ルージュの手紙のレビュー・感想・評価
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2人に乾杯、そして人生に
映画「ルージュの手紙」(マルタン・プロボ監督)から。
カトリーヌ・ドヌーブとカトリーヌ・フロ、初の共演作、
これだけでも、フランス映画ファンにとって楽しみである。
さて、30年ぶりに再会した、血の繋がらない母娘って設定が
どうも馴染めずいたが、時間が経つにつれ、面白さが増した。
母親が娘の現在の職業を当てようとするシーン、
「あなたの仕事は? 言わないで、当てるわ、
ソーシャルワーカー、クソまじめな図書館司書」
「助産婦よ」・・フランスでもどこの国でも、
図書館司書ってクソ真面目なんだと、笑いながらメモをした。
その助産婦らしい台詞も、メモの対象だった。
「赤ちゃんは『無』から現れるの」
「体は勝手に呼吸するけど『心』は違うわ、
思い通りにコントロールできないからよ」
そんな、なるほど・・と思ったフレーズもあったけれど、
メモを振り返ったら、2度も登場した台詞が見つかった。
それが「2人に乾杯、そして人生に」
波瀾万丈な人生を送って来た母親役のカトリーヌ・ドヌーブが
口にしたから、気になる一言。
フランス映画らしい、と言えばそれまでだけど、
どんなに辛い時でも、楽しい時でも、悲しい時でも、
この台詞は、永遠に不滅・・と思ってしまう。
「2人に乾杯、そして人生に」・・私も、使ってみようかな。
死んだ人を生まれたての幼な子の中に見る。
クレールは自分でも助産婦といっていて、息子のシモンも助産婦と言っていて自分でも助産婦になりたいといいだして、現代の話よね?今時助産婦?なんで?と思ってたら、ラストの最新病院で、これからは助産婦じゃなくて助産師と呼びますからってゆってて、あぁわざとやってんね、と得心しました。
しかもフランス語の原題がsage femmeなのでまんま助産婦の映画なんですな。(ちなみに英題はThe Midwife、こちらも助産婦の意味)
助産師という概念が広がる前から出産に立ち会ってきた助産婦の物語って意味なんでしょうかね?
携わってきた時間の長さの強調としての「古い」言葉?
まぁそんなことはどうでもよくて。
ふたりのタイプの違うカトリーヌが大活躍します。
フロさんはナチュラルでヘルシーな感じで、ドヌーブさんはエレガンスかつ脂っこい感じでいい対比でした。派手な服装、タバコにお酒に博打。似合いますねぇドヌーブに。
ドヌーブ演じるベアトリスが、わたしには影が薄くかんじました。カトリーヌフロ演じるクレールの物語の脇役って感じがしたんです。
そしてベアトリスの言動が、んーまぁあんまり共感もできず(とはいえ拒絶ってゆう強い感情も生まれず)だったので。
シモンを見てかつての夫(クレールの父)に似ていて絶句してるところはちょっとジーンとしました。
そして本筋ではないのかもしれませが、出産の現場のシーンにジーンとしました。どれもこれも。
特に、夜中にやってきた妊婦が、クレールが取り上げた子で、産まれた子供の名前が、クレールのお父さんの名前にしたように記憶していて(記憶あいまい)、クレールが望んだわけでも、妊婦の忖度でもないけど偶然そうなって。
それは言い表せぬ温かな気持ちをスクリーン越しの私にくれました。
生まれたての赤子の中には、死んだあの人がいる。
そう思うことは、どうやら幸せ。
生と死とそれらをつなぐ人
カトリーヌ・ドヌーヴとカトリーヌ・フロという、それぞれの世代を代表するようなフランスの大女優の共演とあらば、勝手に期待値は高まるし、ましてや血の繋がらない母娘役だなんて聞いたら、バチバチと演技合戦を繰り広げてくれるんじゃないか?なんて思っていたりしたのだけれど、その点、案外あっさりとしたつくり。それもそのはず、という感じで原題を「Sege Femme(助産婦)」と冠している通り、カトリーヌ・フロ演じるとあるベテラン助産婦を中心に置き、彼女を通じて生まれ出づることと死に逝くことを見つめた、生命の物語だったからだ。まさか義母と娘がバチバチやる映画なんかであるはずがなかったというわけだ。
ドヌーヴはその「死に逝くもの」の象徴として君臨する。フロは助産婦として生まれ来る命を抱きとめるる日々を送っている。まだ医学生の息子には子供が出来、またその息子が大学を辞めて母と同じ助産師になりたいと言い出す。「生」と「死」と「それをつなぐ人」という実に分かりやすい構図の3人ではあるけれど、それを単純化して記号化するのではなく、彼らの存在を象徴やメタファーとして命の賛歌、あるいは生と死の賛歌として作品にできるあたり、やっぱりフランスの知性(とユーモア)って好きだなぁといつも思う。
ただ、やっぱり彼女らほどの女優を使ってなら、日本版の予告編が煽っていたような「遺恨を残した義母娘の心の対決」みたいな映画で二人の競演を見たかったような気もしてくるのは、ファンの我儘というものだろうか。ふたりの共演シーンも割とさっぱりしていて、ちょっと物足らないような気がしてしまったのも、二人のファンであるが故の実感だった。
ふたりの女性の心の機微を充分描いた作品
フランス、パリ郊外の小都市に暮らす49歳の助産婦クレール(カトリーヌ・フロ)。
ある日、彼女のもとにベアトリス(カトリーヌ・ドヌーヴ)という女性から電話が入る。
ベアトリスは30年前に別れた義母(父親の後妻)だが、最近、末期の脳腫瘍が発見され、不安になったので電話したという。
自由奔放で自らの意志で家を飛び出し、父と自分を捨てたことに蟠(わだかま)りがあるクレールだったが、ベアトリスと会うことにしたところ、ベアトリスは相変わらず身勝手で父が彼女の出奔後に自殺したことも知らないありさまだった・・・
というところから始まる物語で、見どころはふたりのカトリーヌの共演。
真面目一辺倒のクレールは、再開後もベアトリスへの蟠りは溶けはしないけれど、彼女の自由奔放さによって自分の中の「女」の部分が刺激されていくあたりが興味深い。
クレールが懇意となる中年男性ポールを、ダルデンヌ兄弟監督作品の常連オリヴィエ・グルメが演じているが、一癖もふた癖もあった頃から比べると十分に脂が抜け、粗野のように見えて優しい男を好演している。
ベアトリスを演じるカトリーヌ・ドヌーヴも、まぁ最近の彼女がよく演じる役どころの延長線上にあるような設定なんだけれども、不安や苛立ちを充分に演じていて、こちらも好演。
主役のお気に入り女優、カトリーヌ・フロも当然のように好演なのだが、49歳というのには少々無理があるのではありますまいか。
劇中、再会の際、ベアトリスに「あなたは昔から老け顔だったからね」なんて言わせてはいるけれども。
クレールが助産婦なので、劇中幾度となく登場する出産シーンは実にリアル。
死産の子どものシーンは息をのみました。
そんな、誕生に立ち会うことが多いクレールが、死を目前にした義母と出逢うというあたりに映画の奥行きも感じさせられるし、日本タイトルにもなっている最後の手紙も味わい深いが、黙って姿を消すベアトリスを象徴する、川に浮かんだ小舟の沈みゆくラストカットは、映画に余韻を与えている。
監督は『ヴィオレット ある作家の肖像』のマルタン・プロヴォ。
ふたりの女性の心の機微を充分とらえているが、やや尺が長いかなぁ、というのが正直なところ。
もう15分ほど詰めれば、ピリッとした秀作になったのに、と思いました。
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