「自分の居場所=あるべき姿を探し求め旅する少年を描くロードムービー」荒野にて zueiさんの映画レビュー(感想・評価)
自分の居場所=あるべき姿を探し求め旅する少年を描くロードムービー
父を亡くし天涯孤独となった15歳のチャーリ―は、怪我から殺処分の決まった競走馬ピートをトラックに乗せ、音信不通となっている叔母を探しにワイオミングを目指す…
ウィリー・ヴラウティンの小説を映画化したロード・ムービー
監督のインタビューの中でアメリカという国に言及するところがある。
「弱者から搾取し、勝つことにこだわる国」
そういう部分を良しとしないイギリス人監督のアンドリュー・ヘイは弱者であるチャーリーをそれに立ち向かうものとして描いた。
勝つために薬を使用され、用済になれば殺される運命のピートもまた、チャーリー同様、利益をむさぼる者たちのもと虐げられる弱者である。だからチャーリーはピートを救いたいと思う。ピートにまたがることをしなかったのは、自分が「むさぼる者」になりたくないということの象徴だろう。
ガソリンが尽きた後はチャーリーと馬のピートの徒歩の旅。
道中、チャーリーがピートに話して聞かせる友達の家に泊まりに行った時の話が印象的だ。家族が笑い合って朝のテーブルにつく。そんな当たり前の風景にいかに彼は憧れていたのかと切なくなる。
ロードムービーの醍醐味は旅の風景に出会うことでもある。本作では時間ごとに変る自然の美しさも目に沁みる。しかし、俯瞰して見せられる瞬間、荒野の絶望的なまでの大きさと荒涼感にハッとする。アメリカはあまりにも広く、荒野は孤独なチャーリーを取り囲む世界そのものだ。
果たして目的地にたどり着けるのか。
先の見えない不安は、そのままチャーリーの行く末の不確かさを象徴するかのようだ。
やがてピートを失うことになり、そこから旅はさらに過酷を極める。
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空腹から一度はレストランで無銭飲食を働くが、ウェイトレスが見逃がしてくれた。その後チャーリーが食べ物を盗む「どろぼう」へと堕ちていかなかったのは、そのウェイトレスへの恩に報いるためだったのかもしれない。
鍵の開いた家に無断で入り、洗濯機でシャツを洗ったときも、彼が口にするのは水道水のみ。繁華街で抱えていたのは1巻のトイレットペーパーと、人間らしく生きていくのに最低限必要なものだけだ。
空腹と不安に満ちた旅ではあったが、チャーリーの旅はやがて終わりを迎える。叔母の家で、夢見ていた朝食をとるシーンに心から安堵した。
守りたかったものを守れなかった苦しみを吐露する場面は、今思い出しても涙が溢れる。同時に、包み込み、支えてくれる大人がそばにいてくれることの大切さを痛感した。
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彼の中で罪悪感が消えることはないかもしれない。それでも大人になったチャーリーが道を見誤ることはないだろう。チャーリーを支えたのは、父や大人の愛情と、将来への希望。彼にはあるべき自分の姿を信じる強さがあった。
辛い場面もあるが、美しい風景と音楽が穏やかさをもって胸に広がる。作り手の夢が託された詩的な映画だった。