甘き人生 : 映画評論・批評
2017年7月4日更新
2017年7月15日よりユーロスペース、有楽町スバル座ほかにてロードショー
普遍的なまでのリアリティが深い感動を呼び起こす
先鋭的な権力・ファシズム批判を露わに謳い上げる政治映画から家族の深淵を探求するファミリー・ロマンスまで、多彩なモチーフを豊潤な映像感覚で描くマルコ・ベロッキオは今やイタリア映画随一の巨匠といってよい。新作「甘き人生」は、近年、好んで手がけている後者のテーマを最も純化させた傑作である。
1969年、トリノ。9歳の少年マッシモ(ニコロ・カブラス)は、突然、母親(バルバラ・ロンキ)が謎めいた死を遂げたことで、深刻なトラウマを抱え、以後、心を閉ざしたまま、人を愛することができない。
1990年代、敏腕なジャーナリストとなったマッシモ(ヴァレリオ・マスタンドレア)はサラエボ紛争取材後にパニック障害を起こし、精神科医のエリーザ(ベレニス・ベジョ)と出会って、恋に落ちる。
映画は、滑らかさを欠いたギクシャクした語り口でこの二つの時代をたえず往還しながら、この自閉的で癒しがたい孤独を抱えた男の屈折した内面世界に深く分け入っていく。心筋梗塞という母の死因は果たしてほんとうなのかという積年の疑念が湧いてくる。マッシモが母の死の真相をたどるひとつのきっかけとなったのが、新聞の「母を愛せない」と悩む中年男の人生相談投稿にマッシモが自身の経験を綴った回答を寄せ、社会現象のようなセンセーショナルな話題を呼んでしまう皮肉なエピソードであることは興味深い。
冒頭、明るい自宅の居間で母とマッシモが哄笑しながらツイストを踊るシーンの至福感はちょっと形容しがたい。この強烈なまでの歓喜に満ちた躍動感は、エリーザの祖母のダイヤモンド婚式のパーティで、マッシモとエリーザが吹っ切れたように激しく踊りまくるシーンと深く響応し合っている。
一見、まったく似ていないベレニス・ベジョとバルバラ・ロンキの顔が一瞬、重なる瞬間がいくどかある。ラスト近く、深夜のプールで、高飛び込み台からダイブするエリーザに象徴されるように、マルコ・ベロッキオは、随所で、母とエリーザのイメージを意図的に混淆させ、苦悩にまみれたマッシモという一人の男を麗しく救済している。その普遍的なまでのリアリティが深い感動を呼び起こすのである。
(高崎俊夫)