「オキシトシン」万引き家族 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
オキシトシン
オキシトシンというホルモンが最近になって注目されている。愛情ホルモンとも呼ばれており、他人に心を許して仲間意識や帰属意識、愛著などを持つようになる働きがあるそうだ。
愛著と言えば、ブッダは愛著は解脱の障害になると言っている。たとえば道に猫がいるのが見えても、普通は単なる風景のひとつだが、それがタマだったら風景ではなくなる。こんなところでタマは何をしているんだろうとか、怪我をしたりしていないかなど、気になってしまう。愛著は名前を付けることで生まれるのだとブッダは言う。
固有名詞がオキシトシンの分泌を活発にすることをブッダは遥か昔に見抜いていたのかもしれない。愛著を持つことによって人は客観性を失い、ニュートラルな判断が出来なくなる。命の重さは誰でも皆同じだと思っていても、いざとなると家族や知り合いを優先する。優先するのが自国民であれば、それはそのまま国家主義である。オキシトシンは愛情を生むが、同時に排斥する気持ちも生んでしまうのだ。
ブッダはオキシトシンを否定して解脱を説くが、解脱することが必ずしも人類の目的ではない。というか、解脱を目標にしている人は世界にほとんどいないのではないか。人は大概、幸福を愛著の中に見出す。
この映画は社会的または家庭的にうまく生きていけない人間たちが、ひとつ屋根の下で寝食を共にする話である。作品は様々な形の愛著を描くのがテーマなので、ブッダの言葉に従えば、読み解くキーワードは名前ということになる。名前を付ける、或いは別の名前を名乗ることでこれまでとは違う関係性を獲得し、違う愛著を得る。
愛著は時間とともに変化し、濃くなったり薄くなったり、ときには裏返って憎悪になったりもする。オキシトシンの変化によるものである。可愛さ余って憎さ百倍という諺はとりもなおさずオキシトシンの分泌の増減によるのである。オキシトシンには他者への排斥や憎悪にならないような微妙な分泌のバランスがある。人は綱渡りをして生きているようなものなのだ。綱渡りは非常に困難で、しばしば人は足を踏み外して憎悪と無関心の淵に落ちていく。
本作品では愛著のありようが人によって異なることを表現する。役者陣の演技はそれぞれに見事であった。特に安藤サクラが素晴らしい。降旗康男監督の「追憶」で初めて見たときから思っていたが、女の優しさを表現するときにこの人の右に出る女優は思い浮かばない。彼女の演じた信代の包容力と愛著のありようがそのままこの作品の世界観となっている。登場人物同士は薄氷のような関係性ではあるが、互いに憎悪や無関心の対象となることはない。相手の人格と多様性を認める寛容さがあるからである。
憎悪と無関心が猖獗を極める現代社会でこの作品がカンヌフェスティバルでパルムドールを受賞したのは、ある意味で必然であるかのように思われる。