「恋路に向き合う三人」君の名前で僕を呼んで 純さんの映画レビュー(感想・評価)
恋路に向き合う三人
ジョン・アダムズのHallelujah Junctionが好きで、動画配信サイトでよく彼の曲を聞いていたのですが、その関連動画として、「君の名前で僕を呼んで」の予告を拝見しました。3年前の夏のことでした。ラヴェルのUne barque sur l'océanに乗せて流れる予告動画を見たときから、ずっと拝見したかった映画でした。そして、今年9月になって初めて、観る機会を得ました。鑑賞して以来、いままで折に触れてこの映画のことを思い返すようになりました。しかし、何故こうもこの映画を思い返すのか、何がそれほど気になるのかが、自分でも分かりません。
【「大人」と「子ども」の恋】
博学多才で、誰とでもすぐに仲良くなってしまう気さくな青年オリヴァーと、同じく才能にあふれているが、どちらかといえば内向的で気難しい少年エリオの恋。自転車に乗ってエリオがオリヴァーを街へ案内するシーン、バレーに興じるシーン、これらでさりげなくエリオに触れるオリヴァーは、最初からエリオに惹かれていました。しかし、エリオはと言えば、オリヴァーがエリオに対して「いろいろと難しすぎる」と零したように、その内面はどうにもよく見えてきません (オリヴァーがさっきの演奏をしてくれと何度頼んでも、素直に応じない件もそうです)。音楽の才能があり、オリヴァーの気品と知性に溢れた人格に魅力を覚えたのも間違いではないでしょう (エリオがイタリア人夫婦の矢継早なおしゃべりに堪えられなかったのは、見せかけの知性に対するアレルギーのようなものだったのかもしれません)。おそらく、表面からでは伝わりづらいエリオの情景を、M.A.Y. IN THE BACKYARD、futile devices、Une barque sur l'océanなど、様々な曲が表現(説明)していたのだと思います。楽しい、悲しい、嬉しい、憎々しい、といったただ一つの単純な感情ではなく、本人ですら翻弄されるような移り気で複雑な感情は、音楽によってしか表現しようがなかったのかもしれません。
しかし、流れるように虚ろ気な気分に委せたままのせいか、エリオが「いつも不安気」に話をしているようにオリヴァーには見えていました。オリヴァーとエリオの大きな違いは、相手にどのように向き合うべきかを、オリヴァーはその都度見定めていた点です。オリヴァーは、キアラという少女に表面的にでもきちんと応じる紳士であり、エリオの告白に対して嬉しくもありつつ、自分の感情・都合だけに流されず、世間一般の常識を省みて、「話してはいけない」、「恥ずべきことは何もしていない」と言ってエリオを制する善良な青年でした。初めてエリオとキスを交わしたオリヴァーは、エリオと距離を置きます。それは単に、常識を省みた上で節度ある態度を取るべきだと判断したからではなく、マルシアと結ばれる方がエリオにとって幸せなはずだと慮ったからにほかなりませんでした (鼻血を出したエリオの許へマルシアを向かわせたオリヴァーの行為は、そういうことだと思います。あるいは、オリヴァー本人にも、何とも言い難い戸惑いがあったのやも知れません)。
エリオには、オリヴァーの行為が「裏切り」に見えていました。そんなエリオに対するオリヴァーの言葉は、「大人になれ。夜に会おう」です。エリオは、約束の夜の前に、マルシアとデートをして、しかもセックスまでしてしまいます。こうして見れば、エリオはやはり「子ども」です。相手の行為の意味を冷静になって察するということは「大人」であろうと、難しいものでしょう。しかし、オリヴァーのことは気にはなるが好きなのかどうかも漠然としたまま、不安な気分に駆り立てられ、自分にとってマルシアとは何なのかも分からないままに、セックスにまで及んでしまう。エリオは、経験が浅く思慮が足りないガキである、と言っていいかもしれません。
オリヴァーとのセックスの後、オリヴァーはエリオの素っ気ない態度に不安を覚え、「昨夜のことで僕を恨む?」と聞きます。街に出たあと、オリヴァーは「悔やんでほしくない、君を苦しませたかと思うと辛い、どちらも犠牲になるべきじゃない」と言いますが、エリオは「昨日のことを誰かに言うつもりはない」と言います。オリヴァーが手紙で「大人になれ」と書いたのは、世間体も気にしろ、ということではなく、世間の常識もそうだが、一番大切なことは相手のことを気遣う思慮だ、という意味だったのだと私は解釈しています。24歳と17歳の恋は、その年の差のとおり、「大人」と「子ども」の間の恋です。
【研究者の孤独、父親の存在】
ではなぜ、気難しい上に「子ども」であるエリオにオリヴァーはそこまで惚れてしまったのでしょう。オリヴァーは初めからエリオに惹かれていたようですが、バレーボールのときから距離を取るべきと決めていました。それにも拘らず恋に落ちたのは、おそらく哲学者ハイデガーに関する論文の内容をエリオに聞いてもらった時だと思います。「根底的な隠蔽は人間を構成する。それは自己のみならず他の存在者との関係でも同じである。彼ら(古代ギリシア人)は存在者の人間との関係のみで隠蔽を解釈しているのではない」。隠蔽(「覆蔵(Verbergung)」のこと?)という仕方で、人間は真理に関わっているということがオリヴァーの主張だったのでしょうか (あるいは「僕には秘密がある」という遠回しな告解だったのでしょうか)。一読しただけでは読者のエリオも、書いたオリヴァー自身ですらも分かりませんでした。しかし、エリオは「書いてたときは違った?」と聞きました。オリヴァーは将来有望の研究者ですが、研究とは世間からは理解されない世界をたった一人で歩むことですから、その営みはずっと孤独なものです。エリオの何気ない一言は、エリオ本人にはそんなつもりでなくても、オリヴァーには自身の孤独を理解してくれたかのように響いたのかもしれません。何気なくボディタッチまでしてしまうほどに惹かれてしまった相手は、自分のことを理解してくれるかもしれない。これは、恋に落ちてしまう理由にはならないでしょうか。
エリオの両親は、そんなオリヴァーとエリオの様子をよく見ていました。大雨の日、エリオの母はドイツ語で『エプタメロン』を朗読し、ある王女に仕える騎士が自身の恋心を王女に「話すべきか、死すべきか」で葛藤するところを語って聞かせます。「話すべきか、死すべきか」とはつまり、自分自身にごまかしを許さない、という厳しい姿勢です。恋路とは単に甘いだけでなく、苦しく厳しいものであるのだと、この映画の中で初めて仄めかされます。エリオの父(パールマン教授)は「私たちはいつだって話を聞く」と言い、常に深い愛情を以ってエリオに接します。ですがその愛は、実は大抵の親以上に厳しいものです。
オリヴァーと駅で別れたエリオは、父の許で彼の話を静かに聞きます。この映画のもっとも静謐なシーンです。
「大抵の親は息子に早く立ち直ってもらいたいと願う。でも、私は違う。人は早く立ち直ろうとして自分の心を削り取り、30歳までに枯渇させてしまう。新しい出会いの度、与えるものが減っていく。だが何も感じないこと、自分の思いを無視することはあまりに惜しい。・・・・・お前の人生はお前だけのものだ。だが忘れるな。この心と身体を手に入れることができるのは一度だけだ。やがて心が擦り減る、気づかぬうちに。肉体については見向きもされない時が来る。そして近づく者すらいない。今お前は、悲しく、辛いだろう。だが押し殺すな。せっかくの喜びも死んでしまう」
パールマン教授は軽薄な気安めも慰めもエリオには与えません。彼はエリオに、自分が今抱えている苦しみから目を背けず、ちゃんと向き合いなさい、と言うのです。(それは、エリオにできる唯一のことだからでしょうか。それは、エリオだけでなく、私たちにも言えることでしょうか?) パールマン教授は、苦しいのだったら早く忘れて普通でいるのが一番いい、とは決して言いません。気安めや慰めで苦しみをごまかしてはいけない、そんなことをすれば喜びも絶え、心がすり減っていく。自身もエリオと「同じ」であったと告白したパールマン教授の言葉は、とても意味深長なものです。
プールサイドの光の乱反射、ガルダ湖の清らかな波打ち際、庭園の瑞々しい緑の場景、家の中を吹き抜けていく風.....イタリアの乾燥した空気の中に現れる強烈な光と影のヴィジョンのなかで、オリヴァーやエリオの肉体は、ギリシア・ローマの彫像のように美しく映えました。エリオにたかるハエや、汁気の多い桃に代表されるような豊穣な生命力にあふれたシーンもまた印象的です。しかし、それらもいずれ衰えていきます。肉体も季節も、心ですら、「気づかぬうちに」擦り減っていくのです。パールマン教授がエリオに示したことは、死すべきものの運命そのものです。それは、ただ単に、すべての事柄には終わりがある、というだけではないでしょう。「心と身体を手に入れるのは一度だけ」、「押し殺せば喜びも消える」、しかしどうしようとも心は「擦り減る」。死すべきものの運命には、悲哀が溢れています。(ですが、パールマン教授自身は、そんな死すべきものの悲哀があろうと、明るく朗らかで、深い愛情に満ちています。それが何故かは、これから自分なりに分かっていけたらいいなと、私は個人的には思っています。)
オリヴァーとエリオの電話でのやり取りの中、オリヴァーの印象的な言葉があります。お互いを自分の名前で呼び合い、そしてオリヴァーは「何一つ忘れない」と言います。忘れることで人は自分自身であり続けることができるものでしょう (変化することで同一であり続けるというヘラクレイトスの断片に関するオリヴァーの考察にあったように)。しかし、「何一つ忘れない」とは、死すべきものの運命に抗するかのような、「不死」の宣誓です。あるいはむしろ、この「不死(変化に揺るがされない自由?)」があるから、死んでいく時間や自分の心や肉体を受け入れていくことができる、という意味も、この映画の中には含まれているかもしれません (おそらく、考えすぎでしょうが)。何にせよ、オリヴァーもまた、パールマン教授の愛情を正しく受け取っていたのだと思います。
【エリオの涙、マルシアの存在】
ここまで映画の内容を自分なりにまとめて来て、どうしてこれほどこの映画のことが気にかかるのかが何となく見えてきました。ひとつは、エリオが最後に流した涙の意味です。エリオは何のため(何ゆえ)に泣いたのでしょう。オリヴァーの結婚と自身の失恋への涙? オリヴァーの誠実さに対して自分の過去の軽薄さが分かったから? あるいは、自身もまた何一つ忘れまい取りこぼすまいと、じっと堪えているから? 多分、複雑で難しい問題だと思います。
もうひとつは、マルシアという少女の存在です。結局この映画にとって、マルシアとはどういう存在だったのでしょう。「本を読む人って、謎めいてる。本当の自分を隠してる」と言うように、エリオの複雑さをマルシアもオリヴァー同様見抜いていました。「あなたは私を少し傷つける、それは嫌」、「私、エリオの彼女?」。エリオはそんなマルシアに対して、言葉で何かを明確にはしませんでした。
彼女との間での苦しみは、エリオにとって何の意味があり、傷ついたマルシアの苦しみは何のためにあったのでしょうか。オリヴァーとエリオとの間で、恋の苦しみがあったように、マルシアにも苦しみはありました。「私、怒ってない。エリオ、大好き。ずっと友達よね? 死ぬまで」。この言葉がどのような過程を経て紡ぎだされたのか、推し量るに余りあります。マルシアにとって、エリオとはどんな存在だったのでしょうか。そして、この映画(エリオの物語)全体の中で、マルシアとはどんな意味のある存在だったのでしょうか。
分からないことは諸々あります。ですが、モヤッとしたものを残せる分だけ、この映画は良い映画だったのだと思います。折に触れて、私はこの映画を思い返すことでしょう。