「愛著と諦観」人魚の眠る家 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
愛著と諦観
分子生物学の福岡伸一さんによると、生命とは自己複製のシステムだそうである。イメージとしては、砂浜の砂人形に絶えず砂が風で吹き付けられ、砂人形は新しい砂を常に取り入れて古い砂と入れ替えているというものである。生命とは川の流れの澱みのようなもので、一見すると変わらないように見えるが、中身は変化しつづけている。
本作品は、現実社会でもいまだに答えの出ていないテーマを、ひとつの家族の物語として掘り下げている。人の死を判断するのは脳死なのか心臓死なのか、慣習なのか法律なのか、理性なのか感情なのか、社会なのか個人なのか。そういった様々な角度から人の死について問いを投げかけてくる。日常的に馴染みの薄いこの問題が、平凡な日常にいきなり降り掛かってきたとき、人は何をどのように選択すればいいのだろうか。
篠原涼子は映画やドラマになると、CMやバラエティで見かける浅薄さとは打って変わって、豊かな表情に女の情念を感じさせる凄みのある演技をする。7月に見た舞台「アンナ・クリスティ」でもいい感じに乱れた女を演じていた。
本作品では、いきなり放り込まれた極限状況に戸惑い、我を忘れたり取り戻したりしながらオロオロと生きていく女性を演じていた。かなり難しい役だったはずだが、ひとりの女性としての整合性は取れていたように感じる。
西島秀俊は2代目社長の軽さを上手く演じていて、この浮薄さが新しいもの好きとなり、物語を進めることになる。この辺りの構成は流石に東野圭吾だ。かなり力業のストーリーであるにもかかわらず、無理なく自然に鑑賞できる。
人は人に名前を付けることで愛著が生じるとブッダは言っている。愛著はすなわち執着であり、執着は苦厄に結びつく。子供に執着することで精神の自由を失っていく親の姿が、なんとも悲しい。諦観に達することで自由を再び取り戻すには、大きな試練を乗り越えなければならない。時空を超えて壮大なテーマの作品であった。