「鼻水」志乃ちゃんは自分の名前が言えない いぱねまさんの映画レビュー(感想・評価)
鼻水
自分は『どもり』である。だからこそ今作品の当時の上映時は敢えて避けた。それは自分にとっての幾つかのコンプレックスの一つである問題に今更向き合う事を馬鹿馬鹿しく思ったのが原因である。
そんな気持の中で、33回高崎映画祭にて上映される本作を観ようと思ったのは、心のどこかに引っかかるモノがあったからだ。
ストーリーは、3人の男女が、いわゆる通常の人間ならば当然のように持ち得ていて悩むことなどない能力がそれぞれ欠けている特徴を背負ってしまったが故のそれぞれの青春期由来の自意識さと相まった“こじらせ”を爆発させたコンセプトになっている。主人公の女の子の“吃音”が常に痛々しさ、居たたまれなさ、羞恥を色濃く作品に落としながらストーリーはそれこそつっかえつっかえ進んでいく。自分と同じ症状がこうしてクローズアップされる作品は本当に初めてであり、始終相当心に疲労感を覚える。ホラー作品が昔よりも怖がらなくなった鈍感さを感じている自分でも、この屈辱はスクリーンをまともに直視できない程である。劇中でもエクスキューズしていた母音が苦労する件はまさしく自分も同じで、そして自分もまた母音のせいで名前が未だに聞き取り辛い筈である。そして周りの奇異の目が常に自分を苛み、生きている価値を益々奪っていく。肉親である母親が良かれと思って勧めた催眠療法でさえ、そのデリカシーの無さに憤りを覚えるのも充分理解出来る。自分も市町村の児童相談所に母親に連れられていった過去があるから。そんな傷だらけの高校生達が、一緒にバンドを組む事で世界の転換を目論むのだが、そんな簡単には“こじらせ”は治る訳でもなく、直ぐに3人の関係性は崩れる。そしてそれが結局元に戻ることなく作品はエンドロールを迎える、非常にクールで突き放す収束に仕上がっている。前半の謝罪時の涙と鼻水は屋外の太陽の下の煌めき、そしてクライマックスのそれは、屋内のライトに照らされての嗚咽。その対照的なシーンは夢と希望とは違うビターな現実を物語る意味合いを充分演出している。主人公の女の子にとって、他の二人の抱えている問題である“音痴”や“ADHD”は取るに足りない障碍であるのだろう。少なくても二人はそれでも前向きに生きようと努力している。要は打たれ強いのだ。それに比べて自分の自己嫌悪を吐出す件は、そういうときに限って“どもりが”治まる。要は自分を曝け出すことでしか正常に話せない不条理さに、自分を呪うばかりなのだろうと思う。本来ならばそんな条件が無くても人は普通に話すことが出来るのだから。
ラストの、それぞれの道を示唆するカット、そして主人公へのジュースのプレゼント、それはいつかは又3人が邂逅するかもしれない、そんな淡い願いをそっと偲ばせた清々しいエンディングである。
クライマックスで、ホール内の何人かの客のすすり泣きを耳にした。その感情の由来は、彼女への憐憫なのか、それとも同情なのか、それは解らない。しかし今作品は決して哀れみを共有して欲しいと作ったのでは無い筈。多分、一番訴えたいテーマは、『想像力の育み』であろう。自分と異なるモノへの安易なシャットダウンが進歩を阻む最大の悪因であるとストレートに提起している大変良質な作品であった。