アバター ファイヤー・アンド・アッシュ : インタビュー
ジェームズ・キャメロン監督「アバター」最新作は「一種のセラピー」 映画が持つ力、3Dへのこだわりを語る【来日インタビュー】

全世界歴代興行収入1位の「アバター」(2009年)、3位にランクインしている「アバター ウェイ・オブ・ウォーター」(2022年)に続くシリーズ第3弾となる「アバター ファイヤー・アンド・アッシュ」がついに公開を迎える。来日を果たしたジェームズ・キャメロン監督が、本シリーズの核とも言える“家族”の存在、そして、彼らが属するコミュニティを守るための“戦い”について、自身の思いを語ってくれた。(取材・文・写真/黒豆直樹)
※本記事では「アバター ファイヤー・アンド・アッシュ」の内容に触れています。

(C)2024 20th Century Studios. All Rights Reserved.
パンドラの先住民ナヴィの生き方に共感し、自らもナヴィとなって彼らとともに生きる道を選んだジェイク・サリー。人類の侵略によって神聖な森を追われたジェイクと家族、仲間たちは、海の部族メトカイナ族と共闘し、人類を退けることに成功するが、今度は灰の部族アッシュ族と対峙することになる。アッシュ族は過去に、パンドラの調和を司る神のような存在である「エイワ」に何らかの裏切りを受け、絶望していた。怒りを燃やすアッシュ族のリーダー、ヴァランは、ジェイクの因縁の敵であり、自らもナヴィとなったクオリッチ大佐と手を組み、ジェイクたちを追い詰めていく。
前作で長男のネテヤムを失い、癒えぬ哀しみを抱えるジェイクとネイティリ。人間たちは、策を講じて再びパンドラへの侵略の手を伸ばし、さらにナヴィの別部族でヴァランが率いるアッシュ族がジェイクらの前に立ちはだかる。

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■絶対的な平和主義でも「戦わなくてはならない瞬間がくる」
――ジェイクらは人間との戦いに加えて、ナヴィとも対峙することになり、トゥルクン(※パンドラの海に暮らす、クジラを思わせる巨大な知的生命体)をはじめ、他の生物たちをも巻き込んでの大規模な戦闘が展開する。“痛み”を感じさせるような描写も多く、さらにキリ(ジェイクとネイティリの養子)が人間を指して「殺せ(Kill them!)」というショッキングな言葉を発するシーンも見られ、そこにキャメロン監督の意思も感じるが……。
キャメロン監督「(過去のシリーズと比べて)より暴力的で冷酷な描写を意図したつもりは全くなくて、むしろ、アメリカ公開時のレイティングの関係で、血の描写であったり、槍が体に刺さったりするシーンに関しては、縛りもありました。
様々なアクションシーンがありますが、その中で、若い世代たちが成長していく――ロアク(ジェイクの次男)とジェイクの父子の間にも、最初は緊迫した空気が流れていますが、戦いの最中でそれを解決していきます。夫婦の関係に関しても、スパイダーの存在を巡って、ネイティリが己の抱えている憎しみに向き合うことで、和解へと向かっていきます。
戦いの部分に関して言うと、トゥルクンは絶対的な平和主義であり、どんな理由があっても戦い、殺すということは許されないのですけど、敵は非常に攻撃的で、ナヴィもトゥルクンも全滅させるつもりで向かってくる。言ってみれば、完全な平和主義者と相手を殲滅(せんめつ)しようとする勢力があり、ジェイクはその真ん中にいるのではないかと思います。これまでジェイクは、暴力を望まず、自分自身はもちろん、子どもたちの命まで失いかねない戦いなど、全く望まずに止めようとしてきました。それでも、どこかで自分が信じるもののために立ち上がらなくてはならない瞬間、コミュニティのために戦わなくてはならない瞬間がくるもので、その“モラルの一線”というものを測りながら、この作品はつくり上げたつもりです。
それはおそらく、みなさんも生きている中で、自身に問うことでもあると思います。いつ自分は、自分の信じているもののために立ち上がればいいのだろうか? その必要があるのか? それは『あらゆる暴力が、果たして悪なのか?』という問いかけでもあるのかもしれません。私にとっては、正義のため、何かを守るために戦うことも時には必要なのかもしれないし、そのためには勇気が要るというふうに思っています」

(C)2024 20th Century Studios. All Rights Reserved.
■映画が持つ「自分の立場や見方を変える力」
――とはいえ、ナヴィや海の生物たちが侵略者である人間と戦い、その命を奪っていく描写は、かなり凄まじい。イカのような生物が人間を攻撃していくさまは、不思議な爽快感すら感じさせる。
キャメロン監督「興味深いのは観客としてこの映画を見ているのは人間なのに、人間が殺されるシーンで、ついナヴィを応援したくなっちゃうということです。それはなぜなのか? 僕らは決して、この映画を通して、人類が悪で、ナヴィがみんな善であると言っているわけではないんですけれども、描き方としては、ナヴィは私たち人間にとってリスペクトできる側面があり、『そうでありたい』部分というのを象徴しているし、逆にこの映画に出てくる人間というのは、我々があまり好ましく思っていない価値観で生きていて、攻撃的で強欲で、植民地化や自然破壊をしたり、トゥルクンを殺したりする――そうやってあまりにも悪いことをするから、気がつけばみなさんは人間なのに、人類が殺されるときに、応援してしまうわけですね。それがシネマのすごいところだと思います。そこまで自分の立場や見方を変える力があるということがね。
映画をつくっていて実感したのが、死に方がひどければひどいほど、みなさん盛り上がるんですよね(笑)。今回も、イカのような生物が出てきますが、人間がやられるシーンでは、ものすごく盛り上がっていました。ある意味で、人類としての自分たちの悪い価値観を浄化しているようなところがあって、そこにカタルシスを覚えているんじゃないかと思います」

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■「この映画は僕にとって、一種のセラピー」
――もうひとつ、人間側の描き方として印象的だったのが、ジェイクが投降し、人間たちの基地に連行されるシーンで、人々が喝采し、スマホのようなデバイスを掲げて撮影している姿。人間の醜悪さを感じさせる一方で、そんな中で、海洋生物学者が自身の良心に従い、ジェイクを逃がそうとする姿は“希望”の灯のようにも感じられる。キャメロン監督自身、大学で海洋生物学を学んでいた経験もあり、自身を投影させたと言えるのでは?
キャメロン監督「投影ということに関して言うと、全てのキャラクターに自分自身を投影させていると言えます。それこそジェイクには非常に色濃く自分を投影しています。
連行されるジェイクの姿をみんながデバイスで撮影しているというシーンは、いまの世の中、みんな直接的に物事を経験できなくなっていて、デバイスを通してなど間接的に経験するしかなくなっていることの表れと言えるかもしれません。
もともと、私は海洋生物学を学んでいましたが、映画の中で彼がチームのメンバーに『海洋生物学者です』と自己紹介しても、みんなは無視するというやりとりは、私なりの海洋生物学者にまつわるジョークです(笑)。

先ほどのキャラクターへの投影という部分について、もう少しお話しすると僕自身、10代の頃に苦悩を抱えていました(※アーティスト志向のジェームズに対し、厳格な父親はそれを理解しようとせず、そのことに葛藤したという)。今回の映画の脚本は10年ほど前に執筆しましたが、その当時、僕の子どもたちもちょうど10代で、反抗期を迎え苦悩も抱えていて、それを親の視点で見るということができました。その意味で、親と10代の若者、その両方の視点で物語を描くことができました。
父親が厳しくて、それが嫌で抗い、闘って生きてきたのに、気づいたら自分には5人の子どもがいて、(自分の父親と)同じような父親になっていました(苦笑)。その意味で、この映画は僕にとって、一種のセラピーと言えるのかもしれません。
全てのアートはパーソナルなものであるべきだと思っています。この『アバター』シリーズは、スタジオによるフランチャイズ作品ではないですし、誰かの作品の続編の監督に私が雇われたわけでもなく、完全に私自身のストーリーテリングによる作品です。素晴らしい役者やアーティストと関わり、この映画をつくっていく中で、全てのキャラクターが私自身を投影したものだということは、みんなが理解しています。どんな偉大な役者でも『この時のこのキャラクターの心情は?』と監督に導いてほしいと感じる時があると思います。その時に、きちんと自分の言葉で答えられるようにと、そのようにしているのかもしれませんね」

■3D映画へのこだわりと展望
――2009年に1作目の「アバター」が公開されたころは、3D映画ブームが巻き起こり、多くの3D映画が製作された。現在では3Dで製作される映画は少なくなっているが、こうした状況をキャメロン監督はどう見ているのだろうか? 新たに制作されるという原爆投下についての映画も3Dで描かれるのか?
キャメロン監督「全ての作品を3Dでつくるつもりです。なぜか? それは、人間が目を2つ持っているからです。自然が、2つの目でものを捉える能力を人間に備えさせてくれたわけです。
3Dで映像を見る際、人間は目だけではなく脳も使っています。映画館に足を運ぶということは、片手間で何かをしながらではなく『映画を見る』ということを選択し、コミットしているわけです。その上で、3Dであれば、映像への関わり方がエモーショナルなレベルでひとつ引き上がると思っています。意識せずとも、脳の中でいろんなことが刺激されている状況になっています。キャラクターたちの存在や映画を見て感じるものが、3Dだからこそ(2Dと比べ)少し高まっている部分があると思います。
ではなぜ3D映画が増えていかないかというと、コンバージョンによって安く2Dで撮影した映像を3Dに変換することはできますが、クオリティがあまり良くないというのは、みなさんご存じのとおりです。劇場側の問題として、照明のレベルが足りないというのもあります。
私は、映画がこの先、生き残っていくために、3Dが果たすべき役割があると思っているし、映画体験がユニークなものであり続ける――家庭ではできない体験ができる場所であるためにも、3Dは重要なものだと思っています。そのために興行側(劇場)への投資も必要となると思いますし、今回の作品では間に合いませんでしたが、次作以降でそれが間に合えばいいなと思っています」
