ナチュラルウーマンのレビュー・感想・評価
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素敵な女性
主人公はトランスジェンダーのマリーナで、彼女の最愛の人オルランドが急逝してしまう所から物語は始まる。
最愛の人、生きていく上でかけがえのない人。
オルランドを失った彼女が直面する、死別とはまた別の苦難の数々に、観ている私たちも打ちのめされるような思いがする。
マリーナの事情が事態をより複雑に、より困難にしていることは当然伝わってくる。
けれども、愛した人との出会いの形や、関係の結び方次第では、マリーナがトランスジェンダーでなかったとしても当然あり得るように思う。
「浮気相手と一緒になるから」と離婚を突きつけられた奥さんだったら、籍を入れないまま一緒に暮らしていたら、どうだろう。
「葬式に来るな」「親父の家から出て行け」くらいの当然あるべき権利を不当に奪われるケースはかなり高い。
これはLGBTの抱える問題が描かれつつも、それに特化しただけでない、普遍的な個人の持つ多様な生き方を否定する考え方を批判的に描いている映画だ。
少なくとも私にはマリーナのことを全くの他人事とは思えず、ヘテロセクシュアルな男女を一組のつがいと見なし、その血縁を継ぐ子どもを含めた「家族」だけが正常で普遍、とする社会の認識は、今や実態からあまりにも遠いのだと改めて思った。
マリーナほどでなくても、生まれついた性別の規範から外れる行動をした時、やいのやいの言われることはままある。
「男に生まれてたらもっと出世出来たのにな」とか、「もうちょっとおしとやかにしたら?」とか「大人しくしてれば可愛い」とか。
言ってる方は「良かれと思って」「むしろ褒めてるつもりで」言ってるのだろうけど、「お前は何様だよ?」と思う時もある。
そんな時、自分をまるごと受け入れてくれる人、人生を共に歩んでくれる人は、マリーナにはもういない。
逆風の中を、たった一人で歩き続けるしかない。
思えばきっとオルランドは、マリーナにとって冷たい風を遮ってくれる温かな壁であり、冷たい雨から守ってくれる傘のような存在だったのだと思う。
そんなオルランドの「不在」を受け入れたマリーナが、それでも「自分らしく」生きていこうとする姿に、勇気を分けてもらえる素敵な映画だ。
映画を知りて生きていく活路を見出してきた35年の私が推す作品
男性が男性と思ってることが更々おかしな話。逆もしかり女性が女性と思ってることも同じ。簡単に言ったらそんな所だが本当に男性が男性しか無理な人もいるだろうし女性が女性しか無理な人もいるだろうし
男性が実は女性で女性目線でしか女性を見れない人もいるだろう。逆に女性でありながら男性でその目線でしか男性を見れない人もいる。私は幼少期女性になりたかった男の子とデートしたかった。それでも女性からバレンタインデーや誕生日プレゼントを貰ったりしてたのだが相手の女性には申し訳ないが男性とのデートが楽しかった。女性より男性のほうが優しいのだ。今も私はそう思ってる。女性は勝手気ままで自分中心の人が多いが男性は大半私の言うことを聞いてくれる。それこそ無償で性の関係なくで。更に女性は身体を求めたがる、間違いなく男性のほうが身体好きなのは間違いないが男性は単純明解なんで、そんな肉体好き変態野郎とは私はかなり距離あけてしかつきあわないようにしてる。肉体好き変態野郎のプレイは男女問わず共に知的要素が含まれてない。ここにまだ変態要素でも入ってたらまだましたが、その日その場の欲求を満たすプレイでいいのだが、ただの欲の発散だけなら寂しいもんだ。肉体的な話を精神的構造と織り交ぜながら話を出来る人達はおそらく、男性だの女性だのには捉われないと私は信じてる。美だ肉体美、内面的な美しさ、知的要素からの美・さまざまな美が人を惑わし人を翻弄する。いいじゃないか、短い道のりドタバタドタバタと様々な者に翻弄され様々な者に優しく接し様々な形で様々な愛を恋を楽しめば良いのではないかと思う。
あなたの愛は昨日の新聞みたい
映画「ナチュラルウーマン」(セバスティアン・レリオ監督)から。
自分らしさを守るために行動した、トランスジェンダーの女性、
その主人公マリーナ役を自身もトランスジェンダーの歌手が演じた。
話題性としては面白いが、物語としては今ひとつだった。
それでも気になる一言は、その彼女が冒頭に歌った歌詞から。
「あなたの愛は昨日の新聞みたい。
誰ひとりもう読みたくない。朝刊を見た時は衝撃的だった。
お昼にはみんなに知れ渡り、午後にはもう忘れ去られた。
あなたの愛は昨日の新聞みたい。
一面には見出しがいっぱい、あなたはどこでも人気者。
私はあなたの名前を切り抜いて、忘却のあるばむに貼り付ける。
あなたの愛は昨日の新聞みたい。
昨日の新聞を読んでどうする?、ニュースはみんな知っている。
もう読みたくない。
あなたは役立たずよ、ベイビー。ゴミ箱にポイ。
あなたを愛して支えてきた、だけどもう愛してない」
この例えは、なかなか新鮮で、私のメモは溢れた。
「あなたの愛と掛けて、昨日の新聞と説く。
その心は「あなたは役立たず、ゴミ箱にポイ」ってことなんだろうな。
自分らしく、愛を謳って
本年度アカデミー外国語映画賞を受賞したチリ映画。
おそらく受賞理由は、今ハリウッドが求める偏見の無い性の自由や社会的マイノリティーの訴えなどが評価されての事だろうが、それでなくともヒューマン・ドラマとして秀作。
気になってて結構期待してたが、こりゃ期待以上に良かった!
昼はウェイトレス、夜はクラブのシンガーとして働くトランスジェンダーのマリーナ。父親ほど歳の離れた恋人と暮らしている。
ある日、彼が急死。
それをきっかけに、社会のトランスジェンダーへの不条理な差別/偏見を受ける事に…。
まず、救急搬送先の病院で怪訝な対応。
搬送前、彼が自宅の階段から転げ落ちて怪我を負い、マリーナが暴力を振るったのではと疑われる。
病院に警察も呼ばれ、質問責め。
警察には後日呼び出され、そこで、恥辱的な取り調べ…。
彼の遺族と会う。
彼の弟はさほど偏見の無い人物だが…、
元妻は礼儀的に感謝を述べるも、言動に時々トゲがある。
差別/偏見の塊なのは、息子。
不法侵入。脅迫紛いの威圧的な物言い。果ては仲間と共にマリーナを無理矢理車に乗せ…。
もはや犯罪レベル。警察はマリーナを白い目で見るより、この男こそ厳重注意すべき。
元妻や息子の仕打ちはどんどん酷くなっていく。
一緒に暮らしていたアパートから出て行ってと言われる。
彼の葬儀が行われるが、参列しないでと…いや、もっとはっきり言うと、「来るな」と辛辣なまでに釘を刺される。
愛する人を失ったばかりか最後の別れを言う事も許されず、家を追い出され、可愛がっていた犬まで奪われ…。
何故、彼女はこんな苦難に見舞われる?
一体、彼女が何をした?
遺族からすれば、自分の身内がトランスジェンダーと…いや、ここは彼らの差別的な言葉で言ってしまおう。
自分の身内が怪物、オカマ、男オンナと愛し合っていたなんて、恥!
世間に知られたら、何て言われるか…。
そんな彼らの気持ちも少しは…これっぽっちも分からない!
例えば、マリーナの性格が最初から遺産を狙うような悪人だったら話は別だ。
マリーナは性的には“ノーマル”じゃないかもしれないが、性格的には“ノーマル”だ。
警察や社会の偏見にうんざりしたり、時々プチギレたりもしたけど、美しい心の持ち主だ。
時に社会は、人の性格より、世間体を重視する。
マリーナは葬儀に参列する。
散々罵られる。故人や遺族に敬意を払え、と。
敬意だと?
お前らこそ敬意を払え。
彼女が彼をどれほど愛し、最期までどんなに献身したか。
トランスジェンダーだからとかじゃない。
人の人に対する敬意を。
マリーナ演じるダニエラ・ヴェガは、自身もトランスジェンダーで歌手。
時に凛々しく、時に美しく見栄える存在感は圧倒的。
勿論、美声も披露。
本業が歌手だからと言ってそれに偏りせず、あくまでトランスジェンダーとしてのありのままの姿を描き切ったセバスティアン・レリオの演出も称賛モノ。
セクシャル・マイノリティーを題材にした作品だが、本作は、普遍的な愛のドラマ。
愛に生き、愛した人に別れを告げ、その変わらぬ愛を胸に、歌い、自分らしくあり続ける。
まなざしと鏡
チリはカトリックの国のせいか想像以上にマイノリティへの差別が凄まじくて辛かったけれど、主人公のマリーナの静かに意思を秘めたまなざしが印象的だった。
エレベーターの中で伏せていた視線をまっすぐこちらに向けた時の美しさたるや…!
恋人のオルランドが登場シーンからサウナの鏡越しで、亡くなった後も幻影?がサングラスとか車のミラーに反射して立ち現れ、マリーナもまた鏡に映る自らを見て行動に移してゆく演出が好きだったし、終盤の鏡を見るとあるシーンが最高に良かった…
マリーナが歌を生きがいにしてて、最後に自分が本当に歌いたい歌を歌って作品が閉じられるんだね…歌の先生を訪ねるシーンで「愛は探し出すものではない」と言われてたけど、彼女の中に愛が溢れてたよ 。
文字通りの強すぎる向かい風に吹かれても決して屈しない強さが素敵だった。
突風スゲ〜
2018年映画鑑賞60本目‼︎
自分の父親の相手が
トランジェスターだったら
あんな風に差別してしまうのか⁇
私だったら
絶対そんな事しないって
他人事だから綺麗事は言えるけど
こればっかりは
わからない...
ラストは
ちょっとファンタジー
葬儀場で見かけた
彼について行くと
最後のキスと
お別れが出来ました‼︎
犬も取り返せたみたいで
新しいスタートに踏み出せるね‼︎
マリーナの歌声素敵でした。
マジックリアリズムの凄み
本作はLGBT映画というよりも、愛と別離、再生、そして「自分として自分を生きる」映画だと感じました。
マイノリティーとして生きるマリーナにとって、唯一わかってくれる人がオルランドだったと思います。マリーナが強く生きることができるのは、オルランドとの関係が深く影響しているはず。
マイノリティーであるマリーナは偏見に曝されているし、法的に尊厳が守られてない可能性もあり、ナチュラルに生きることが難しいです。でも、オルランドの元では、ナチュラルに生きれたのでしょう。まさに、You make me feel like a natural woman です。オルランドの存在は唯一の安らぎであり、オルランドがわかってくれるから彼女は彼女自身になっていくことができたのです。彼女がエンディングで歌う歌曲の歌詞「木陰」はまさにオルランドのことでしょう。
そんな、深いつながりのあるパートナーが突然いなくなる。そして遺族の邪魔が入り、最期のお別れができない。ここでお別れができなければ、マリーナはマリーナでなくなってしまうのだと感じました。この世界に根差せたのはオルランドがいたから。オルランドを失った世界では彼女自身も失われる。彼女がこの先を生きるには、彼との物語を完結させ、歴史を内側に留めておく必要があるのです。
だから、マリーナの闘いは全力なのです。もはやマイノリティーなど関係なく、自分の全存在を掛けて最期のお別れをしなけらばならなかったのです。犬を取り戻すのは、犬が彼とのつながりを現実的にも心的にも証明するものだからでしょう。
そして、マジックリアリズムの強力さも印象に残ります。繰り返し現れるオルランドの面影。幻想とも取れますが、おそらく心的なイメージであり、彼女の中のリアリズムです。
特に終盤のオルランドの面影と口づけを交わしてからの一連のシーンはパワフルで、オルランドの遺体との対面〜ついに流す涙というクライマックスで強烈なうねりを作り出しています。
マジックリアリズムは個人的にめちゃくちゃフィットする技法です。頭での理解を超越して、核心的なものが無意識に直接投げ込まれるような体験があります。概して映画はそういうものかもしれないですが、マジックリアリズムだとそれがより研ぎ澄まされて心に届いてきます。
本作において、マリーナとオルランドとの関係は具体的にはほとんど描写されていません。しかし、2人の関係が本当に深くかけがえのないものであることがマジックリアリズムを用いた見事な演出で伝わってくるのです。凄い。
そして、リアリズムの面でもズバ抜けた説得力があります。マリーナ演じるダニエラ・ベガの存在感が本作を特別なものにしていると思います。実際にトランスジェンダーを生きているからかもしれませんが圧倒的です。崇高な印象すら受けます。また、歌がいいんですね。
トランスジェンダーとして生きるマリーナへの偏見や苛烈な暴力もたっぷり描かれてますが、オルランドの遺族から受ける迫害は、どっちかというと泥棒猫への嫌がらせの側面が強そう。なので遺族との諍いの話なのであまり乗れなかった。
印象に残るのはむしろさりげない偏見ですね。あと、身分証を見せるしんどさとか、日常生活の局面局面でキツさがあるなぁと感じました。そりゃ、家でパンチングしますな。
オルランドの遺族との揉め事が話の中心に置かれているため乗り切れない面もありましたが、後半から特に終盤にかけては凄い体験ができました。エンディングも別格。観ている時よりもむしろ観終わって考察している時の方が心が動きました。地味ではありますが、かなりの名作だと思います。
ダニエラ・ヴェガの熱演に驚歎。
最近は、トランスジェンダーや同性愛者などが映画に登場することも珍しくなくなったし、以前のように「道化役」としてその存在を笑い者にするためでなく、我々が生活する社会のごく当たり前の一部として描かれることも多くなってきたように思う。だから私はきっと油断したのだと思う。そしてとても単純な思い違いをしていたのだと思う。きっと今の社会はこういった差別から脱却しつつあるはずだ、というとてもシンプルな誤解を。
この映画のヒロインであるマリーナを見ても、序盤ではもう十分マリーナは社会と調和したトランスジェンダーに見えるし、最愛の恋人の死後、彼の妻にかけた電話のやりとりを見ても、マリーナに対しての差別的な物言いはまだ見えてこない。しかし、そこからストーリーが進んでいけばいくほど、妻がそして相手方の家族が、そしてこの社会が、マリーナに対して潜在的に抱いている差別意識と偏見がいかに根深いかが浮かび上がり、実は彼女のことを肯定などしてないという事実が次々に明らかになっていく。「差別から脱却しつつあるはずだ」なんていう私の思い違いを叩き割るように、厳しい現実を突きつける。
そしてそういった厳しい社会の中で差別にさらされて生きる女性を姿を、ダニエラ・ヴェガが心と体をすべてさらけ出すような演技で体現。実際のところ、この映画は物語が語るもの以上に、ダニエラ・ヴェガの存在が語るものの方が大きい気がする。彼女の姿、佇まい、演技、肉体、言葉などが非常に多くのことを訴えかける。こういうのが熱演だと思うし、彼女でしか表現できなかったことが見事に表現されていたように思う。マリーナは、そしてダニエラ・ヴェガは、決して強い人ではない。聖女でもないしそもそも特別な人なわけではない。ただ、次第に彼女のことがヒーローに見えてくる。現実の世界で傷ついたり失敗したりしながら闘い生き抜く、私の隣にいる英雄。私にとっては、彼女の方がワンダー・ウーマンよりもずっと英雄に思えた。
理不尽な世間と戦う人の物語
トランスジェンダーが主演の映画を劇場で観るのは、たぶん本作が初めて。
現代が舞台だと思われますが、彼の地ではトランスジェンダーは批判の目に晒されているようだ。
主人公のマリーナは、パートナーであるオルランドと楽しい一夜を過ごすけれども、オルランドは急病で亡くなってしまう。
オルランドのアパートで共同生活を送っているものの、法的には夫婦や家族の関係ではない。
ましてや、トランスジェンダーの社会的地位は低い。
オルランドの弟に電話で連絡はしたものの、マリーナはそのまま姿を隠そうとする。
そのことが警察に咎められ、容疑者として取り調べや検査を受ける羽目になってしまう。
検査官の前で裸体を晒さなければならなかったマリーナ。さぞ屈辱的だったろう。
2人の思い出の場所だったアパートも、遺族からは早急に出ていくよう求められる。
オルランドの弟であるガボ以外は、マリーナに対して冷たい態度をとる。
「夫(父)の浮気相手」としてではなく、「受け入れがたいセクシャリティの持ち主」への理不尽な嫌悪感が強烈に感じられる。
中盤、オルランドの親族がマリーナを拉致し、車内でマリーナの顔をビニールテープでぐるぐる巻きにする。
あまりの酷さに、観ていて涙が出てきた。
自分とは異なるセクシャリティというだけで、なぜこんな真似ができるのか。
子どもの「いじめ」と全く同じ構造ではないか。
恥を知れと言いたい。
マリーナは、オルランドとの思い出の品をことごとく奪われていく。
オルランドが残したサウナのロッカーの鍵も、開いてみたら中には何もなかった。
2人で約束した旅行のチケットが入っているのかと思っていたけれど、それすらも形としては残らない。
マリーナは、オルランドの飼い犬を奪い返すために、遺族たちと対峙する。
マリーナは何度も傷つき、傷つけられる。
しかしマリーナは、それでも何度でも立ち上がる。
パンチングマシンで、シャドーボクシングで、マリーナは何度も拳を打ち付ける。
理不尽な攻撃と戦うために、マリーナは戦う。
ストーリーとしては、正直新鮮な展開はない。
でも、マリーナが自分らしく生きるために、時には傷つき、自暴自棄に陥りそうになりながらも、必死に前を向いて進む姿には感動を覚えた。
セクシャリティに対する「他者からのラベリング」が、いつか必要なくなる世界になればいいなと思う。
私のセクシャリティは私が決める。それでいいのだ。
素のまま自分を再び見出す力強さ
チリのサンチャゴ。
ウェイトレスをしながらナイトクラブで歌うマリーナ(ダニエラ・ベガ)。
トランスジェンダーの彼女には、年の離れた恋人オルランド(フランシスコ・レジェス)がいて、誕生日を祝ってもらうなど幸せな日々を送っていた。
が、突然、自宅で倒れ、救命処置もむなしく、彼は逝ってしまう。
遺されたマリーナは悲嘆にくれるまもなく、オルランドの弟や元妻により、彼のもとから引き離されてしまい、トランスジェンダーであることを理由に理不尽ともいえる仕打ちを受けてしまう・・・
といったところから始まる物語で、監督は『グロリアの青春』のセバスティアン・レリオ。
前作では、60歳にしては男を見る目がない女性を主役にして、少々ガサツな感じで引いてしまったのですが、今回は、マリーナが受ける理不尽な仕打ちを的確に描いていき、そこいらあたりは少々気が滅入るくらいです。
とはいえ、まだまだトランスジェンダーに対する偏見は相当にあるでしょうし、かなり現実的なヒリヒリ感です。
で、この映画、そんなヒリヒリ感だけでなく、マリーナが自分自身と向き合う中盤以降、さらに胸に沁みる演出をみせていきます。
「男おんな」と侮蔑され、顔に透明テープを巻きつけられ、「怪物」と罵られて道端に放り出されるマリーナ。
テープを取るために、路上の自動車の窓ガラスに顔を写すあたりから、鏡に映るシーンを巧みに取り入れた演出が続きます。
自分は何者なのか、自分は愛される資格はあるのだろうか・・・
そのように問い続けるマリーナ。
最後には、素っ裸で股間に置いた小さな鏡で、自分の顔を見つめなおします。
ジェンダーを越えた先にある、自分という存在・・・
そして、オルランドの愛の証(もしくは希望)といってもいい、オルランドが死ぬ直前、誕生日に買ってくれて手渡されないまま行方不明になったイグアスの滝へのチケットを求めて、再び男の姿に戻るマリーナ・・・
チケットは見つからずとも、素のまま自分を再び見出し、オルランドが愛していてくれたことを見つけ出す・・・
素の自分を見つけ出したマリーナが力強く歌うラストシーンは、本当にしびれました。
日本タイトルは、劇中使用されているアレサ・フランクリンの同名曲に由来しますが、「You Make Me Feel Like a Natural Woman」という歌詞、この映画にピッタリです。
サウナに潜入する時の上半身
トランスジェンダー?(種類がたくさんあるので今回が正確になんと呼べば良いのかわからん)の女性が、亡くなった彼のサウナのロッカーを開けるため、女性ながら男性サウナに入って行ったシーンの、少しだけ膨らんだバストや上半身をさらけ出しながら歩く所が印象的だった。女性でありながら、男性でもあり、どちらでも無いとも言える。でも、勇気を持って誹謗中傷と戦っている人間ではある。そのフワフワした非現実的な感じが、あそこで濃縮されてた。
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