心と体と

ALLTIME BEST

劇場公開日:2018年4月14日

解説・あらすじ

長編デビュー作「私の20世紀」でカンヌ国際映画祭カメラドール(最優秀新人監督賞)を受賞したハンガリーの鬼才イルディコー・エニェディが18年ぶりに長編映画のメガホンをとり、「鹿の夢」によって結びつけられた孤独な男女の恋を描いたラブストーリー。ブダペスト郊外の食肉処理場で代理職員として働く若い女性マーリアは、コミュニケーションが苦手で職場になじめずにいた。片手が不自由な上司の中年男性エンドレはマーリアのことを何かと気にかけていたが、うまく噛み合わない。そんな不器用な2人が、偶然にも同じ夢を見たことから急接近していく。2017年・第67回ベルリン国際映画祭で最高賞の金熊賞をはじめ4部門に輝いた。

2017年製作/116分/PG12/ハンガリー
原題または英題:Testrol es lelekrol
配給:サンリス
劇場公開日:2018年4月14日

スタッフ・キャスト

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受賞歴

第90回 アカデミー賞(2018年)

ノミネート

外国語映画賞  
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映画評論

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2017 (C) INFORG - M&M FILM

映画レビュー

4.0 かつてない不思議で神聖な余韻をもたらしてくれるラブストーリー

2018年4月26日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

笑える

悲しい

幸せ

ハンガリーから届いた本作は、心と心とが静かに繋がり合っていく、そんな不可思議だが美しい瞬間に満ちたラブストーリーだ。20年ほど前、『私の20世紀』というモノクロ映画で高評価を獲得した監督が放つ久方ぶりの新作。奇しくも『レディ・プレイヤー1』や『ジュマンジ』では登場人物がゲームやバーチャルリアリティ内で異なる姿へと変身を遂げるが、本作における「夢」の中で見ず知らずの男女が何故か鹿になって出会うという設定も、これらと少し似ているのかもしれない。そこではあらゆる外見やハンディキャップを超えて、彼らは心と心を寄せ合い、自ずと惹かれあっていく。一方で男女が働く生肉処理工場は、命のやりとり、食の現実、そして魂そのものにも目を向けているかのようで、綺麗事だけではない崇高な視座や余韻をもたらしてくれる。おかしくて、可愛らしくて、しかし時々、厳粛な気持ちにも包まれ・・・こんな映画、他では滅多に出会えない。

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牛津厚信

4.5 久しぶりに見た佳作

2025年11月1日
PCから投稿
鑑賞方法:VOD

幸せ

斬新

地味な映画ですが、いくつか斬新なアイデアがあり、余韻が残る良作だなと感じました。舞台は食肉工場、人間の食物として動物の生が差し出される場所が舞台。もう一つは、夢に出てくる情景だけど、雄鹿と雌鹿のペアーが雪のある森に現れる。
相手が気になる場合、ついつい目線が向いてしまうって極めて古典的な始まりなのですが、たまたま、同じ夢を見ていることを知り驚く彼と彼女、食肉工場で処方される交尾薬もスパイスのように効いていました。これについては解説がほとんどなく、視聴側の判断に委ねられます。死の前に交尾?3分で済む?せっかくこの世に生を受けたのだから、せめて交尾をさせてやりたいって、残酷でもあり、思いやりでもあるか、と私は解釈しましたが、そういう神経がないとこの仕事は務まらないと主人公の男性も考えています。そして捜査にきた刑事をサーロインステーキ用の肉で釣って、なあなあの捜査にさせてしまう。やりますね。
ヒロイン役の女優さんが綺麗でした。喜怒哀楽の感情がほとんどなく、サヴァン的な特性の女性。しかしひとたび、そうしようと決めて行動する健気さが余韻に残りました。

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C.B.

3.5 楽しめた

2025年10月12日
スマートフォンから投稿

知的

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fuyuna

4.5 メタファーの難しさ

2025年8月12日
PCから投稿
鑑賞方法:VOD

2018年ハンガリーの作品
非常にメタファーで解釈が難しい作品
物語は屠殺場の財務責任者のエンドレと、出産休暇の代替としてやってきたマリアの物語となっている。
屠殺の瞬間は映像にないが、その直後の映像は見る人に大きな影響を与えるのは間違いない。
そしてそれらのことがあって我々は肉を食べることができる。
牛という生き物が肉というモノに変えられる瞬間があの場所
エンドレは面接に着た若者に「憐れみを感じないならば、この仕事は不向きだ」というが、確かに正気を保っているのは難しい気がする。
この場所をモチーフにしたのは、これが人間社会の仕組みで、最も酷な場所であって、心を閉ざさなければならないことで、加えてその延長線上にいる人間は少なからずその影響を受け続け、心や体が壊れてしまうという暗示なのかもしれない。
左腕が不自由なエンドレ
心が不自由なマリア
マリアは人との身体的接触を極端に避け、感情表現も非常に抑制している。
彼女は自閉スペクトラム症に近く、感覚過敏や社会的コミュニケーションの困難さがある。
彼女が手を握られることに強い拒否反応を示す場面などは、まさに接触恐怖症的だろう。
「鑑定士と顔のない依頼人」の主人公と同じだ。
二人は同じ夢を見ていた。
シカ
シカはおそらく自由の象徴
心や体の不自由さから自由への憧れをシカに例えたのだろうか?
社会構造が身体的自由を奪い、また心の自由を奪っている。
物語はその不自由さをAIとブレインマシンインターフェイスに置き換えた「攻殻機動隊」のようには持っていかず、お互いの欠点を認め合える世界に方向を向けた。
さて、
エンドレは老人であり妻とも別れ性的にもステージから降りた人物だ。
彼は娘がお金の都合を依頼してもOKせず、孤独な日々を過ごしている。
それはマリアも同じだが、何故この二人が主人公なのだろう?
何故親子ほど離れた年齢の二人だったのだろう?
エンドレは元妻か元カノかを呼んでSexし、やるだけやって「帰れ」という。
そこには満たされない気持ちと、マリアへの未練がある。
それ故に、「友達でいよう」と言ったにも拘らず電話を掛けてきた。
手首を切り血が溢れ出していたマリア
携帯電話に着信したのは間違いなくエンドレだとわかった。
絶望からの光
接触恐怖症を何としても克服したい彼女は、積極的に取り組んだ。
ただ、時間が必要で、ずっとモヤモヤしていたエンドレには少し長すぎたのだろう。
結ばれた二人はもうシカの夢を見なくなった。
不自由を克服した二人には、シカはもう必要なくなったのだろう。
この作品は、
人間社会のしている事実を背景に、命をモノにしてしまう構造と、それを知らない無数の人々は、動物たちの無言の声によって心も体も壊れていくのではないかと警鐘を鳴らしている。
そしてその壊れた体と心は、許し合い認め合う人間性によって補うことができると言っているのかもしれない。
エンドレが老人だったのは、老人にも未来はあると言いたかったのだろう。
最後の歌は、失恋を謳っているが、それは戦争によって引き裂かれたことを告げていた。
戦争も人間社会も否応なしだ。
このどうしようもない世界の中で、最後に通用するのが「許し合い認め合う人間性」なのだろう。
今回は完全に妄想的解釈だった。

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