「白痴の少女」フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法 判別者さんの映画レビュー(感想・評価)
白痴の少女
「これがアメリカの貧困層を描いた作品かぁ。なるほどね〜。でもそれにしては何か違和感あるなぁ」などと暢気に観ていて、ふと思った。
「ヘイリーは、どうして薬物を使用していないのか?どうして娘を虐待しないのか?金に困っているのなら真っ先に娘を捨てるべきではないか?なのに、捨てるどころか、どこへ行くにも娘を連れて行ってるじゃないか!」
いや、だってね、おかしいでしょう。どう考えても。普通の主婦ならまだしも、全身タトゥーで、サーティーワンのポッピングシャワーみたいな髪色で、恥も外聞もなくネットに下品な姿さらして、店で迷惑行為を働いて、詐欺もやって、挙げ句の果てには住民をタコ殴りにするとんでもない女ですよ?そんな女がどうして娘に対してだけはまるで触らぬ神に祟りなしと言わんばかりに干渉を控えているのか?
自分なりに答えが出たのは映画のやっと終盤でした。
貧乏親子には些か場違いとも言えるホテルのバイキングで食事をしているシーン。ここで初めて娘のムーニーの顔がクロースアップで正面から映し出されます。向かい合って座っているヘイリーの視点であることは言うまでもないでしょう。それが何ともフワフワとしていて捉えどころがない。顔面度アップなのに朦朧とした感じがスクリーンを覆ってぼやけている。ムーニーは「美味しい。美味しい」と言いながら食べ物やジュースを頬張ります。そして、次の瞬間、画面はヘイリーの顔面に切り替わります。つまりムーニーから見た視点ですね。これには思わずゾッとしました。まるで薬物が切れた時のような頬がこけてげっそりとしたヘイリーの顔面が鮮明に映し出されているからです。
ここでヘイリーと娘の関係がハッキリしました。
まず、ヘイリーとムーニーは形式上の親子であって、およそ親子などという関係では成り立っていない。ヘイリーにとってムーニーは薬物のように現実をボカしてくれる存在です。だからどこへ行くにも娘を連れ回し、家庭局に預けられることになると狂人のごとく暴れ散らした。完全に一方的な依存関係にあるんですね。
でも、新たに「ムーニーの視点から見たヘイリーの顔面の怖ろしさは一体何だったのか? 他のシーンとは明らかに一線を画しているぞ」という疑問がわきました。ムーニーはいつもあれほど克明に、残酷すぎるほど現実を捉えているのでしょうか?おそらくそうでしょう。しかし、あのショットはあくまでもムーニーの見え方でしかありません。私などはあれを怖ろしいものと解釈してしまうのですが、ムーニーからすると何でもない普通のことなのでしょう。つまり意識による修正なしにただあるがままの現実を見ている。
そうすると、さらに怖ろしい事実が判明します。
ヘイリーだけでなく、この映画もムーニーとずっと一緒にいるということです。つまり、映画自体がムーニーという磁場のなかにある。そして唯一それを回避し得た瞬間がムーニーから見たヘイリーのショットです。なぜなら、ムーニーが主体となることによってムーニー自身からの影響を避けられるからです。
なるほど、最初に書いた「違和感」の理由も分かったぞ。貧困層の現実を描いたという割にはどこかしっくりこなかったのは、それが隣にある夢の国から溢れ出た非現実オーラによるものでも、貧困層の巣窟のイメージとはおよそ乖離していて何なら「グランドブダペストホテル」を想像させなくもないあのパープルの格安モーテルのせいでもなく、ムーニーという異物の存在によるものだったのだ。すべて合点が行く。
いくら底辺の集まりだからといっても、屋敷に火を点けて燃やした翌日にそれをすっかり忘れてしまうほど欠落した人間などいるはずがない。現にスクーティという男友達はかなり後までそれを引きずっているではないか。なのにムーニーだけはそんなものどこ吹く風といった感じで自由奔放にふるまう。この白痴の少女はスクーティと遊べなくなってもまったく気にしないし、母親であるヘイリーと離れ離れになると知ってもほんの数秒しか抵抗せず、あっさりとこの問題を放置し、なぜか女友達ジャンシーの家に向かう。そして突然泣き出すのだ。「ジャンシーと会えなくなるかもしれないから」というとってつけたような理由で。もはや意味がわからない。そしてジャンシーはムーニーに洗脳されたかのごとく一言も言葉を発さず、私たちを夢の国へと連れて行く。
これはムーニーの容赦ない残酷さが映画自体にもたらした大事故だと思わずにはいられない。本来ならヘイリーの「ファック!」で映画は終わるはずだ。しかし、そこからは正直、本編とは別に撮られた感じさえある。もしかすると、ムーニーが出来上がった映画をいじったのではないか?なんてバカげたことはないか。。