ニッポン国VS泉南石綿村のレビュー・感想・評価
全10件を表示
「超人」と「システム」
森達也監督は『FAKE』の舞台挨拶で、筆者の質問に答えて「原一男監督はスーパーマンが好きなんだ」と語っていた。原監督は『ニッポン国―』の上映後トークで、「昭和が終わり、とがった人がいなくなった」と語っていた。「とがった人がいなくなり、今までのやり方では撮れないことに気づくのに何年もかかった。今の世の中はとがった人を認める余裕がない」と。
ドキュメンタリーの方法論は、大きく分けてふたつあると思う。強烈な「個人」に焦点を合わせるか、ある問題を生む「システム」に注目するか、だ。前者の典型が『ゆきゆきて、神軍』なら、後者はフーベルト・ザウパー監督『ダーウィンの悪夢』だろう。ニューギニアの地獄から生還した、不正をただすために時には暴力も辞さない「神軍平等兵」奥崎謙三にカメラを向けた『ゆきゆきて―』。一方、ヴィクトリア湖の巨大魚、ナイルパーチをめぐって生起する貧困や売春を「グローバリゼーションの問題」として描き出す『ダーウィン―』。
原監督は今作で、泉南アスベスト訴訟の原告である被害者や家族、弁護団といった、別段とがってはいない人たちにカメラを向けた。同時に、このアスベスト被害に、アスベスト加工業で経済的に恩恵を受けた社会が冷淡なさまも映し出している。街頭で泣きながら裁判にいたる葛藤を訴える被害者家族の周囲を、足早に通り過ぎる人々。
これからのドキュメンタリーは、おそらく「個人」と「システム」両方を注視しなければならないだろう。高度情報化社会におけるドキュメンタリーは、その「複雑さ」に見合った方法論が求められるのだと思う。
昭和47年の線引き
裁判の争点は国家が介入して規制に踏み込まなかったことに過失が認められるか否かだと思われるが、この映画はそこに踏み込まない。科学的知見があっても行動が見送られている事象もある訳で、何から何まで公的権力が介入することに誰もが賛同するわけでは無いと思う。規制がなくとも抑制する人もいて、規制されないと行動を抑止しない人もいる。これはガス規制もコロナも同じ。どこで規制を求めるかは判断が難しい。
カメラはひたすら被害者を追う。このことが強烈なメッセージを帯びる。行政側の過失を論じていても救われない。目の前に過失なく被害を負った者がいる。対応する役人が問うべき相手ではない。塩崎大臣が頭を下げても、何をもって詫びているのか?と被害者と同じ不思議な気持ちになる。
責任はむしろ二の次で、優先すべきは救済である。救済されるべきか否かで判断すれば、早いはずである。
韓国や在日の話でもあったんだと知る。国は害を知ってて放置していた。...
韓国や在日の話でもあったんだと知る。国は害を知ってて放置していた。韓国の害を出した工場も、日本が作ったものだった。
どんどん人が死んで行く。残された人の悲しみが語られる。
見てて辛い。民主党の時だったのだ。国は控訴した。補償が来る前に、患者たちは死んで行く。
大阪弁。
弁護士の人たちも泣く。
最高裁では勝ったけど、市民の会会長が述べたように、限られた期間の労働者のみに限られていた。裁判って何かと思うところはある。
運動の中に生まれる分断をきちんとこぼさず撮っていてすごい。
『ゆきゆきて、神軍』から31年も経っていたのか!
石綿肺、肺がん、中皮腫など20年の潜伏期間がある恐ろしい石綿。重苦しいオープニングのナレーションだけで、鳥肌が立ってくる。患者として最初に登場した在日の青木善四郎がすぐに亡くなったという事実がショッキング。自分で息ができないため、重い病状の人は皆携帯用の酸素ボンベを持っている。
大阪泉南の石綿村と呼ばれるアスベスト工場が多い地域。冒頭から原告団、弁護士、そして患者の生々しい映像によって辛さが訴えられる。そんなところで働かなければいいのでは?と思う人も多いかもしれないが、在日韓国人や職がなく全国を転々とした末にたどり着いた人たちなど、そこで働くしかしょうがない事情もわかってくる。韓国においても、日本が占領時代に石綿鉱山を開拓し、貧しい人たちが駆り出されて労働させられた経緯を説明する。
日本国は50年も前から危険であると知っていたのに放置。国の責任を問うてアスベスト被害を訴えたのだ。1陣の原告側2010年には勝訴するが、国が控訴をするため控訴阻止運動も過熱する。しかし、高裁では不当判決。「そこで働かなければいい。泉南に生まれなければいい」などという要旨の判決には憤りを禁じ得ない。2陣も地裁では勝訴。そして3陣も・・・
2014年1月、柚岡たち原告団は上告阻止のために官邸前に向かう。しかし、官邸側は直接の建白書を受け取らず、彼らの声もむなしく、2日後には上告を決定する。「正規のルートでアポが取れるわけがない!」と怒りを爆発させながら、次は厚労省前でアジテート。そして最高裁での勝訴は涙なしでは見られない。和解の場で塩崎厚労相も映し出されたが、大臣の中でもまともな方だと感じた。
やはり柚岡一禎を中心に見ていくと理解しやすい。厚労省前での怒り爆発は原一男監督が選ぶ主人公として、神軍にも似たカリスマ性も感じる。被害者の中で、元看護師さんもずっと登場するので8年の時の流れを感じる作品だ。
国との争いもさることながら、患者の多くは在日韓国人であることの事実。最近では徴用工の問題もクローズアップされているが、アスベストの問題も同じく、かつての日本が行った朝鮮植民地化により隠されてしまった闇を戦争を知らない我々に突き付けられる。
病気との因果関係がはっきりしていて国も認めているからまだ係争もわかりやすい。世の中にはまだ因果関係さえも否定されている原発放射能と甲状腺がんとか、闇に埋もれた問題はまだまだあるように思えるので、もっと広い視野を持ちたいものだと感じた。
石綿裁判を追った稀に見る労作
「ゆきゆきて、神軍」以来、実に久しぶりに原一男監督の作品を拝見した。
今作は石綿訴訟の当事者たちを撮ったドキュメンタリー。あくまで「普通の人々」が被写体であり、終着点がまったく見えない状態で、よくも粘り強く撮りきったと感心する。
そして国の役人たちのアホさ加減を浮き彫りにする、体制批判の志しに熱くなった。稀に見る労作だろう。
まじめに観た
伝える力としての映画。映画好きというのなら観ておかねばならないのだろうと観た。
「ゆきゆきて神軍」の原一男監督、相変わらず地道な取材を繰り返している。たしかに、この映画がなかったら、俺はこの被害のことを知ることがなかっただろう。
面白い映画かと言えば面白くはない。途中、監督の反骨精神が活動の主体となっている人と若干ぶつかるように、油断したら誘導にもなりかねない。そういうリスクはあっても、映画で伝えようという努力を俺は買うし、時間と金が許せば観続けていきたいとも思う。
優先順位は下の方になっちゃうけどね。
自分の中では、映画はまず娯楽であって、その次に知るべきことかな。
ユーロスペースへ。時間がないとなかなか観られない
まさに日本の縮図
正直、扱われている問題は、テレビやニュースのこととしか捉え切れていなくて、原一男作品とはいえ見ることへのためらいがあった。長いし、集中力を持続できる自信もなかったし…
果たして想像通りではあったけれど、それを遙かに超える濃密度であり、報道などとは次元が違う普遍的な作品だった。
とにかく内容や構成が非常にわかりやすくて、効果的なイラストやテロップが意外と良くて、思いのほか作品の展開に釘付けになった。しかも、これまでの原一男作品同様に濃密な人間ドラマが存分に含まれていて、なおかつ、これが今のニッポンの現状だといわんばかりの映像表現に、ただただひれ伏すばかり。途中休憩が挟まれたけれども、3時間近くぶっ続けでも耐えられる、というか画面を凝視続けられる作品だった。泣いて笑って怒りに震えた。久々にフィクションを超えるドキュメンタリーを見た思い。
ニッポン国の病巣を見た
今まで日本人が見過ごしてきた、見ようともしなかったアスベスト被害の実態に迫ったドキュメンタリーです。この映画の中で最も衝撃的だったのは、裁判所の判決分の中で「アスベスト被害に対して、経済成長の上においては仕方が無かった。」と述べている部分でした。こうやって犠牲を強いた上にできあがっている現代の「ニッポン国」の縮図を見せられて暗澹たる気分になりました。
公開初日に出演者たちのアフタートークにも参加しましたが、この映画で描かれていない他の地域の被害についても未だに解決は遠いそうです。だからこそ、ひとりでも多くの日本人が知るべき現実だと思います。
普通の人達
「アスベスト裁判」についてほぼ無知の状態で鑑賞しましたが、「泣く」「笑う」「怒る」「哀しむ」といった感情が、スクリーンを通して津波の様に私に襲ってきました。無機質なスクリーンが、まるで大きな有機体になったかのようです。
今の日本で権力に対して「怒る」ことは、タブーなこと。それを8年もの間「裁判」を通じてやり続けることは、並大抵のことではありません。しかし、スクリーンに映し出されたのは、命を脅かされ生活がままならない普通のおじちゃんらとおばちゃんらでした。そして、普通のおじちゃんらとおばちゃんらは、日本中に沢山いることに気がつきました。水俣、福島、沖縄などなど。
ひとつ言える事は彼らは「誰か」の利益の為に、生活を壊されて命を奪われたということです。「誰か」が沢山の命よりもお金を優先したからです。そして日本で「怒り」をタブー化することにより、その「誰か」は大きな恩恵を受けているのかもしれません。
私は決して「誰か」になれることはありませんし、「普通の人」のまま人生を終えるでしょう。だからこそ、命を脅かす「誰か」に対して「怒り」を持ち続けます。
日本で「誰か」への「怒り」が当たり前になれば、福島原発事故も森友問題も起こらなかったのではないのでしょうか。今だからこそ、そう思います。
全10件を表示