「大作出現に、こちらが黙る番だ」歓びのトスカーナ きりんさんの映画レビュー(感想・評価)
大作出現に、こちらが黙る番だ
この、けたたましいオープニング 😳💦
とにかく、イタリア人の早口と大声にはびっくりする。
「ディオールを着る女性が出演している」という予告篇を見て、ディオール推しの僕としては先ずそこに飛びついたのですけれど、ウ~ン・・・てんてんてん(笑)
イタリアで10日ほどを過ごし、やっと静かで落ち着いたパリに戻れたョ💦と「ホッ」とした僕は、
その矢先、パリの舗道で、何やらあちらから近づいてくる賑やかな群団に、も一、足がすくんでしまった事があるのです。
負けじと張り上げる元気な声の大騒ぎが1ブロック先から、遥か遠くから耳に届く。
「うッ、イタリア人だろうなァ」と判る。
やっぱりイタリア語である。
あの女性たちの賑々(にぎにぎ)しさにはまったく たまげたもんだ。
「ディオールしか着ないのよ」とまくし立てる金髪のベアトリーチェと、全身タトゥーをまとってうつむき、フードを被る女=ダンマリ痩せぎすの ドナテッラ。
二人の出会いは精神科が併設された婦人更生施設でした。
のべつ幕なしに喋るベアトリーチェには友だちがいないのだ。嫌われ者だ。だから新しい入所者の友だちが彼女は欲しかったのだ。
「ドクターかと思ったら同じ患者じゃん」と判明した時の、ドナテッラの拍子抜けの呆れ顔に笑ってしまうが、
あれは実にいいオープニングだ。
更生施設に、明るい陽の光と女たちのさんざめきが響き、暗くならないようにと細心して映画は作られる。
・・・・・・・・・・・・·
話は横に逸れるけれど、
◆あのバロック音楽の大家=アントニオ・ヴィヴァルディも、イタリアベネチアにあった「婦人更生施設」の職員でした。名称は「ピエタ慈善院」。
彼はそこの合奏クラブの指導者です。自身司祭 (=神父)でもありました。
ヴィヴァルディは、つまりその施設の入所者の女性たちのために、たくさんの協奏曲を書いたのです。
おそらくその楽団は、資金集めのために演奏会やツアーもやった事でしょう。
皆さんご存じ、あの名曲「四季」を奏でていたのは、婦人更生施設の、まさしく彼女たちだったのです。
もうひとつ、
◆親きょうだいに嫌われたはみ出し者の物語としては、アン・ハサウェイの出演作「レイチェルの結婚」を思い出したのだけれど、アン・ハサウェイ演じる薬物中毒者=レイチェルには、かばってくれるバディが誰もいなかった。そこがたいへん痛かったあの映画ですね。
でも、本作「歓びのトスカーナ」では、嫌われ者同士の二人の友情のタッグが素晴らしいのです。
あの二人三脚がね。
「プラス極とマイナス極」は反発していても引かれる(惹かれる)のだなァ。
「なぜ話そうとしないの?」
「私たち何を捜しているの?」
「幸せをほんの少し」。
― これは、ものすごくおしゃべりなベアトリーチェが、自分のべしゃりを抑えてドナテッラに語らせようとするシーン。
とっても良いではないか。
懐中電灯を付けっぱなしでないと暗い夜が不安で眠れなかった黒髪のドナテッラ。
無理やりのお節介焼き。ルームメイトになったベアトリーチェは、そんなちっぽけな懐中電灯を遥かに凌駕する《強烈な太陽光線ビーム》で、親友を敵から守ったのだ。
こんなふうに、どうしようもなかった自分の「弱さや欠け」が、「誰かの弱さや欠け」をあかるく照らした不思議 って、僕らの人生においても存在する。
思いもかけない「ナイスバディ」の誕生なのだ。
笑え!イタリアのテルマとルイーズ。
劇中、「養父母役」も、「施設の職員たち」も、これ以上ない最高の脇役の仕事で
ドラマをしっかりと支えて固めた。
新しいイタリア映画にも、ここまでの文芸作品が誕生していたとは、驚愕の2時間だった。
そして映画を観終わってしまうと、
あんなにまくしてていたベアトリーチェの、喋り過ぎて声がかれた、あのかすれ声がとっても懐かしい。
やかましくて耳を塞ぎたいと思っていたほどの騒ぎだったのに、あの声がもっと聞きたいと思っている僕がいました。
水の中から、再び子を抱いて浮かび上がったヴィーナスの誕生に、
もう僕は泣くしかなかったろう。
双方の女を黙らせようとしていたのは「男」だよね。
黙れ男どもと言いたいエンディングの余韻でした。
・・・・・・・・・・・・・
そういえば
我が「きりん家のお墓」には
行く当てのなかった、入れてもらえるお墓がなかった二人の婦人のお骨が、それぞれ一緒に入っているんですよ。
そこには陽の光がたっぷり注いでいるかな? 元気なおしゃべりがドアの向こうから聞こえてくるだろうか?
彼女たちも同じ境遇で出会って、骨になっても、いまは女同士で楽しくやっていてもらいたい。
里帰りのおり、墓苑を見てこようと思います。
「あなたがいてくれて良かった」。
星5つ。間違いないです。
✨ ✨ ✨ ✨ ✨
追記:
鑑賞後ずっと心に残ったシーンは、一番最期の2人の様子でした。
施設に戻ってきてしまったドナテッラを2階の窓から見下ろして、飲まされた強めの向精神薬のせいでボオっとしている表情の中から「コツコツ」とガラスを小さく叩いて、親友を迎える。
そのベアトリーチェの迫真の演技。
・息子には会えたのね?
・帰ってきてしまったのね・・
・私たちほかに行く所がないものね
― このベアトリーチェ無言の表情の、一万の言葉に勝る語りかけが脳裏に染みついて離れない。
映画のエンドタイトルには「イタリアの措置入院は○○年にそのあり方が緩和された」との断り書きがあった。
実はあれこそがあの映画の言わんとした事。
居室内で幻覚を見て大騒ぎの女性が出ていたが、別室に運ばれ、ベッドで抑制されて鎮静剤を注射されるシーンがあった。
僕は注視していたが、Gパンは履いたままで失禁も映っていなかったが、あれは象徴的で暗示のある光景だったのですよ。
僕は脱走した女性に付き添って病院に行った経験があります。
あっという間に大人数の職員に押さえつけられて、鎮静剤を注射され、同時にあっという間に下半身は全て剥ぎ取られて紙おむつを当てられてしまった。僕の眼前で。
たぶんベアトリーチェもドナテッラも、劇中では撮影は割愛されていたけれど同じように《脱走者への処置として》同じ事をされていたはずです。
精神病院ものは、本当の姿は凄まじいんです。