BPM ビート・パー・ミニットのレビュー・感想・評価
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90年代、HIV患者のために戦った若者達の姿をヴィヴィッドに描いた名作
全く内容を知らないままに本作を観た。そして驚かされた。かつて『パリ20区、僕たちのクラス』で脚本と編集を担当したロバン・カンピヨによる監督作なのだが、かつて自身がメンバーの一人だったというACT UP(HIV感染者への差別や不当な扱いに抗議する団体)のミーティングは、まるで『パリ20区』で見られた学生達のやりとりのようにヴィヴィッドでテンポよく、その洗練された作りに一気に飲み込まれる。時に白熱する議論と、政府や製薬会社への息詰まるプロテスト場面とを織り交ぜ、その活動の波間で病状が悪化して亡くなっていく仲間への追慕も描かれる。
90年代のパリでHIVがいかに受け止められ、それに対し人々がどう団結したのか、その風を感じられることもさることながら、メンバー一人一人の横顔が実に印象深くて忘れがたい。とりわけ主人公ショーンの、徐々にやせ衰えていく身体、彼の生き様と心情を体現した俳優の演技が見事だ。
踏み絵的
男どうしの性愛シーンがすきじゃない。正直言ってブロークバック~でもゴッズオウンカントリーでも君の名前で~でもそれを感じた。
それらが名画であることに異存はない。
Aケシシュ監督のアデル~(2013)には、アデル・エグザルホプロスとレア・セドゥの濃厚な性愛シーンがある。が、ぜんぜんイヤではなかった。女どうしなら大丈夫なのだ。
でも男どうしのばあい、生理的嫌悪というほどのことじゃないが、なんとなく・・・。
──偏見だろうか。
本作BPMにも男どうしの性愛描写がある。見たことないほど露骨だった。局部は出ないが、けっこう長いあなるせっくすの描写がある。
ゲイをあつかうコンテンツが性愛と密着しているのはなぜだろう──。と思うことがある。
男女の愛と、男男の愛と、女女の愛は、同質のもの──と見るならば、男女の愛のように、性描写のあつかいは慎重でなければならないと思う。
言っていることが伝わるかわからないが、男女の愛をあつかった映画で、かならず性描写がでてくるわけではない。
ラブストーリーに性描写が出てくるのは、それを目的としているばあいとか、大人向けとか、性描写に必然性があるときとか、旧弊な日本映画で女優を脱皮させたい──とか、等々の狙いがあるときに限る。
しかしゲイの映画ではわりとふつうに性愛シーンがでてくる。
このギモンはハッテン場にも言える。男男間では恋愛が省かれていきなり性愛にいたる──それがじぶんが知っているハッテン場の構造である。ゲイ映画でも、似たような気配を感じてしまう。──のだ。
この映画はHIV活動家たちの熱さと青さと、陽性者の死の恐怖をとらえていて躍動的で見応えがある。
が、情交シーンもさることながら、性の気配がつきまとう。ここに出演している男たちは、つねに愛をささやきあい、つねに欲情している気配があった。その気配が個人的には困った。
ところで、さいきん(2022/05)の海外ニュースで、本作にも出演しているアデル・エネルの引退のインタビュー記事をみた。
引退といってもマイルドな感じで、演劇には関わり、映画もまた出るかもしれない──と言っていた。
記事によるとアデル・エネルが引退を決意したのは、(フランスの)映画業界が『資本主義的、家父長制的、人種差別的、性差別的な構造的不平等の世界を擁護している』から、であり『私は内側から変えようとしたが、もうその一部にはなりたくないのです』と一種の諦観を述べていた。
さいきん日本でも榊英雄や園子温や河瀬直美などのセク/パワハラ報道があった。
エネルのインタビューをみるかぎり、フランス映画界にもそのような縦構造があると感じられた。
しかし日本にはそれを告発して引退するエネルのような俳優はいないだろう。
『2020年2月28日(セザール賞授賞式にて)、かつて13歳のSamantha Geimerをレイプした罪で有罪判決を受けたロマン・ポランスキーが『An Officer and a Spy』で監督賞を受賞した後、エネルはCéline Sciamma、Noemie Merlant、Aïssa Maïgaとともに第45回セザール賞授賞式から立ち去りました。エネルは退場する際、拳を振りながら「恥だ!」と叫び「ブラボー、小児性愛!」と叫びながら、皮肉っぽく拍手する姿が撮影された。』
(Adèle Haenelのwikiより)
アデルエネルはそんな熱い人だった。
一方、天然な感じもあるひとだった。
わたしは昔、ダルデンヌ兄弟の「午後8時の訪問者」(2016)のレビューにこう書いた。
『youtubeに遍在している彼女のインタビュー動画を見たことがある。
演技上にない素のアデルエネルは、見たこともないほど天然な感じの人である。
対談や会見の最中、彼女は、絶え間なくキョロつく。
眼球と頭がつねに動いて、意識が散漫にほかへ移る。まるで動画にでてくる赤ん坊のように、たえずどこか/なにかを触り、忙しなく好奇心の方向が変わる。
その一方で熱く語ったりもする。
その、素のファンキーな感じがクリステンスチュワート以上なのであって、とうぜん、そんな人はおらず、まして女優ならなおさらである。
ゆえに、もしアデルエネルがこの天然のまま映画に収まったら──と思うほど魅力的な「素」だが、ただし、あまりに動きが止まらないので、トゥレットとか多動性とかの障害を思わせもする。』
アデル・エネルの天然はすごい。この天然を映画で見ることができればと思っていたから、引退報道はざんねんだった。(ひょっとしたらすぐ復帰するのかもしれないが・・・)
なんにもない日本映画界ほどではないが、仏映画界もトリュフォーがいた時代との比較でずっと低迷を言われている。
それゆえエネルのような人さえ代表作が限られてしまう。(だとしても「いい映画」がまったく一つもない日本の俳優よりずっとましだが)
エネルには午後8時の訪問者もPortrait of a Lady on Fire(2019)もあるが、もっと見たい人だった。
MeToo告発は今も世界の潮流である。今後も続くだろう。
ただし日本国内での告発は、海外のそれとポジションがぜんぜん違う。
海外のばあい実力者が告発されることが多い。
前述したポランスキーの件。ポランスキーはじっさい犯罪者だと思う。しかし、ポランスキーの映画はすごい。反撥/袋小路/ローズマリー~/チャイナタウン/テナント/テス/オリバーツイスト・・・。それとこれとは別だと言いたくなってしまうほどの天才だ。
養子にたいする何年も前のわいせつで告発されたウディアレンもかつてのような映画製作ができなくなっている。
さいきん(2022/05)の海外ニュースでは007のフクナガ監督にたいするセクハラ告発があった。
実力ある者だらけの海外の告発にくらべて、日本の告発は非才なクリエイターたいするもの──と個人的には感じている。
ようするに、とるにたりないクリエイターが告発される。
わたしは榊英雄や園子温や河瀬直美が告発されても「それとこれとは別だ」と言いたくならない。
さいきん別のパワハラニュースがあった。
『2022年、映画業界におけるハラスメント行為への告発が相次ぐ中、小林が監督、脚本、撮影、編集自ら行った作品である「ヘドローバ」のメイキング映像の中で、大人による少年への暴行が行われるシーンで、殴られる部分は演技ではなく、実際に、当時中学生であった子役の少年を、元プロ格闘家の大人が本気で繰り返し顔面を殴打していると報じられた。殴られた子役の少年は泣きながら嘔吐し「とにかくヤバかったです。いろいろ」「死にそうでした」と発言していたが、小林勇貴は「恐ろしいものが撮れてしまいましたが、そうですね、でもすごい良かったです。児童虐待、撮りました」と笑顔でコメントしていた。これらがネットを中心に多数の批判を呼び、問題になっていることを受け、小林が原案として参加している同年公開予定の「激怒」のプロデューサーは、小林の名前をクレジットから外したことを発表した。』
(ウィキペディア、小林勇貴より)
個人的に思うのは、どうでもいいクリエイターのパワハラをニュースにするなってこと。
この小林という人のやったことに問題があったなら刑事なり民事なりにすればいいのであって、凡人をニュースにしてはいけない。つまりどうでもいいようなアングラ映画をつくっている無能なクリエイターのやったことを全国ニュースにしてはいけない。と個人的には思っている。
日本は人の創造物を認めることを是とする。
だが日本映画がつまんないのは基本的にその寛容が元凶に他ならない。
日本のMeToo運動が海外と異なるのもその点。
セク/パワハラの告発とはいっぱんに権力や人望があり世間に才能を認められている者が裏でやったことを暴露することにある。
もとから人望がなかったり、誰も知らない作品をつくっていたり、非才なら、それは告発と言うより、たんに素地が露呈しただけのこと。
やっぱりね、──でお終いである。
話が逸れたが、本作BPMはシリアスな主題を背負っている。演出もいい。HIVでも終末のほうのステージを扱っている。つらい。が、前述のとおり性的で男どうしが愛をささやき合う。かなり扇情的。けっこう困った。
コロナ禍の今こそ見るべき・・・
差別や偏見。1990年代と言えば、ようやくHIVの知識が浸透し始めた頃。まだ医療は確立されていなく、感染したら確実に死ぬと言われてたのを思い出す。差別というのもほとんどゲイに対するもので、他にも注射針を使いまわす薬物常用者、娼婦、囚人といった人たち。特に性的マイノリティのLGBTがターゲットだ。普通に男女間でも伝染るんだよ!と訴える彼らは、政府や製薬会社に抗議したり、高校に乗り込んでコンドームを配ったりする活動がメイン。アクトアゲインスト・エイズなら知ってたのに、恥ずかしながらアクトアップの団体は知らなかった。
メインはショーンとナタンの恋物語になるのですが、彼らアクトアップの抗議活動の方に惹かれてしまいました。日本における新型コロナウイルス感染者数や医療現場の状況。さらにアビガン等特効薬の臨床データやワクチン開発状況など、国民には知らされてないことが多い。もっと声を上げなきゃ隠されたままになりそうで怖いのです。
BPMって音楽用語じゃね?などと思っていたのですが、原題では120がついていて、心拍数を表すらしいです。途中の音楽も120bpmだったのかもしれませんが、それよりも拍手の代わりに指パッチンを鳴らすルールがあったので、その拍子が120bpmだったのだと勝手に勘違いしています。
それにしても未知のウイルスの恐怖。これからも人類はウイルスと戦い続けなければならないのでしょう。今もなおHIV感染、エイズ患者は増えています。日本にも2万人以上の感染者がいます。90年代当時はネット環境も少なく、恐怖や不安は今以上だったことも想像できますが、情報時代だからこそデマにも注意して対策をしっかりとらねばと、なぜか映画の趣旨と違った感想を持ってしまいました。
1990年代初頭エイズ活動団体ACT UPパリの模様をドキュメンタリーをみている感じ
享楽的なゲイパレードDJの話かと思ったのにポスターイメージとは程遠いズシンと重い内容。
活動内容は非暴力とはいえかなり過激
どんどん弱っていくし安楽死の最後といい唐突に終わるしきつかった
「ACT UP Paris」
1990年代の初め、エイズは怖がられており、行政や製薬会社の動きは鈍かった。
パリではエイズ患者を中心に「ACT UP Paris」が組織され、命がかかっている自分たちの思いを伝えようと、かなり過激な運動を繰り広げていた。
主人公は男性エイズ感染者、この運動に参加してきた非感染者の男と恋におちる。
当時の自分自身の心の内を見透かされたようなセリフが痛い。
屈しない人々
フランスのエイズ患者支援団体ACT UPに所属する若者たちのはなし。すごく良かった。
BPMは、音楽のテンポを表したり、心拍数を表したりする用語。作品を通して常にいくらかのテンポのビートが刻まれていたとおもう。
クラブで踊り、社会に抗議し、愛する人とセックスをし、悲しみに体を震わせる。揺れる彼らの体と鼓動。
屈しない人々をみると、勇気付けられるな。
わたしは(多くの日本人は)なかなか普段抵抗したり、抗議したりできないから。見習いたいね…
愛と理解と訴えの鼓動
2017年度のカンヌ国際映画祭グランプリ受賞作品。
パルムドールの『ザ・スクエア』は独創的ではあるがシュール過ぎて自分には合わなかったが、訴えるメッセージ性などはこちらの方が良かったと思う。
1990年代初頭のパリ。
実在する同性愛や反HIVの活動団体“ACT UP”。
社会の差別や偏見と闘った若者たち。
今も同性愛やHIVへの差別・偏見は根強く残っているが、だいぶ理解は深まっている。
しかし、90年代初頭はまだまだそうではなかった。
同性愛同士で性交すればHIVに感染、同性愛=HIV、HIV陽性者の近くに居るだけで感染するという誤解すらあった。
何もHIVは空気感染や肌に触れたって感染はしないし、男女同士で予防ナシに性交して感染する時は感染するというのに…。
社会の理解や医学の研究が進んでなかったとは言え、一体何故こんな誤解が植え付けられたのか。
同性愛やHIVへの差別・偏見は、社会の問題を殊更浮き彫りにする。
同性愛に自由を。
HIVの正しき理解と予防を。
“ACT UP”の活動内容は社会への訴え。
時には過激な行動も辞さない。
作り物の血を投げ付ける。デモは頻繁に。治療薬の提供を渋る製薬会社に乗り込む。…
団体内でも常に白熱した議論が繰り広げられる。
法を犯した行動もあったかもしれない。
が、何かアクションを起こさないと、社会は関心すら持たない。
意識改革へのきっかけにもならない。
監督のロバン・カンピヨは実際にACT UPの一員だった事もあり、実体験を基に、当時の熱気や若者たちの姿をリアルに臨場感たっぷりに描写。
その演出力やキャストの熱演はとても劇映画とは思えず、まるでドキュメンタリーを見ているようだ。
テーマやメッセージは社会派だが、主軸は繊細な愛の物語。
新加入の青年と、カリスマ性溢れる団体の中心人物。
二人の出会い。
惹かれ合う。
ラブシーンは激しく、生々しくもある。
が、次第にHIVの症状が悪化していき…。
HIVによって愛する大切な人を失う悲しみの物語でもある。
生きたくても、生きられない。
だから、万一手遅れになる前に、そうならない為にも、知ってほしい。
理解を。
自由を。
愛を。
切実な訴えを。
観終わった後の余韻が凄まじい
個人的には2018年No.1の映画です。映画館で観終わっても席をなかなか立てませんでした。
HIV/エイズに対する活動を描いた映画なので、時折強い描写も見られますが、とても強い信念を持って作成された映画だと感じました。
ナタンとショーンの関係が中心で描かれていますが、この映画の醍醐味はACT UPの活動だと思っています。彼らの過激にも映る活動の背景にある根強い偏見と無知。
テーマ的に見るのをためらわれる方がいらっしゃるかと思いますが、彼らの活動の背景にあるものは、20年以上たった今でも大きく変化していないことを私たちに教えてくれます。
予想を超えた感動
HIV感染が広まる90年代のフランスで実際に存在した当事者団体「ACTUp Paris」を舞台に、活動家たちの絆や愛を、虚実を交えて綴った作品。
いきなり彼らの定時ミーティングの場面から、ドキュメントか?と思わせる導入。ついで過激になる活動の様子が活写され、徐々に物語の主役が浮かび上がる。政治や製薬メーカーに対するギリギリな手法の活動や陽性会員たちの焦り、主人公の恋愛模様と死の影…。
折々にインサートされるクラブで踊る主人公たち、ストロボとハウスビートで彩られるシーンが、物語の進行と共に享楽的だったり、活動への怪気炎だったり、性愛や孤独を写す鏡になったりするのが印象的。素晴らしかった。
不治の病ではなくなったHIV。
歴史。それもつい最近な事実。
ついこのあいだまでHIVが死の病につながっていたんだと。今は治療薬も開発されて死の病ではなくなったのはこういった活動があっての今なんだとつくづく思う。
病気にかかるのは自分達の責任といって見放すのは簡単だけど死の恐怖は強烈です。マイノリティーの現実を万人に知ってもらうことは必要なんだと。
この時代に戦った人々はすごい。
素晴らしい作品
とにかく観てください。
まだ観ていない人にそう伝えたいです。
特に若い人、LGBTの人に観て欲しい。
二十数年前の世界はこれが現実だったんです。
運動によって社会が変わってきた、
そのことを是非、実感して欲しい。
あまりにも重すぎる真実
まだHIV感染者や同性愛者への理解が薄かった、というよりもあからさまな差別が蔓延していた1990年代のフランスで、行動し、闘った団体「ACT UP」の活動を軸に、当事者の若者たちの情熱と葛藤、そして...を描く。美しい愛情の物語であり、生の躍動に溢れた部分もあるが、真実はあまりにも重くて残酷。当事者では無いので完全な理解は出来ないが、現代の方がまだマシってもんなんだろうなあ、と思った。ACT UP当事者だった人物が監督を務めただけあって、当事者の置かれた絶望的な状況は、あまりにもリアルで胸に突き刺さった。コレを青春映画と呼べるのか?
90年代に多く作られたHIVを題材にした映画を思い出す作品。 だん...
90年代に多く作られたHIVを題材にした映画を思い出す作品。
だんだん病状が進行していくメンバーの姿と、国や製薬会社の行動の遅さがリアル。
Hなシーン多いが、リアルでエロさはないw
意外に普通だった
つくりが予想外に普通で、それでいて結構長い尺だったので、退屈な印象を持ってしまった。
内容はかなりシリアスで、分かりやすくリアルで丁寧なものだったけれども、なかなか彼らのことを本当に理解しきれない気持ちからなのか、作品に入り込むことができず、集中してみることができなかったというのが正直なところ。
残念ながら、独りよがりなトラジディーとしか思えない作品だった。
我々が知ること。
頭の中で整理がつかない、いろんな立場で考えることができた映画でした。
140分間、一度も飽きることなく、苦しいテーマを突きつけられ、考えさせられました。
評価が極端に二分するのも理解できます。
行動に移すといっても、あのやり方は…って私も思いますし。
全然オーバーに表現していないからこそ、賛否両論の意見を聞くことができる映画なのかなと思いました。
きっと製作者側も、この映画で万人からの大絶賛を得ようとは考えていないはず。
大切なことは知ること。
世の無関心に一石を投じる作品としては、物の見事だったと思います。
同じ列で鑑賞していた男性が、ひとり泣いていたんですよ。
驚きました。
そういうことが身の回りであったのかなって勝手に想像したら、これは決してどこか遠くにある話ではないって思いました。
無効
どこか他人事の社会に対する怒りも、容赦無いタイムリミットに焦る心も分かるが、幼稚で低俗で非効率的な行為の数々を見過ごす訳にはいかない。
かつては真摯に訴えていたのかも知れないが、描かれているのは愚策も愚策。
暴力的な抗議は逆効果だとまともな意見を述べたキャラクターも、結局は粗暴な態度でしか訴える事が出来ない馬鹿である為、他のキャラクターがどの様なものかは推して知るべし。
学校にゲリラライブよろしく突入し、教師にコンドーム販売機を設置しろと喚く前に、先ずは自分達で設置しような。
客観視以前に、エイズは己の無知と無責任から始まるものであるという前提を忘れている様に思えてならない。
騒いで暴れてはパカパカ。
周りを非難してはシコシコ。
泣いて喚いて、また…
こんな性欲の奴隷に付き合ってられるか。
馬鹿につける薬は無い。この一言に尽きる。
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