人魚の眠る家のレビュー・感想・評価
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鋭く重いテーマだが、堤幸彦監督作としては上々
当たり外れの落差が激しい堤幸彦監督、今回はかなりよかった(ちなみに○は本作と同じ東野圭吾原作の天空の蜂、イニシエーション・ラブ他。×は真田十勇士、BECK等。あくまで私見だが)。 原作のテーマの鋭さも成功要因だろう。臓器移植にからんで脳死か心臓死かの選択を家族が迫られるという日本の現実、医療関係者やそうした経験をした身内がいる人以外はほとんど知らないだろう。 次第にホラー調を帯びる演出も的確。黒沢清監督作の常連、西島秀俊のどこか空虚さを感じさせる存在感(反語めいた表現だが)も確実に効いている。篠原涼子は演技派という印象がないのだが、今回はかなり健闘したのでは。ラスト近くのハイライトでは子役たちも含めシーンにいる全員が熱のこもった名演を見せる。 難を言えば、音楽がやや過剰だったか。
見応え満点の映画
前によく予告していたな〜となんとなく鑑賞へ。
もう6年前なことにびっくり!
ミステリーが多い気がしていた東野作品。
あまりあらすじを読まないで鑑賞。あれあれ、という間に緊急事態!
おばあちゃん役のごめんなさいという演技が辛い。
星野の同僚がエレベーターで言った言葉、あまりにも真理で、逆によくこれを映画に入れたなと思いました。
星野とまおちゃんのカップルの話は、映画の題材と比べたらいるのかな?と思ってしまった🤔
登場人物誰しもまっすぐで、誰1人間違えてはいないと思う。そしてこんなにも映画に入り込んでしまったのは、キャストの方々の演技が素晴らしすぎるから。
篠原涼子さんは最後狂気に走る母親になってしまいますが、それでもその美しさに目がいってしまいましたし、その美しさがより怖さを引き立てていました。
最初みずほの身体が電気で動いた時、あんなにみんな嬉しそうにしていたのに、人形を受け取る所、笑った顔になるところの怖さ、何かおかしいと感じさせてしまう映画の撮り方がとてもすごいと思いました。
生人が大変だっただろうなあと、、。
どうか健やかに育ちますように。
最後のハートの木に出会うシーン、とても綺麗に丁寧に描かれていると思いました。
どなたかのレビューで、冒頭の「人形の眠る家」の文字が「人の眠る家」に見える時があると書いてあり、もう一回見てみたいと思いました。
あまりにも重く、正解がない題材をこんなにまとまって映画になっているのはすごい。東野さんすごい!
1人で映画館で観るのであったらビビってしまうくらい、途中怖かったけど、、🥹
観てよかったです。
死体を弄ぶ気持ち悪い映画
死体を弄ぶ気持ち悪い映画だった。明らかに死んでるとしか思えない瑞穂(稲垣来泉)に、着せ替えしたり、ペットみたいに散歩させたり気味悪い。
薫子(篠原涼子)が瑞穂を延命させようと奮闘する姿は狂気を感じる。特に薫子が瑞穂を無理やり笑わせるシーンはゾっとした。
終盤の薫子が瑞穂を殺そうとするシーンでは衝撃を受けた。最初は死体だと思ってたのに、このシーンを観て「あ、薫子が瑞穂を殺そうとしてる」と思った。つまり、この時の俺は「瑞穂は生きてる」と思ってしまったのだ。なぜだろう、今まで死体にしか見えなかった瑞穂が包丁を突きつけられた途端に、生きてると思えてくる。
結局死んでるんだか生きてるんだか、自分の中で死とは何か答えが見つからないまま終わってしまった。正直薫子にはずっと感情移入できず...しかし身内で脳死人間を目の当たりにしたら、薫子の気持ちも分かるのかもしれない。
脳が死んだら死?心臓が止まったら死?を考えさせられた。
自分がもし脳死したら速攻殺して欲しい。そして誰かの臓器になりたい。介護で家族に迷惑かけたくないし、見せ物になりたくないから。迷惑かけるくらいだったら誰かの心臓で生きたい。
色の使い方に拘りを感じる。 迫真の演技に興奮。 時々抜群に良い構図...
色の使い方に拘りを感じる。 迫真の演技に興奮。 時々抜群に良い構図のシーンがある。 価値観によって見方が変わる。 なぜか殺人未遂罪ではないようだ。 成長していた瑞穂は確かに生きていた。 誤魔化してるわけではないし、インチキでもない、見世物で良いではないか。 ラスト、心臓移植で元氣になった子が行った場所に家がなかった理由は以下のどれだろう。 ①あの辺一帯に何か建てるため更地にした ②実は初めから空き地だった ③瑞穂の家と関係のない別の場所 日本の西洋医学のルールは絶対か。 法律は絶対か。 瑞穂が別の人の中で生きているようなSFのようなオチで面白い。
涙が止まらない
東野作品を何十冊か読んだ中で、この作品と「時生」そして「ナミヤ雑貨店の奇跡」は涙を誘う作品だと思う。 ナミヤ雑貨店の奇跡は、その構成要素が多すぎて映画でははしょられた部分があって、最後の感動シーンにやや物足りなさを感じた。これが私が今までこの「人魚の眠る家」を見なかった理由だ。しかし見てよかった。 生死判断とは面白いもので、「社会死」以外はすべて医師によって「死」は確定される。 しかし脳死と死は、作中でも言っているが臓器移植の希望とその後行われる脳死判定によって決定する。 生きているのかもうだめなのか… この作品が投げかけている大きなテーマだ。 最初からこの問題を医師から問われ、やり場のない狼狽状態となる。 しかしミズホの手が動いたことで「この子は生きています」と力強く答えるのだ。 こここそが、まず最初にあるべき思いであり、立ち位置であることが強いメッセージとなっている。 夫がブレインマシンインターフェイスの社長だったことで、研究員の一人がしている電気信号で体を動かす技術に頼り、彼の研究を娘を動かすことで進行させる。 自発呼吸のような横隔膜ペースメーカー。そして背骨に殿筋号を送って手足を動かす装置。 その様子を見た夫は違和感を覚えるのだ。 そして級友に出会い、友人の子供が心臓病でドナーを探していることを聞き、100万円を寄付して募金活動を手伝う。 やがてこのことは妻の癇に障る。妻は「あなたはもうミズホが死んだと思ってるんでしょ。100万の献金はあの時ミズホを脳死判定しなかった罪悪感からでしょ」というが、おそらくは図星なのだ。 こうしてミズホのことについてもう一度話し合うことになる。夫婦間に大きな亀裂が入る。そのとき電話が鳴り、心臓病の女児が死んだこと知らされた。 ミズホのことについてさらに考える時が来た。亀裂が入っていたのは夫婦だけではなく、長男、妹とその子、母ともそれぞれ少しずつ意見の差が重なり続け、長男に至っては学校でのいじめのネタにされていたのだ。 生きているのか、死んでいるのか? これは、国が決める…? すべてのひずみがまるで妻一人に集中してゆく。包丁を持って訴える妻。 「この子を殺せば殺人か?」「この子は生きているのか?」「でも脳死だ」 そしておぼれた原因が明かされるが、それはもうどうでもいいことなのかな… やがて家族で抱き合って泣きじゃくる。 研究員の星野は、静かに家を出て彼女の仕事先へ向かった。 「人の心」 科学がいまだ介入しようとしていないものに、その大きなものに触れたことで、彼の意識が変化したのだ。 ミズホの様子は変わらないまま時間だけが過ぎてゆく。 ある日家族で出かけた先で、あの日ミズホが絵で描いた場所にたどり着いた。 長年の後悔が癒された瞬間だ。 そして間もなく、妻は夢を見る。ミズホが目を覚まし「お母さんありがとう。いままでありがとう」彼女はアラームで目覚める。 病院では延命治療の継続について薬品投与する提案をされたが、二人は臓器移植を希望した。 窓から差し込むまぶしい光が印象的なシーンだ。 時は過ぎ、心臓移植を受けた少年があの家に向かう。 向かわせたのは間違いなくミズホの魂だ。 その場所には何もなく、広大な敷地があるだけだ。 やがて少年の視点は空に浮かびしばらくはその土地を映し出し、やがてどこかほかの場所へ移動していく。 もうそこに人魚はいない。だから人魚の住む家もいらない。ミズホの魂は大空へと旅立ったのだろう。 この作品の素晴らしさは、人の命とお別れするには「これだけの時間がかかる」ことを意味しているのだと言っているように感じた。 そしてお別れに必要な、考えざるを得ない要素がたくさん積み込まれているのだ。 普通の死は割と短く、だからその後のお別れする気持ちにも時間がかかる。 生きているのか 死んでいるのか 法的なことはある。しかし、科学でも測れない人の心の問題は、紆余曲折を経験しながら、納得するまで右往左往してもいいと思う。 いい作品だった。
悪くはなかったけど…。
やっぱり、事故の原因が引っかかってしまった。
親なら絶対に水着を着て子供がおもちゃの指輪をしていることを注意して外させると思う。そこを点検しない祖母の最大のミスがあり得ない。
事故になるとは思わないまでも、プールは子供にとって危険な場所という認識が無いはずがない。
水の中では指輪は必ず外す。遊んでいる間に落とすことは確実なのだから、そこで、無くしたと大騒ぎになることは間違いがないし、余計な物を身に着けていないかチェックをしなかった自分の母親を一生許せないと思う。
母親の執念
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西島と篠原の娘がプールで溺れて脳死。
しかし夫婦は臓器移植を選ばず、篠原が自宅介護することとなった。
会社経営の西島は金持ちで、横隔膜手術を受けさせ呼吸器が不要になる。
さらに電気的に娘の筋肉を動かして代謝を上げる研究を、部下の坂口に任せる。
根っからの技術者の坂口はそれに没頭、かなりの効果を上げる。
PCの操作で娘の手を自由に動かし、笑顔も作ることが出来るようになってた。
西島の中では娘はもう死んでたが、生きてると信じる妻のためだった。
しかしさすがに異常だと感じ始める。周囲の人達もそうだった。
篠原の妹親子は、篠原の前だけで篠原の娘が生きてる演技をしてただけ。
母は少しは篠原を理解していたが、やはり異常性は感じ始めてた。
やがて篠原は娘を車いすで外に連れ出し、周囲の人に娘として扱わせ始める。
さらに息子の入学式にまで連れて行き、息子はそれで同級生から気味悪がられる。
だから息子の誕生日には誰も来ないが、篠原は無理に連れて来させようとする。
息子はイヤだと泣き叫び、さすがに西島が篠原に厳しく本音を言う。
娘は死んだのだと。すると篠原は逆上し警察を呼び、娘に包丁を突き付ける。
死んでるのなら刺し殺しても罪にならないよね、どっち?と。
そんなこんなを経て篠原も一種の洗脳状態からは脱する。
それでも娘の介護は続けてたが、ある日の夢で娘がそれまでの礼を言いに来る。
それで満足し、人を助けたがってた娘に代わり、臓器移植の決断をする。
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人は思い込むと周りが見えなくなり、延々エスカレートし続けることがある。
全くわがままな性格でなく人を尊重できる篠原も、その罠に陥ったという話。
大切な娘やから、気持ちは分かるけどね。でも西島のセリフが全てやと思う。
「娘はおれ達の中で生きてればいい、それを周囲に押し付けるな」。
誕生日の息子に対する振舞いもそう、警察への対応だってそう。
何で娘が生きてると周囲に認めさせる必要があるのか?
全く理解は出来ない。でもエスカレートって大体そういうこと。
何を信じても、どう行動しても、他人を巻き込まないうちはいい。
でも、そんな自分を正しいと認めて欲しいって欲求は必ずあるんよな。
正しいかどうかは自分で判断すれば良い。
世間とか多数派とか偉い誰かに正しいって言ってもらう必要はない。
脳死とかそういう難しい話以前に、それが最も大切なことだと改めて思った。
脳死は人間の死か、衝撃の愛のカタチを描く!
東野圭吾の同名ベストセラー小説の映画化ですが、とにかく深いそして重いテーマでした。脳死は死なのか、愛する我が子が脳死判定されたら家族はその人を"死"と受け止めれるでしょうか…。なんとも難しいテーマです。
しかし、脳死したらいきなり臓器提供の意思を聞かれるんですね。そこには、家族の思いはまるで関係なく。脳死したまま延命をするか、臓器提供して生きれる命を救うのか、いきなり判断なんてできやしないのに。
娘の瑞穂が脳死と判断された、薫子と和昌が選んだのは、禁断の延命でした。科学の力で人形…いやロボットのように動かされ体だけ成長していく瑞穂は生きているといえるのでしょうか。
娘は生きているそしていつか目を覚ますと思い続ける薫子、笑顔まで作らされて生き続ける愛する娘の臓器提供を考え本当の死と認めようとする和昌、研究により脳死した人間の体を動かし父の代わりに成長を見守り第二の父といわれる星野。死んでいるか生きているかで翻弄される周りの人たち。いったい誰が正解で誰が間違っているのか。その答えがないから、悲しみ苦しんでしまう。そうなんです、誰も間違ってはいないのですから。
ただ、母は娘の生にこだわり続けた。娘が操り人形となっても希望を持ち続けた。「この娘が死んだというなら、心臓を刺したら殺人なのか!?」と迫る母は、狂気と覚悟が見えました。娘を刺そうとする母と、すでに死を認めている周りの人たちの場が逆転した瞬間なのです。強烈に鑑賞者の気持ちも逆転させるほど、感情をえぐる瞬間だったのではないでしょうか?
みんな辛かった、母も父は当然です。弟が脳死の姉のことで学校で辛い思いをしないために姉が死んだと判断したことも辛かった。自分のせいで瑞穂が事故にあったとずっと罪の意識で過ごしてきた祖母も辛かった。薫子の妹晴美は支えながらも姉の変貌していく姿を見て辛かった。そして…瑞穂の従妹若葉は自分のせいで事故に遭ったと言えずに抱え込んできた歳月は何と辛かったでしょうか。
母が娘を殺そうとした瞬間、みんな心の中で耐えきれない思いがすべて爆発した、すごいシーンでした。心が締め付けられ、涙が止まりませんでした。
この映画は俳優陣全員が見事に演じた作品だったと思います。拍手を送りたいほど感情を揺さぶられました。
母は、娘の死を受け入れました。父は、心臓が止まる瞬間が死と最後に言いました。
医者は言いました、「では娘さんはまだこの世界のどこかで生きていますね」と…
本人の意志、という厄介な代物
多分、意図された事ではないのだろうと思う。この映画を観た人に感想を聞いたり、他のレビューを見たりすると意外と全然違うところが気になっているみたいなことは。 ある人曰く、「何でもお姉ちゃんが中心で弟が可哀想」。ある人曰く、「自分なら意思を持たなくなった時点で死とみなしてほしい」。またある人曰く、「自分だって子どもがあんな状態になったら同じことをするかも」。 この映画を観た時、誰に一番感情移入するのか。誰のことが「自分ごと」なのか。面白いほどバラバラなのが本当に興味深い。 かく言う私は映画を観てる最中、あっちへフラフラこっちへフラフラ、誰か一人には定まらなかった。 それくらい登場する関係者たち全員に共感するポイントがあったし、どの立場になる可能性も感じたのだ。 と、同時に物語の中心である瑞穂が脳死状態なので、瑞穂に感情移入しづらいという側面もある。 瑞穂の意思や感情はすでにこの世になく、周囲の出来事を感知しリアクションすることはないのだから。 もうひとつ、興味深いのはこの状況を作り上げているのはそれぞれの「罪悪感」であるということだ。 罪悪感が深ければ深いほど「瑞穂が生きている」ことに固執し、罪悪感の薄い人物から「この状況はおかしい!」と訴えていく。 罪悪感が人を理性から遠ざけ、罪悪感が人を狂わせる。 色々と興味深い考察はあったが、面白いか?と聞かれたら面白いとは言えない。 感動するか?と聞かれても、ぶっちゃけ感動はしない。 これは自分の罪悪感を抉ってくる映画だ。 「そっとしておいてくれ」と言う他ないだろう。
心に焼き付いて離れない作品。号泣不可避
観に行ったのは公開してまもなくのかなり昔だが、まだ中学生だった私の心に焼き付いて離れない作品。 とりあえずただひたすらに重い内容だったが、最初から最後までずっと泣いてた。マジで泣いてた。こんなに泣いた日ないくらい泣いてた、 ただひたすらに親とか子供とか、生きてるとか死んでるとか、深いことを考えさせられる。胸をえぐられるほど苦しくなる。素晴らしい作品に出会ったと思った。ぜひ見てほしい。
これは黒沢清監督に撮ってもらいたかった感
原作未読。 ミステリーという触れ込みだけど自分にはホラーに思えた。 脳死状態の子供の体に電気信号を流してロボットのように操る研究者とそれを見て喜ぶ母親、とても正気とは思えない。狂ってる。 序盤カメラのブレやわざとらしい照明処理が鼻についたけど、中盤以降は気にならなくなった。単に慣れただけなのかもしれないけど。
あいことば
母親の狂気。 強い愛。 ねじ曲げられてしまっているのかもしれないし、人道的に?どうなのか?とか、こんな事を続けても端から見たら悪趣味にも取れることだけれども、そこにあるのはただただ只管に我が子を想う母親の愛。 丁度愛娘犬を突然喪った頃、映画館で夫婦で見た作品。 夫婦で号泣してしまったのは、愛娘と映画の中の女の子を重ねて見てしまったから。 主題歌の「あいことば」が、絢香の歌声と歌詞と映像と、全てが突き刺さって映画と共に刻まれている。 観賞後、原作を読み更に号泣。
色々考えさせられました
「我が子が脳死になったら」という視点で見ると、篠原涼子の母役は違和感はあまり感じなかった。テクノロジーで娘の表情さえも操作してしまうというホラー仕立てで、母親の狂気を気味悪く演出しているが、体がまだ温かく、呼吸をしていて、爪や髪が伸びる、眠っているだけのように見える我が子を、どうして死んだと諦められるだろうか?事故で亡くなったり、事件に巻き込まれて亡くなったりして既に弔いを済ませていても、それでも何年も辛いまま、苦しみを抱え続ける程に執着があるのが私はむしろ人間らしく、それが人間という生き物だと思う。まして、何をもって死とするのか非常に難しい脳死である。脳死の娘を自宅で介護しながら、毎日一緒に外出したり、下の子の入学式に連れて行ったり、季節の行事やお祝いを親しい人たちと自宅で楽しむ際娘を同席させる事も変だとは感じなかった。人目にふれることをタブー視するのは何故か。何かおかしいだろうか?隠さなきゃいけないのか?人それぞれ生き方や価値観は異なる。それを否定することは誰にも出来ないし、実際お世話をする身近な家族にしか分からない変化や気付きは、私は否定できないと考えている。
ただ、仮に、この娘が50年もこのままだったとしたら、娘本人が果たしてそれを望むだろうか?というのは疑問である。親はどんどん年老いて行き、延命のための経済的負担や労力は、映画を見ても容易に想像がつく。脳死になった時、「本人が」どうしたいかというのは、生前に話し合っておくか、ドナー登録以外に確認のしようがない。そういう意味で、臓器移植の意思表示を生前にしておくことの重要性をひしひしと感じさせられる作品だった。
乱暴な言い方かもしれないが、脳死になることは、この作品に限って言えばある意味天命である。もし、脳死は不幸であると言うならば、それは今生きている人たちの健やかな生活、人生を、苦しみや悲しみで支配し続けることをもって初めて不幸と呼ぶのではなかろうか。色々な家族の形があること、色々な生活スタイルや考え方があるということ、虐めたり異端視するのは当事者を更に追い詰め深く傷つけることを、この作品を通して考えさせられたし、また、一緒にプールに行った少女や、プールに付き添いした祖母の抱える罪悪感や苦しみを十分にケアする必要性も強く感じた。
希望は時に残酷で、この母親やテクノロジーの研究者(坂口健太郎)は結果的に行き過ぎてしまったが、希望をどこに見出すかを葛藤する登場人物たちの姿は、いじらしくもあった。母親の狂気を唯一止められたのは、生き残った少女の「ごめんなさい」というあまりにも悲痛な叫びだったのが印象的。子役たちが大変素晴らしかった。
また、反対にドナーを必要とする家族の側の作品を観てみたいと思った。そうしたら、この作品の印象がまた変わるかもしれない。
全体的に映画というよりはテレビドラマっぽい作り。ストーリーに男女の要素を入れているが、人間辛くてもお腹空いたり排泄したりするリアルがあるので、いいんじゃないかと。元々、夫が浮気して別居予定だった夫婦から始まっている話である。最後は娘が夢枕に立って母親にお礼言ったりして、綺麗にまとめた感あり。全体的に良作だったと思う。
母の気持ち
そうか、お母さん賢い!と思いました。
死者を殺す事はできないのに、
目の前の娘を包丁で刺し殺したら殺人?
矛盾しているなと思いました。
包丁で可愛い子が刺されるのは見たくないと
思っていたのでほっとしました。
お父さん、よく止めました。
しかし、実際の所、どうなのでしょう?
殺人になるのでしょうか?
親なら、すっぱり諦めにくい筈なので難しい。
ただ、プールには親が半ズボン穿いて
近くで目を凝らして水中を見ていないと
駄目と思っています。
よく出来た映画なのは間違いないが隠れた偽善的意図を勘ぐると手放しで称賛は出来ない
ネタバレ
演出、映像、演技など申し分ない印象で、特に篠原涼子の気がふれかかっている母親役はお見事でした。
※ただし元AKBの子はちょっと違和感があった。
しかし、結論としてのあの落ちは脳死からの臓器移植を積極的に推進しようとする巨大組織の意図が隠されているようで、何とも言えないグロテスクなおぞましさを感じないわけにはいかなかった。
まぁそれはあくまで主観的な問題に過ぎないかもしれないが、秘教的密教的な「霊魂論」の観点から脳死→臓器移植に関して興味深い報告をつい最近知ったのでかいつまんで記したい。
端的に言うと脳死はしても心臓が動いている場合、「意識を伴った霊魂」は肉体と結びついている状態であり、その状態で各種臓器を手術で取り除いたなら、霊魂は「おい、私はまだ生きているんだぞ! 内臓を取らないでくれーっ!!」と悲痛な叫びをあげるらしい。(さすがに「肉体的痛み」までは感じないらしいが・・・)
←「肉体的痛みも伴う」に訂正
※生前に臓器移植の意志を示していた人間であっても、実際に臓器を抜き取られる際にはうろたえるものらしい。
勿論そんなオカルトチックな話は「非科学的」とバカにする向きもあるだろうが、ある種の超常体験を少しだけでも経験した人間であれば一笑に付すなどとてもできないものだ。
よって、映画に関してこれは嘘だと感じたのが、脳死・心臓鼓動状態の少女が母親に夢で最後のお別れをした場面。
この場面は映画のエンディング演出としては最高に感動的場面となるのだろうが、先の霊魂論の在り方から個人的には拒否反応が生じてしまった。
※心臓の鼓動が停止後に死者の霊魂が身内などにイリュージョン的に表れるという心霊体験は良く見聞きするところ。
というわけで映画的にはよく出来ていてもあくまで心情的には拒否反応が強すぎたということですね。
マイナス三ツ星
それに、脳死心臓移植はまだ日本では認められていないと認識していたので、それもしこりのような大きな違和感として残された。
投稿後にいろいろ調べてみますよ。
追記:そうか日本でも脳死心臓移植が可能となっていたんだね。
2203-1
答えてください。娘を殺したのは、私でしょうか。
感想
愛する我が子の悲劇に直面し、究極の選択を迫られた夫婦ーそれは愛か欲望か?
衝撃と感涙の東野圭吾ミステリーを映画化!
心臓死か脳死、何をもって死とするのか…。
夫婦、両方の気持ちわかるんですけどね、わが子のいない私としたら母親はちょっと狂気に思えました。でも愛する我が子のためですもんね、技術の力によって動いたり、笑ったり、最初は嬉しいかもしれませんけど…。難しいですね。
子役を含め篠原涼子も西島秀俊も素晴らしい演技でした。
姪っ子は最初から何か隠してるなと思いました。
ラストは納得の決断ですかね。
※生か死か善か悪か愛か欲かー
お別れの期間を、決められるからこそ生じる葛藤
様々な視点から、何を「生きている」とするのか、考えさせる作品。
プールで沈んでしまった従姉妹の指輪を拾おうとして潜り、脳死になってしまった、小学校受験を控えた瑞穂。
夫が浮気し、それでも子供の環境をベストにしたいと小学校受験を考えるのだから、元々、母である薫子は希望を捨てずベストを尽くして頑張りすぎる傾向があることがわかる。
一方、バランスを取るように、物分かりの良い夫。
「あなたは泥にまみれない」
そう言われるとおり、浮気した事よりも、そのあと「それでも家族の元にいたいんだ」となりふり構わず言えなかった夫に、薫子は離婚を決意した経緯がある。
娘の瑞穂が脳死状態になった時から、瑞穂の弟の生人の生活は、瑞穂の介護中心になっていただろうし、どれだけ技術を駆使して瑞穂の身体をいつ生き返っても良いように保っておいても、脳が戻ることはない。
そこを重々わかっていても、一縷の望みがあるのかもしれないと薫子は願いを込めながら、毎日瑞穂の身体を保つ介護を続けていく。
技術で身体を維持できることで、家族が万が一の希望を持てると知る夫の和昌。
夫が社長として継いでいる会社で、反射神経に信号を与え身体を動かす技術研究をしている星野は、脳死状態の瑞穂に動きを与えると、死とされている肉体でも身体は健康を保てたり、家族に希望を与えられるという技術の喜びを実感し、使命感とやりがいを感じていく。
でも、瑞穂のお顔が、脳からの司令で笑う事はもうない。瑞穂の心が動くことは、もうない。
その現実を、客観的に関わる者ほど受け入れられるが、脳死かどうかすら臓器判定すると決めない限りわからない家族にとっては、身体が刺激に応えられるうちは命があると捉えるだろう。
脳死状態の娘の身体を在宅介護で維持する生活を、異様や不気味と思うよその目も、身体あるうちは家族の一員として暮らそうとする気持ちも、どちらもよくわかる。
でも、実際に、脳死状態の瑞穂の生命反応を止めようとすれば、皆がやめろという。
瑞穂の存在は、生き続けているから。
もしも在宅せず病院に置いていたら、病院のベッドで事前に心停止するまで眠り続けていたのかもしれない。
それを自宅で眠る事にした場合、できることがあるうちは、できるだけしたいのが親だろう。
でも自然に任せないそれは、人間がして良い領域なのか?
心臓移植を待つ父親が、国内ドナー提供が現れず海外での移植に向け募金活動を行う矢先、限界を迎えた子供の命が亡くなる。
瑞穂の心臓を差し出すべきか?
一瞬でもよぎる父親和昌に、移植待ちの父親は「脳死でもその子はご家族の中では生きている」と話す。
生きていた命のその存在は、皆の心の中でどこまでも生き続けると確信が持てるまでは。
皆がその命の肉体とのお別れを受け入れる覚悟ができるまでは。
誰にも脳死を死と思えなくて仕方ないと思う。
何年も在宅介護を続けて、夢で娘がお別れに来たその日、薫子は瑞穂とのお別れを受け入れ、その日を命日とした。
瑞穂が脳死状態になってから、弟の生人が小学校入学しお誕生日を迎えるまで時は進んでいるので、おそらく2年半程度経過しているのでは。
その間、お世話を続けた母薫子の気持ちの葛藤、体力と精神の消耗は凄まじいだろう。
なぜそんなに頑張れたかって、目の前に我が子の命があるからにすぎない。
大病中の子供の看病と、親としてすることは違わない意識なのだと思う。
目の前の妹親子の若葉ちゃんがどんどん成長し、身体とともに思考も大人びてきて発言もお姉さんになっていく過程と、瑞穂の容体との対比をさせられるのが、見ていてとても酷だった。
でも、若葉ちゃんは心も成長してきて。
全く悪気のなかった瑞穂の事故なのだが、一因を持ってしまった時、どんなに罪悪感に苦しんできただろう。
そこで、正直に話し、大きくなったら瑞穂の介護を手伝うと言い出せた勇気。
脳死状態の瑞穂を見続けるうち、周りも様々な想いを抱き変化していく。
弟の生人も、外の人間が脳死状態の姉を見る目にもろに晒されて、家では祖母も母も瑞穂につきっきり。
寂しい気持ちを思うと、辛くてたまらなくなる。
皮肉な事に、目の前のその人に本当にいて欲しいと思う気持ちは、薫子の中では、和昌に対してよりも、健常な生人に対してよりも、瑞穂に対しての方が大きかったのでは?
でも、瑞穂に関してそれぞれが気持ちを打ち明ける事ができて、話し合えた時、薫子と妹も、祖母と薫子も、薫子と和昌も、家族になれた気がした。
受験や離婚や娘の脳死状態を通してもなお、家族に当事者としてぶつかることをしなかった和昌が、何をもって死とするかの実感があったのは、心臓が止まった時だった。
ところが、心停止したあとの瑞穂の心臓は移植され、物理的にも別の子の中で生きている。
脳が死に、心停止してもなお、瑞穂は生き続ける。
瑞穂との記憶や想い出や存在感も一生、生き続ける。
心の中にどんなに生きていても、肉体の死は受け入れ難い。
でも、肉体をどんなに生かして笑顔に操作しても、心からは笑わせられない。
心からの笑いは、脳が生きているから。
生きているうちに、生きている家族や周りと、
心を通わせよう。脳を通わせよう。
お別れが突然の死でないからこそ、
判断が生命に影響してしまうからこそ、決められない。
見てて苦しくなる
最初の30分は集中して見ていたのだが、母がただただ狂気的になっていく姿にスポットが当たっているので、見ていて気分が悪くなった。テーマはとても大事で慎重な題材なので、もう少し違う方向で映画が作れたら良かったのでは?と思いました。
ずっと重い
誰も答えが出せないでだろう、脳死に向き合った作品。 それを東野圭吾らしくヒューマンミステリーとして仕上げていました。 我が子を願うばかりに、どんな物にでも縋り付くかのような家族。 それは観客全てに選択を迫られるような厳しさがありました。 物語はこの答えの出ない問題の前に、ずっと重い空気が漂います。 また、同じような年の子を持つ親として、その心情は痛いほどわかるんですよね。 その、子を思う愛情は徐々に形を変え、それは愛なのか、ただの止まれない狂気なのか、そんな何かに変化していきます。 この段々と現実から乖離していくかのような様子を、主演の篠原涼子が実に良く演じていました。 クライマックスのシーンでは子役も含め、皆緊張感のある良い芝居だったと思います。本当、見入ってしまいましたから。 終盤からは見ていてずっと苦しく、ラストの未来に繋がる感じにやっと救われた気持ちになれました。 本当、重かったです。
考えずにはいられない もしも、もしも自分の子供が と 自分の身体だ...
考えずにはいられない もしも、もしも自分の子供が と 自分の身体だったら簡単に臓器移植にしてほしいし現にそのようにカードも持っている だけども、我が子がそうなってしまったら… どうすれば心の落ちどころを持っていけるのか その未来を考えればいつまでも面倒をみることは不可能だしいずれは答えを出さなければならないはず とても簡単に答えを出せない けれども、どうしなきゃいけないかは始めから分かっている ただ、簡単に踏ん切りをつけることなんて出来やしないでしょ
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