「怪物と戦う者は自らも怪物にならないよう気をつけなければならない。」検察側の罪人 レントさんの映画レビュー(感想・評価)
怪物と戦う者は自らも怪物にならないよう気をつけなければならない。
検察官には真実究明のための強大な捜査権限が与えられている。この権力はともすれば人権を侵害しかねないほど強大であり、だからこそその行使は法の下適正に行われなければならない。
その権力行使を唯一担保するものが法律である。検察官にとっての正義とはその法律に従って事件を捜査し被疑者を起訴するか否かを決定することである。たとえその法律に不備があったとしてもだ。
殺人事件の時効はかつては25年と定められていた。それがDNA鑑定などの証拠資料が採用されたことから、経年による証拠散逸という時効を定めた理由がなくなり2010年に廃止された。
街金を営んでいた老夫婦が殺害される事件が発生し、その容疑者の中に検察官最上は松倉の名を見つける。かつて最上の下宿先の娘を殺したこの犯人の時効は刑訴法改正以前にすでに迎えていたため、過去の事件では松倉を罰することはできない。人道的には誰が見ても万死に値する行為を行った松倉を法的に処罰することはできないのだ。
だが、最上は検察官としての正義を見失い、個人としての正義を執行しようとする。老夫婦殺害事件で無実の松倉に罪をかぶせて、過去の罪を償わせようとしたのだ。
松倉を罰したいという気持ちは人間であればだれもが抱く感情だろう。しかし、最上は検事なのである。法に従いその検察権を行使する彼が自身の正義に則り処罰しようとする行為はもはや検察権逸脱の行為である。
医者が目の前の重傷者を殺人犯だからといって治療を放棄すればそれは医者としての正義を全うしたといえないだろう。最上もそれと同じである。彼は検事としての正義を忘れてただ自身の正義を貫こうとする。
彼が一般私人ならばまだ同情の余地はあったかもしれない。しかし、彼は行政権力の担い手なのである。
彼のような権力者が自分の好きなように権力を行使すればそれはもはや権力の暴走である。法という鎖につながれていた狂犬が野放しになったも同然なのだ。
ただでさえ、現実社会ではこういった検察権力の誤った行使で冤罪事件が後を絶たない。日本では戦後、死刑判決が出た事件では最近話題の袴田事件を含む五件の冤罪が発覚している。またすでに刑を執行された中にも冤罪だった可能性が高いものがある。
だからこそ私は死刑制度には個人的には反対だ。人間は神ではないし、けして過ちを犯さないとは言えないのに死刑を執行してしまっては取り返しがつかないだろう。ちなみに先進国では国として死刑制度を廃止してないのは日本だけである。
最上はかつて権力の暴走がこの国に何をもたらしたのか祖父から聞いてよくわかっていたはずだった。権力の暴走が生み出す究極は戦争である。
日本はかつて無謀な大戦に突入し多くの戦死者を出した。第二次大戦におけるインパール作戦のような無謀な作戦による餓死者、病死者というのが全体の戦死者数の6割を占めた。6割の人間は敵と戦って殺されたのではないのだ。
権力の暴走が生み出すそんな愚かな結果を誰よりも知っていた最上自身がその権力を暴走させてしまった皮肉。
彼とて優秀な検事のはずだった。自分のやっていることが検事として許されないことなどわかっていたはずだ。だからこそ彼は自分の身近にかつての教え子だった沖野を置いたのかもしれない。自分の暴走を止めてくれる存在として、あるいは自分の罪を追究してくれる存在として。
検事としての正義、人としての正義。そのはざまで葛藤し、最上は結局は検事としての道を踏み外してしまう。
権力は暴走する。だからこそそれを制御するものが必要だ。怪物のような凶悪犯に立ち向かうためには時としてその強大な権力が武器になる。しかし、自身がその権力に飲み込まれ怪物となってしまってはならない。
本作はさすがに二宮の演技が突出していて良く、ミステリーとしては見ごたえはあったが、松倉を交通事故で死なせるあたり、安易な娯楽作品という感じは拭えない。
また、最上が何故あのような大胆な行動に至ってしまったのかの説明が弱い気がした。彼が道を踏み外すまでの過程がもう少し丁寧に描かれていればよかった。
あと原作は未読だが、これは監督の意向なのか、本作が公開された当時の極右政権へのあからさまな批判というか揶揄した描写が多い気がした。気持ちはわかるが本作ではそれらが必須のものとは言えず少々ノイズになってしまった。