響 HIBIKIのレビュー・感想・評価
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響の生き様
いい映画でした!
平手友梨奈は初主演とは思えない芝居を見せてくれました。
平手→マジで響。芝居も自然で上手い。当たり前だが可愛すぎ!綺麗!ゴスロリ姿ヤバイです。笑 やっぱり平手アイドルでもあるんだよなと再認識。
(どうでもいい?けど、やはり意外と胸でか(ry←)
北川、小栗、柳楽、高嶋、吉田、アヤカ
→豪華ベテラン勢の演技はやはり素晴らしかった。
特に小栗の芝居は存在感や説得力が凄かった。伝わる。
大河組は本当流石の演技力で本当に豪華なメンツだと思います。
あと予想以上にアヤカの芝居上手かった。
そして最後に主題歌素晴らしいです!主題歌泣けます。
ひとつだけもったいないなと思ったのはエンディングだけかな。
でもでも面白かったです!!
ぜひぜひみなさん気になったらまずは劇場で観ましょう!!
現実と映画はそりゃ違いますよね
昨日夕方の回を友人と見てきました。一応、ライトな欅坂46のファンです。
てち(=平手ちゃん)が主役の映画なので、てち好きの方が見る分には損しないと思います。
「あ~、やっぱり最近のダークなてちなら響にはまるなぁ」と素直に感じました。
ストーリーは漫画に沿って忖度や自分の私利私欲にまみれた大人たちをぶった切る流れなので、中高生にはウケルだろうと思います。
(私は少しオバサンなので100%共感はできませんでしたが(悲))
なので映画の評価はまずまずの☆3.5ってところです。
で、帰宅してTVをつけたら「行列のできる~」にてちが出ていてビックリ!
でも見ていると周りの大人たちがてちに気づかいしまくりで、監督でさえ平気で「脚本をてちの意見に合わせた」みたいなこと言ってて二度ビックリ!!
なんですかこの展開!
さっきまで痛快に大人へのアンチテーゼを表現してたはずなのに、現実世界では逆に忖度だらけの大人を生みだしてるの?
関係者の人たちは何考えてプロモーション(?)をやってるんですか?てちが気の毒です。
てちもこの「何でも自分の意見を受け入れちゃう大人たち」に心酔しているみたいでちょっと大丈夫?って感じを強く受けました。
(某大物プロデューサーにもそうですが)
どうしても映画とTVセットの感想になってしまいトータルすると☆2.5になっちゃいました。
ごめんなさい。
面白い映画でした
何を観せられたんだ?
このレビューの題名は「響」鑑賞後の一番の感想だが、私がこの夏欅坂46の野外ライブと全国ツアーを観終わった後の感想と同じだった。
これは果たして映画なのか?
平手のは演技と呼べる出来だったのか?
鮎喰響と平手友梨奈が極めて似ているという部分以外には何の意味があったのか?
映画として考えると疑問だらけだった。
このなんちゃって映画と平手は、現在の欅坂46が抱える問題と平手の立ち位置と同じだ。
劇場鑑賞後に色んなインタビューや監督、平手、共演俳優のコメントなど目を通してもやはり観て感じたままだった。
平手の意見を各所に取り入れたばかりに監督の存在がまるで無いかの様。
(監督が平手にヘソを曲げられるのを避けていた様なエピソードもあった。)
監督も共演者もメディアも客もこぞって「天才」「カリスマ」と持ち上げ、平手さえ存在感を示せればそれで良いかの様な反応ばかり。
「響」が映画という作品であることから皆目を背けている。
欅坂46もまた「=平手」としか思われ他のメンバーの存在が薄いのと同じで「平手坂46」と揶揄される様に、この「響」は平手絶対主義な異常で歪な映像でしかない。
平手友梨奈が素晴らしい!
原作のファンですが、ここまで響になりきってもらって感無量です。平手友梨奈のソロによる最後の主題歌も胸に迫ってきました。コミックの五巻分を2時間に入れ込む為、相当省略と駆け足感がありますが、全ての欠点を平手友梨奈=響という存在が帳消しにしています。
転栽~畑を変えて栽培する方法
凡人が発想する「こうゆう破天荒、奇異さが天才」感。才能の説得力は無く、云わば1人を際立たせる為のフォーメーション組んでみせてる欅坂の平手と響はそういう意味でまさに嵌まり役。
騙し絵的説得力、とでも言おうか。
天才って、フォーメーションにはまるものではなくフォーメーションの概念すら超えてゆくものだと思うのは、おれが「解らない大人」なのだからだろうか?正当化される暴力に爽快感も説得力も感じなかったのは、やっぱりおれがつまらない大人なのだからだろうか。訳知り顔で天才だなんだと誉めそやす知識人ぶった大人よりは、つまらない大人のままで充分幸せ。これより面白いものならば世の中に溢れてる。
最後に平手。ビジュアル系譲りのステージ睨み芸にしろ、響にしろ、原作ありき以外の概視感を感じないオリジナルを見せて欲しい。天才という評価が的を得ているのならば。
響の良さが伝わらず残念
平手さんのファンなので原作を読まずに観にいきました。
ファンとしては色んな平手さんが見れて良かったのですが、アクションシーンに時間をかけすぎたのかそこばかり目立って響の内面の良さが伝わってこない。
響と近しい人以外にはただの暴力少女にしか見えないのに、それがまかり通っている所にも違和感があり…
原作見てませんがおそらく響はもっと色んな思いや相手とのやりとりがあってからの暴力実行だったのでは?と想像しました。
こんなに単純じゃないと思う…2時間で表現するのは難しいのでしょうね。
1番気になったのは終わり方です…うまく言えないのですが中途半端で結局響の生き様のどこを伝えたかったのか本当に私には分かりませんでした…コミカルにしたかったにしては弱いし…どういう意図なんだろう。響の良さを伝えるもっと違うエンディングシーンが原作になかったのでしょうか。
マンガ大賞を取ったくらいの漫画ですから原作はきっといいのでしょうね…原作が読みたくなりました。
平手さんが、この映画は好き嫌いが分かれると言っていた意味がよくわかりました。
あと最後のソロの曲、今までにない情感ある歌い方でファンとしてはすごく好きなのですが、歌詞が響とは合わないような。
響は誰かの期待に答えられなくてごめんとは思わない気がしますし…平手さんのイメージを秋元氏が書いた感じです。
脚本のせいなのか響の良さを掘り下げきれず、平手さんメインなだけの映画に見えてしまって残念です。
平手さんの希望で当初の脚本を少し変えたそうですが、どこをどう変えたのか知りたいものです。
生き方を考えさせられる素晴らしい作品
自分の生き方を見直すような素晴らしい作品に出会いました。
本作の主人公である鮎喰響は、その発言や暴力性から周りから「異常」だとされています。
しかし、響はどこまでも真っ直ぐで誰よりも純粋であるが故に、周りに流されることもなく、自分の価値観に忠実に生きてきただけであり、
もしかすると「異常」なのはどこかでそれを失ってしまった響の周りの人たちやスクリーンの前の私たちなのかもしれません。
そんな響と接することで、徐々に変わっていく周囲の人間たちの心の動きや価値観の揺れこそ本作のメインテーマなのではないでしょうか。
だからこそ、ストーリー的に「ここがメイン」というシーンや、明確なクライマックスというものはなく、淡々と物語が進んでいるように感じる人もいるかもしれません。
ただ、ここで描かれているのは響の「ドラマ」ではなく、あくまで響にとっての「日常」であり、一見すると「おかしい」「異常」と捉えられるような行動も、響にとっては「当たり前」なのです。
そんな響の生き様を観ることで、スクリーンの前の私も響の周囲の人たちのように自分の生き方、価値観を考えさせられました。
最後に作中の鮎喰響のセリフから引用して
「つまらないって言うのは構わない、でもちゃんと読んで判断しなさい。そうじゃなきゃ卑怯よ」
少しでも興味のある人はぜひ観に行ってみてください。
痛快さと危うさの同居
観ている間は面白かった。しかし観終わったらなんとなく重い気分になってしまった。
大学時代に応援団長をしていたという中小企業の社長がいて、その男が応援団時代に先輩から「場を乱すな」と教わったと得意げに言っていたのを聞かされたことがある。非常に不愉快であった。KY(空気読めない)という言葉が一般に広まったとき、同じ不快感を感じた。
日本社会の支配層にはこの元応援団長みたいな人間がうようよいる。最近次々にパワハラで訴えられているスポーツ界の老害たちも多分そうだ。そういう連中の、全体のために個々の意見を封殺するという考え方は、民主主義と真っ向から対立する、文字通りの全体主義である。
テレビで漫才コンビのダウンタウンが「空気読め」と怒鳴るのを聞いて、非常に苦々しく感じていた。何故空気なんか読まないといけないのかわからないのだ。同じように不快に思っていた人も結構いると思う。
ところが、だんだんKYという言葉が浸透してくると、一般人の間にも空気を読まないのはよくないことだ、みたいな考えが広まり、言論の自由を自分たちから放棄する世の中になってきてしまった。若者にアベシンゾウ支持が多いのも、そのあたりかもしれない。一億総体育会系と言ってもいい。
全体主義の共同体では、全体のためにと言いつつ、結局は支配的な立場の人間の個人的な意見ばかりがまかり通ることになる。スポーツ界のパワハラの構造と同じだ。それは結局、ナチスと同じ独裁主義である。
人間には無意識に安全無事を願うところがある。「君子危うきに近寄らず」とか「李下に冠を正さず」とかいった、保身が目的の諺を大事にしているのはその現れだ。
本作品はそういったKYとは対極にある自由な女子高生が主人公である。誰もが安全無事を願い、穏便に済ませようとするような場面でも、主人公は言葉を飾らず、敬語を使わず、本音だけで勝負する。攻撃的な言葉に対しては、時に実際の暴力で対処する。
痛快さはたしかにある。しかし危うさもある。その危うさとは、自分の意見で相手の人格や人権を蹂躙することに反省がないところだ。暴力は常に相手の人権の蹂躙である。言葉の暴力という言い方がある。確かに人を傷つける言葉はある。しかし、それに対して暴力で反撃するのは戦争主義者である。言葉は常に多義的であり、他人の本心をすべて理解することはできない。そもそも自分の本心さえなかなか理解できないのだ。にもかかわらず自分の理解だけ、自分の価値観だけで相手に暴力を振るうのは、いかにも理不尽である。
社会で生きていくには他人と折り合いをつけなければならない。そのために何が必要かというと、寛容であり、想像力である。この映画の主人公みたいに不寛容な人間は、KYと言われて排除されるかもしれないが、場合によっては共同体の中で力を持つようになるかもしれない。自分の価値観で他人を断罪する人間が、権力を持ち、そして暴力に裏打ちされれば、近頃摘発されているスポーツ界のパワハラ指導者たちと同じことになる。
本作品は、そういった痛快さと危うさを併せ持つ主人公が、闇の中で高いところに張られたワイヤーを目隠しして綱渡りするような、そういう映画である。主人公に感情移入はできないが、北川景子の花井ふみや小栗旬の役には感情移入する。つまりこの映画はトリックスターを主人公にした、価値観を次々に相対化させていく作品なのである。そういうふうに理解すれば、観ている間は面白かったのに観終わったら重い気分になったことの合点がいく。
響
期待はずれ
サヴァン。
キャスティングの勝利。
原作未読で観てきました。なので原作の響との違いとかあまりわからないけど、聞くところによると原作者自らが強く主役としてのキャスティングを希望したという平手友梨奈さんはおそらく原作の響そのままの佇まいなんでしょうね。というか、平手友梨奈さんのイメージがそのまま原作の響というキャラクター造形に反映されてるのではないかな?それぐらいあの強烈なキャラクターが平手さんにピッタリハマっていたし、良くも悪くも映画の出来までがそこで決められたような気がする。
作品内容を簡単に説明するなら、飛び抜けた文才を持ちながらそれ以外の人間性がポンコツ故に純粋で悪気一切なく破天荒な行動を次々と起こす現代のアウトロー響と、彼女に関わらざるをえなかった人々の騒動をセミドキュメンタリーとして追ったのがこの作品、となるだろうか。小説家が主人公の映画なのに、作家が執筆に葛藤するありがちなシーンやその作品内容に触れてるシーンがほとんど出てこない。とにかく人を殴るは蹴るわ、響のやらかすことをハラハラワクワクしながら観てもらったらそれでいいのかなと思う。
天賦の才に恵まれた者にしか出せない有無を言わさない説得力と否応無く周囲を巻き込んでいく影響力。そして相手を三白眼で睨む時の顔、顔、顔!演技とはいえゾクッとするカッコ良さ!もう響無双と呼んで差し支えない!そのぐらい単純に痛快なエンタメとして楽しめました。
余談ですが。響の親友兼ライバルとして『パコと魔法の絵本』にて子役のヒロインを演じ日本アカデミー賞新人俳優賞を史上最年少で受賞し話題になったアヤカ・ウィルソンさんが成人してスクリーン復帰してくれたのは喜びたいですね。
響の暴力は自己正当化を図る者への鉄槌だと思う
自分自身が響に思い切り飛び蹴りされたと思うほど、喝を入れられました。何に対しての喝か?
小難しく言えば『主体をすり替えることで自分の責任を免れようとする狡猾な人間』にいつのまにか自分がなっていることに対してです。
会議などでこんなような言い方を聞くことがあります。
『今期の営業目標が未達で終わることは許されません』
スポーツの試合などで、『これ以上の失点は許されません』という言い方は、勝ち負けを争う上で客観的な状況や事実が〝許さない〟のは明白です。ところが、『営業目標の未達』については、許さない主体が不明確です。会社が許さない、会社として許されない、という言い方をされると、なんとなく納得してしまいそうになりますが、よくよく考えたら、会社や組織に意思はないし、営業目標の未達で困ると意識するのはその部署の責任者がボーナスや人事評価の査定上、プラス点が貰えないということであって、目標未達を許さないのは、往々にして発言している本人なのです。
日頃から、その目標を達成することの意義や部下のモチベーションアップなどを図れているリーダーはそんな言い方はしません。それが出来ないリーダーに限って、あたかも会社とか組織とか、自分以外の〝権威ある何物か〟が許してくれないのだ、というように主体をすり替えて従わせようとしているのです。
受賞記者会見で質問した記者は個人的な感情を世間や社会が許さないということにすり替えているし、芥川賞作家は個人的なジェラシーを親の七光りの問題にすり替えて正当化しようとしている。新人賞同時受賞の作家は、すり替えどころか、ただのやっかみを他人へぶつけることを正当化しようとした。
つまり、響が暴力的になる時、その相手は必ず自分のやましさを自己正当化しているのです。
文芸部での指折り事件は、その後の暴力シーンに唐突感がないように見せるための伏線なのだと思います。
鮎喰響は人間の悪意に触れた時、暴力的手段で響くのです。
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