ザ・サークルのレビュー・感想・評価
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おもしろいけど、ありきたりなシナリオ
ソーシャルメディアの浸透と興隆を、エクストリームな想定を通じて風刺している作品。
おもしろいっちゃおもしろいけど、シナリオ想定の方向性としてはありきたりな感じがする。
でも、エマ・ワトソンがただただかわいいのと、そもそもソーシャルメディアにセルフィーを上げないというポリシーのエマパイセンにこの役をやらせている、って点が面白いなと思った。
原作は、2014年の年末に、確か同じく平積みになっていた『人と企業はどこで間違えるのか?』と一緒に買ったままこちらは1ページも読まずに積読になってる。結構分厚いんだけれど、2時間弱の映画でまとめきれる内容ならわざわざ読まなくていいかな、と思った。
同じテーマだと、平野啓一郎の『ドーン』(2009年)の方が面白い気がする。あらゆるところにカメラが設置されて、顔や行動が記録されてしまうような世界を背景として設計するなかで、それに対抗するようなムーブメントについても想定している点などで、より一層ありえそうなリアリティが検討されているように思う。
もう少し掘り下げて欲しかった
かつてジョージ・オーウェルは「1984年」で強権による超管理社会の到来を予言したが、この映画は、権力による強制ではなく自発的なSNSが超管理社会をもたらす可能性を描いた作品である。あまり出来のいい作品ではないが、世の中に警鐘を鳴らすという点では一定の評価をしなければならない。
人間は一匹狼よりも群れた羊になりたがる。孤立を怖れるからだ。孤立すれば生活はもとより、生命や身体、財産の安全さえ保証されなくなる。
SNSに記事や写真をアップロードすることは価値観そのものを発信することに等しい。いいね!をもらうことでささやかな承認欲求を満たすことができる。それを生き甲斐にしている人さえ存在する。
ちなみに映画では、SNSの投稿に対するリアクションを「ニコ」と「ムカ」と翻訳していたが、一瞬意味が分からなかった。普通に「いいね!」と「ひどいね!」でよかったと思う。
いいね!をもらうためには、なるべく多くの人と同じ価値観で発信する必要がある。少数派の価値観の投稿は袋叩きにされて炎上するからである。本来は自由な価値観を発信するはずのSNSが同調圧力の場と化しているのだ。
異端を許容し多様性を認めることが民主主義の根幹だとしたら、SNSには民主主義はない。ぬるま湯の中での承認欲求の充足と、少数派を叩くことで自分が強者になった勘違いをすることが、大多数の目的である。村八分が猖獗を極めた時代と寸分違わない。文明が発達し技術が進んでも、人間は一ミリも進歩していないのだ。
エマ・ワトソンは演技派のトム・ハンクスを相手に見劣りしない演技をした。価値観が変化していく時間が端折られて唐突な感じが否めないラストだったが、ひとりの一般女性ができることとしては最大の勇気を発揮したと言っていい。
しかし個人を糾弾しても、誰かに取って代わられるだけだ。新しい支配層がマジョリティを支配し、異端や少数派は常に迫害され続ける。このあたりの解決がないと、インターネット社会での民主主義の実現は困難だ。作品としてもう少し掘り下げて欲しかった。
評判の割には良い
予告編で興味を引き公開を楽しみにしていたものの、口コミ評価があまり良くないので鑑賞を躊躇していました。それでもやっぱり題材が面白そうなので観に行きました。
ところどころ、ん?という展開はあるものの、言うほど悪くはない。ある程度目をつぶれば結構楽しめる作品ではある。それだけ興味深い題材ですよね。実際のところ、これが現実としたらと思うと、終盤はホント怖かったです。でも数年後はあるんでしょうね。
10~20年後には「なんだ、こんなことくらいで映画化されてるのか」的な甘い作品になっているかも。
サークルはきっとある。
SNSに居る限り誰かに覗かれているし、その情報はどこかで管理されている。いき過ぎたオープンが、対人関係を壊す。プライバシーは必ずある。でも自分から遠ざかったり、Noを言わないと、シェアは際限ない。便利と監視、共感と扇動。シェアリングエコノミーの使い方。情報を持つ者が世界を支配する。オープンの恐ろしい面、情報倫理についてもの凄いメッセージがこの映画には描かれている。サークルはきっとある。
実は3部作で、大ヒットすればこの作品は不朽の名作になるだろう。
まず、解決していない謎がいくつも残っており、ここからどう話が発展していくかというところでこの作品は終わっている。
正直、これで完結されたら単なるB級映画、もしくは駄作と捉えることになるだろう。
今後どうなっていくか、楽しみである。
情報化社会に鳴る警鐘
現代の社会への警鐘を鳴らすような作品。
さまざまなSNSが抱える闇に疑問を投げかける。
豪華な俳優陣,面白そうな設定のプロットと,観客を惹きつける要素をたくさん持っていたのにも関わらず,脚本に今一ひねりがなく,残念に感じてしまった。もう少し作品に「ハデさ」が欲しかった印象。
どんなことでも
極論はあかん。あと、独占禁止法は仕事してください。
それと、サークルのような企業、普通に私達の社会になじんで存在してそうだなとか、私達も実はもう監視社会にいるんだなぁといった不安を残り香にして、スッキリさせない終わり方は良かったように思う。
2017-91
レビュー読んで、ビミョーだとはわかっていてもエマが見たいから見ました。
やっぱビミョーっす。
オチが弱い。
実はちょっと寝ちゃって、気づいたらエマがカヤックの上でぎゃーぎゃー言ってたんですが、
後でネタバレブログ読んで、話はわかってた。
大きな事件が起こるまでの加速感は良かったし、実際わたしたちも少なからず監視社会にいるのは感じるので、リアリティもあるんだけど、
オチ!ふつぅーー。
よっしゃー目にもの見せてやったぜ感がないです。
でもエマが相変わらず綺麗で、働く女のファッションとしては参考になりました😍
髪型まねしよーっと。
二項対立を消し去ることはできない
酷評されているが、現代の社会背景を巧みに汲み取り、批判した、良作だと思う。
「サークル」の宗教観は(これはエマが提案したものだが)真の民主主義は極度のアカウンタビリティによる個人の透明化によって実現されるというものだ。SNSで自らの全てをシェアする。そうすることで常に誰かの監視下に置かれるわけだ。すると、犯罪が起きることはなくなるし、身の危険が迫る時には誰かが助けてくれる。これが彼らの考える理想国家のあり方である。私はこれは、理論上ではアリであると思う。
しかし、やはり極論というのは常に机上の空論でしかありえないのだ。亡くなった幼馴染や、エマの家族らのように、プライベートを必要とする者もいる。パブリックが存在するとすればその世界には必ず補集合としてプライベートが存在しているのである。これは全ての事象に当てはまるのであろう。(この集合、補集合の概念は我々人間が勝手に決定した境界に過ぎないという考えはさて置くとして。)
であるから、この世界から個の保証を消し去ることは殆ど不可能なのである。この世は二項対立が複雑に絡み合ったカオス空間だ。人間におけるその様々な作用素の拠り所が倫理であろう。
モラルとは、基本的に守られるべきものである。普遍的なモラルの原則は「良く理解した大部分の公衆が真と認めるもの」と考えられる。ここで「良く理解した」の部分は前提として非常に重要である。さらに「普遍」とは「不変」とは大きく異なる。ある時代で良しとされていた事柄がある時代では認められていない事例など、数え切れないほど存在する。であるから、「普遍的原則」をたった1つに確立させることは容易ではないのだ。「普遍的原則」も「絶対に普遍」であることはありえない。故にその追求は個人の責任で行われるべきであって、それを追求する姿勢が倫理的なのだ。
大衆が、完全な透明化が「普遍的原則」であると主張したとしても、それは絶対普遍ではない。必ずそこに補集合が存在し、その間に混沌が生まれ、綻びとなってゆく。これがエマ始め、彼らの失敗である。
また、内部告発は「組織への個人的な恨みや復讐が動機ではないこと」や「内部での解決の努力の尽くした上で行うこと」がモラル的な条件に挙げられる。エマはラストシーンでトム・ハンクスを吊るしあげたが、これは以上の事項に適合しているのだろうか。反モラルの企業が反モラルの社員に崩壊させられるとは、皮肉な話であろう。
長々書いたが、まぁつまるところ、エマ・ワトソンが尋常じゃなく可愛いということなのである。
原作小説のメイはほとんど別人!
ハヤカワ文庫から刊行された原作小説を読んだ上で本作と比べると物語からキャラクター、結末までいろいろと違いがある。
ただ原作者のデイヴ・エガーズは普段から映画の脚本もこなす才人であり、本作の脚本にも参加しているので大幅な変更は納得づくなのだろう。
まずエマ・ワトソン演じる主役のメイベリン・レンナー・ホランド(メイ)は原作ではあまり好感の持てる人物ではない。
正直原作のままのメイをワトソンが演じてしまうと知的で清純な彼女のイメージを壊してしまいかなねい。
原作と本作との変更点を考えると、やはり『ハリー・ポッター』シリーズでハーマイオニーを演じたワトソンは欧米では数少ないアイドル女優なのかもしれないという想いを抱いた。
過去には『ウォールフラワー』で性に奔放な少女サムを演じたり、『ブリングリング』では犯罪者の役も演じていたが、大して過激な演技でなかったにもかかわらずそれほど話題にならず、やはり『美女と野獣』のヒロイン役に抜擢されるところがその証明ではないだろうか。
最近の出演作品の『スイス・アーミー・マン』で屁を推力にして水上を進む死体という美少年ハリーの面影を微塵も感じさせない役柄を演じたダニエル・ラドクリフとは天と地の差がある。
メイの元彼マーサーを本作では見た目が悪くないエラー・コルトレーンが演じているが、原作のマーサーは背は高いものの二重あごで肥っているし、性格も少し独善的でメイは終始彼を嫌い続けている。
なおコルトレーンは『6才のボクが、大人になるまで。』において、本当に6歳から18歳まで12年間をかけてフィクション映画の主役を演じている。
この作品は父親役のイーサン・ホークを含めた出演者全員が実際に12年間年齢を重ねていくのが観られるという不思議かつ希有な映画である。
また「トゥルーユー」の開発者としてサークル創設者の1人になり、メイにサークルの危険性を伝えるタイの役を本作では『スター・ウォーズ』新シリーズのフィン役のジョン・ボイエガが演じているが、原作では白人であり、メイとは肉体関係まで結んでいる。
本作でもタイはメイにサークルの地下を案内しているが、原作ではそこで1回、また透明化後にトイレで待ち合わせて1回、2人は性行為に及ぶ。
メイの親友アニーが自然の中で自分を取り戻すのが本作の描写だが、原作は全く違う。
透明化したことでサークルでの発言力が増したメイに対抗心を燃やしたアニーは「パスト・パーフェクト」という自分の家系の過去を透明化するプログラムに自ら進んで志願する。
元々アニーの家系は最初にアメリカに入植した名門の家柄(ピルグリム・ファーザース)だったのだが、過去を調べたら入植前の先祖がイギリス本国ではアイルランド人を奴隷として使っていたとか、アメリカ入植後の先祖も黒人奴隷を使役していたことが判明してしまう。
さらには両親が目の前で人が溺れ死ぬのを放置していたことも明るみに出てしまう。
それらが重なって精神崩壊したアニーはついに倒れてしまうが、原作の最後ではベッドに寝たままいつ目覚めるかもわからない昏睡状態となった様が描かれている。
そして何と言ってもとにかくメイが全然違う。
タイと肉体関係があることは触れたが、自分が優位に立てるという理由から他にも本作には登場しないフランシス・ガラヴェンタという性的には全く魅力を感じない相手とも肉体関係を持つ。
両親のプライベート映像を全世界にさらしてしまうことは本作も原作も変わらないが、その後のメイの対応が違う。
本作では両親に対してすまない気持ちでいっぱいだったが、原作では自分が引き起こしたにもかかわらず時には両親を非難して関係の断絶を肯定しさえする。
また本作では会場の提案からいやいやマーサーの居場所を探すことになるが、原作では彼女自らがマーサーを探すことを提案するし、ドローンを飛ばすのもメイ本人である。
マーサーがドローンで前方を塞がれたために事故死する本作の描写に対して、原作では追いつめられたマーサーが覚悟の自殺をする。
原作のメイは自説を曲げないマーサーに自分の正しさを証明させるのにやっきになっている。
そしてタイの協力を得て創業者の2人に手痛いしっぺ返しを喰らわせるのが本作の最大の見せ場になるが、原作はむしろ協力を申し出たタイを2人にチクり、タイはほとんど軟禁状態、サークルが全世界を支配下に収める透明化は完成してしまう。
原作のメイは実に計算高いいやらしい女なのだ。
タイ以外の創業者2人も裏では暗躍する腹黒い人物のように本作では描かれているが、原作では違う。
トム・ハンクスの演じたイーモン・ベイリーは、サークルで透明化を推し進めることが独裁国家に民主主義をもたらすなど世界を救うと盲信するカルトな宗教家のようである。
また本作でパットン・オズワルトが扮したトム・ステントンは、原作ではベイリーよりも力関係が明らかに上である。ただし裏で何をしているかまでは描かれていないので、そこも本作とは違う。
その他大きな相違点は2つある。
まずメイが透明化するきかっけだが、本作では船と衝突してシーチェンジを通して視聴者の目に触れて助けられた設定になっているが、原作ではカヤックとパドルを勝手に使用したことで警察に捕まったもののレンタル主に温情で許されたことになっている。
また本作でも透明化を押し進める政治家が登場するが、原作では透明化しない政治家への圧力が強くなり、その後わずか数ヶ月でワシントンの政治家の9割が透明化してしまい、世界中で透明化した政治家が何万人も存在するようになる。
本作のTwitterやLINE的なコメントに簡体字漢語とアラビア語がやたらと登場するが、原作では世界中から届くさまざまなコメントの言語への言及は一切ないし、漢族の亡命彫刻家にサークル内でオブジェを創らせる描写があったり、チベット問題に言及する箇所があったりと、わりと独裁国家には否定的である。
本作では単なる人探しの手段になっていた「ソウルサーチ」も、原作ではまさに犯罪を未然に防ぐためにその予備軍になりそうな人間を割り出すシステムとなっている。
読んでいてこの設定がアニメの『PSYCHO-PASS サイコパス』の犯罪者あるいは犯罪予備軍を数値化するサイコパスシステムに類似しているように感じた。
原作では結婚相手や恋人までこのシステムで見つけるのを匂わせているが、これもまさにサイコパスシステムそのものである。
また2015年にアニメ映画化された伊藤計劃の原作小説『ハーモニー』では、高度な監視管理体制を築いた組織「生府」が国家権力以上の力を持っていて、人間の意識まで同一化して個人の意識がなくなり、世界が完全に均一化されることで物語は終わる。
サークルが完全化してディストピアが現出する衝撃的な原作の最後に似ている。
『ハーモニー』では人々は自殺することすら許されず、発展途上国は「生府」の範囲ではないが、その設定もどこか似ている。
『ハーモニー』は日本では2008年に出版され、アメリカで英訳されて2010年にフィリップ・K・ディック賞特別賞を受賞している。
『PSYCHO-PASS サイコパス』も2012年に放映が開始されているが、『ザ・サークル』の原作小説は2013年に上梓されている。
ディストピア小説の元祖、ジョーシ・オーウェルの『1984年』の流れを汲む小説であるのは間違いないが、SNSの役割に焦点を当てて直近の未来的な作品にはなっているものの、筆者には上記2作品に設定が似ているように思えてしまった。
影響を受けている可能性があるだろうし、本作よりも原作小説の方が格段に面白い。
日本でもインターネットやSNSの普及で大手メディアで隠蔽されたり故意に語って来られなかった真実が表に出るようになったし、トランプ大統領がTwitterを既存メディアを攻撃する手段にしたことで日本でも有名人の間で同じ利用法が定着しつつあるように感じる。
ただし普段から衆人環視にさらされる政治家や作家などの有名人とは違って一般大衆のSNS依存は本作で描かれる危険性を常に孕んでいるのは疑いようがない。
筆者はTwitterをしたことがない。
過去にはFACEBOOKやミクシーも利用していたが、興味が持つのはせいぜい始めてから1・2ヶ月ほどで、それ以降は面倒臭さが先にたち、今や前者は退会、後者は何年もチェックしていない。
今年必要に迫られてLINEを始めて人とやり取りしていたが、スマホを持っていないためにPCで入力していたこともあって億劫になりやはり1ヶ月で飽きてしまった。
周りから何度かスマホやタブレットPCを持つ気はないのか聞かれることがあったが、外出時に持ち忘れることすらあるガラケーで十分である。
有名人ではない筆者からすると、本作のメイのように世界中の人々からコメントをもらってまたコメントを返すなどただただ鬱陶しいだけである。
ちょっとだけ未来のSNS
映画のテーマはSNSや監視社会の恐ろしさ、みたいな物だと思うのですが、エンジニアとしては、ちょっとだけ未来のテクノロジーがとてもテンション上がりました。ありそうで、なさそう。でも、もうすぐ実用化されそうな、微妙な所を突いてくるので心をくすぐられます。実際にこうゆう社会になったらどうなるんでしょうね。世界中の人が、自分の行動をライブ中継してる。でもそんな社会になったら、一人一人への注目は多分、予想を遥かに超えて低くなると私は思っています。なんせ、普通の人の生活なんて見ても面白く無いからね。
想像力を駆使すると…
タイトルバックの幾何学模様、はて、どこかで見たような?
日常をモニターされるのが、どういうことなのか、想像しなかったのかな。
裏も表もなく、すべてを晒されるって、かなり恐ろしいことのようにも思うけど。もしかしたら、これは現実?
そう考えると、このレビューもかなり、危ない?!
ありふれたテーマ。
行きすぎた理想が狂気に変わっていくというのはこれまでなんども描かれてきた普遍的なテーマなので、この映画だけのキラリと光るものがイマイチでした。
普通の映画としてはまぁまぁ面白いので、よかったとは思います。
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