から見ればいかに愚かしく見えようとも彼は父になったんだ。
エンディングで男の子が乗るバスを名前を呼びながら追いかける偽父親。ちょっと見はベタに見えるこの場面が、深く切ない場面として胸に迫った。リリー・フランキーは素晴らしい。
結局親の元に戻った女の子は、また母娘とも虐待を受ける日々に。
母の顔の傷を案じて手をやって、母にキレられ「ごめんなさいは!?」と強要されるが、女の子は決して謝らない。昔はきっとすぐ謝ったのだろう。あの家族と生活したことで彼女も成長したのだろう。
アパートの廊下で一人遊ぶ女の子で唐突に終わるラストも映画的な大団円などにせずよかった。この映画は現実と続いている。
細野晴臣の音楽は、ドップラー効果を模したような不思議な音楽だったが、とてもこの映画に合っていた。
様々な音源(人)がやって来て、つかの間協和して、またそれぞれ遠ざかって行く。それがこの映画を体現しているように感じた。
つかの間の協和(特に海水浴のシーン)の何と美しく柔らかいことか。
観た後、時間が経つにつれどんどん気持ちが溢れ出す映画だった。