「あおくてくさい」わたしたちの家 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
あおくてくさい
少女達のダンスのあと、古風な家屋内を、まんま小津な腰位置のカメラがとらえる。
そのあと海岸で少女が少女らしき屈託を語る。
15分ほどで青臭さに嫌気した。
と同時に、筋が追えなくなる。
二家庭がパラレルに存在する話。ゆえに編集を交錯させている。
おもしろくない+わからない。
にもかからわず、映画は叙情を露わにしてくる。
岩井俊二風の多感な気配を見せる少女。
いきなり、丘を越え行こうよ口笛吹きつつと歌い出し、きゃははとたわむれる、ふたりの女性。
こっちが何にも理解していないのに、リリックな情景をやらかす──その圧倒的な恥ずかしさ。
パラレルはあるていど補完される。それにしても、その途上、楽しくはなかった。
多重世界に独自性が有るか無いか、小津安二郎へのオマージュ、それらは、ひとまず置いて、監督は根本的なドラマ演出のメソッドを学習すべきではないだろうか。
しかし、この映画はなんかのアワードを獲っている。
世のなか、芸能にプライズは数あれど、未熟でも与えられるのは映画製作者だけだ。その理由は、文や絵などの個作品に比べ圧倒的に応募が寡ないこと、加えて、賞が産業振興を目的としていることにある。アワードの知名度が低ければ低いほど、振興が主眼になってくる。すなわちクリエイターの背中を押してやることを目的としている。
ただし、こういうセンスの人が映画をこころざし、授賞に気をよくし、果然、映画製作に打ち込むなら、日本映画の未来は暗い。
この国の映画の新人は、振興コンペティションに勝った「鬼才」であることが多い、と個人的にはみている。やりたくて熱いひと、かれが厨二であろうと、門戸を開けている。
映画監督という職業は、この人のように芸術──ぬるいコンペティションから出発する人と、現場で叩き上げる人の二種類に大別される。
もし芸術から出るなら、社会/人間のことをじゅうぶんに知らなきゃいけない。
基礎技術を経たなら、人生経験がものを言う──そうでない芸能は、この世に存在しない。大衆に伝わらない映画を撮るんだったら、インスタレーションでもやってりゃいい。