「山下達郎の主題歌が似合うような映画を観たかったはずだった」未来のミライ 天秤座ルネッサンスさんの映画レビュー(感想・評価)
山下達郎の主題歌が似合うような映画を観たかったはずだった
「時かけ」以来快作が続いていた細田監督だけれど、今回に関してはあまり楽しめる作品ではなかったのが本当に残念。
なんというか、過去の自作「時かけ」「サマーウォーズ」「おおかみこども」「バケモノ」の全てを自ら二番煎じし更に自ら下方修正してしまったような仕上がり具合に、期待外れというか肩透かしと言うか。
「未来のミライ」と銘打っているものの、未来のミライちゃんがさほど目立つわけでもなく、主人公はあくまでも男児”くんちゃん”。そしてこのくんちゃんが、生まれたばかりの妹の世話に追われて構ってもらえないからとワガママと言うたびに、不思議な力が働いて、それこそ”未来のミライ”ちゃんやら”過去のお母さん”やら”若き日のひいじいじ”と対面する、という展開になるのだが、その”不思議な力”に一切の説明がないのはまだいいとして、まるでくんちゃんがワガママを言うたびに(そしてのび太が「ドラえも~ん」と叫ぶ合言葉の如く「好きくなぁ~い!」を合図にして)時空を超えてお仕置きをされている、もっと言えばその罰を受けているかのように見えてしまうのがなんとも辛い。確かに、ワガママ坊やのくんちゃんに大人としてイライラしないでもないのだが、親にももちろん非があるのは大人として理解できる(完璧な親などいない。だからそれはそれでいい)。しかしその報いを受けるのが常に”くんちゃん”であるというのが大きな違和感だ。
加えて、そういった時空を超えた家族とのふれあいを通じて、くんちゃんはごく僅かに成長するのだとして(あまりそのような印象も受けなかったが)、その時その場所に常に肝心の父親や母親は不在であるというのも問題で、くんちゃんの成長に家族は常に不在のため、親は常に未成長のままであるし、一家の「家族の絆」や「家族愛」がまったく深まらないというのが最大の問題点だと思う。今まさに目の前にいる家族とのふれあいや許しあいからはまったく何も得られるものがないという、随分と冷めた親子関係のようだ。ワーキング・ペアレントのリアリティを追及して、あのような若い夫婦像になったのかもしれないが、彼らはあまりにも未熟な大人にしか見えなかったし、家ばかりお洒落で立派なデザイナーズハウスだが、その中に住む家族の絆の薄っぺらさを噛みしめるばかり。最初は「好きくなぁい!」を連発するくんちゃんに対する苛立ちも、次第にいつまでも成長しない親に対するものに移行しはじめ、結局主要な登場人物全員をまったく気に入らないという状態で幕を閉じてしまった。
山下達郎の爽やかなポップスだけがキラキラと瞬くように流れ、その時私は「そうだ。私はこの曲が似合うような映画を見たかったはずだった」と改めて思い出させられた。