「歴史は塗り替えても己の過去は塗り替えられぬ」アイリッシュマン 浮遊きびなごさんの映画レビュー(感想・評価)
歴史は塗り替えても己の過去は塗り替えられぬ
NETFLIXには加入してるけど。してるけど!
この作品はもう劇場で観たくて堪らなかったので、鑑賞料より高い交通費を払って劇場鑑賞!
だってあぁた、監督マーティン・スコセッシ&出演デニーロ/パチーノ/ジョーペシ/カイテルという二度と見られないかもしれない超豪華布陣ですよ!
おまけにこの顔ぶれで第二次世界大戦後アメリカの巨大な闇のひとつ、ジミー・ホッファを題材としたギャング映画を撮るって言うんですよ!
そりゃもうヨダレが口から放射熱線状態ですよッ!(劇場に来ないで)
ジミー・ホッファという人物は日本ではそこまで知名度は高くないかと思うが(色んな映画でちょいちょい名前は出てくる)、本作にはホッファの他にも戦後アメリカ史における重要人物・事件が次々と登場する。
ネタバレ指定で書いてしまってもしようがないかもだが……鑑賞予定の方は
①ジミー・ホッファの経歴
②キューバ危機(特にピッグス湾事件)
③ジョン・F&ロバート・ケネディ(特にロバート)
くらいを軽く下調べしておくと非常に楽しめるかと。
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本作は上映時間209分という相当な長尺。だが、そこはさすがスコセッシ監督。テンション爆発の『ウルフ・オブ・ウォールストリート』(180分)、静謐極まる『沈黙』(161分)と同じく、長尺を感じさせない恐ろしいほどのリズム感覚は驚異。(トイレにはめっちゃ行きたくなったが)眠気には全く襲われず、むしろどんどん銀幕に見入ってしまっているんである。
スコセッシ監督作を鑑賞していつも感じるのは、映画全体がまるで巨大な楽曲のように構築されているという感覚。
本作は主人公フランクを中心に3つのタイムラインを自在に行き来しつつ、更にそこに他キャラクターの挿話がアドリブのように挟み込まれる。これによって生み出される感覚は、“テンポが良い”≒“小気味良いリズムを刻み続ける”とはちょっとニュアンスが違っていて、言うなれば静と動のリズムがまるで複雑にうねる波のように伝わってくる感覚とでも言うか。
誤解を恐れず書くと、本作は終盤が長い。本作の最初の2.5時間は饒舌な音楽とパワフルな演出によって飛ぶように過ぎ去るが、そこから音楽も消え失せフランクが“減衰”してゆく残り1時間は長く重苦しい。だがそれは、この『アイリッシュマン』というひとつの“楽曲”を完成させる上で必要な長さであったと感じられるのである。
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その楽曲を支えるのが、ロバート・デ・ニーロ、アル・パチーノ、ジョー・ペシというアメリカ映画史を支え続けた名優達の共演。
もうね、1人出るだけで画がバシッと締まるようなパワフルな俳優が3人揃い踏みするとですね、画が締まり過ぎて破裂するんじゃないっかってくらいの物凄い密度と説得力の映像になりますよ、やっぱ。
労組組合の代表として絶大な権力を持ったジミー。演説シーンでのカリスマ性や、権力を振るう時の傲慢な表情も良いが、数少ない友人であるフランクと一対一で接する時の安堵しきった優しげな表情が、じわりじわりと泣けてくる。
大物マフィアのラッセルは、小さく物腰柔らかな好好爺で面倒見は良いし仁義もあるが、それでも彼はあくまで“組織”の人間。いざとなれば血も凍るような決断も下せる男だ。冷たいサラダをこさえながらフランクにジミー殺しを命じるシーンの非情さよ。
そして“家塗り職人”フランク。
ベトナム戦争で従軍していた時と同じく、忠実に機械的に自分の仕事をこなせば、家族を養えるだけの報酬を受け取れる。仲間や組織からの信頼も得られる。だから彼はただ淡々と仕事をこなす(論理的で鮮やかな“クレイジー・ジョー”殺しが凄い)。
だがジミーとの出会いそして彼の凋落をきっかけに、フランクが盲目的に信じ行ってきたことが彼の中で壊れてゆく。
主要3人の共演シーンはどれも物凄い見応えなのだが、なかでも3人の友情が終わりを迎える“最後通告”のシーンには胸が詰まった。ジミーを庇いたいのに立場上そうはいかないラッセルの苛立ちも分かるし、ジミーは自分の性分はどうしても曲げられないものだと自分で理解しているし、2人に板挟みになってその顔に深い深い皺を刻むフランクの苦渋の表情は未だに忘れ難い。
そしてジミー殺しの場面。
ジミーは自分の後頭部に銃弾が撃ち込まれる最期の瞬間まで、フランクのことを心から信頼していた。そもそもフランクがあの場にいなければ、ジミーはのこのこと自身の“処刑場”に馳せ参じはしなかったろう(それもラッセルの冷徹な読みだったのだと思う)。そんな風に自分を信じてくれた友の命が、乾いた銃声たった2つで絶たれるシーンの、あの悲しいくらいの軽さとあっけなさ。
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歴史を動かすような“仕事”をこなし続けたフランク。
だがどれだけ大きな仕事をこなしても、その職を退けば組織で得た信頼など何にもならないし、かつての仲間達も次々に自分の人生から消えてゆく。
一方、自分を心から信じてくれた男を裏切った後悔の念と、愛する娘から注がれる愛情ではなく恐怖の眼差しは、決して消えない。どんな汚れ仕事も正確無比にこなしてきたフランクが、娘の「なぜ?」というたった一言に狼狽える姿が悲しい。
先ほど本作を楽曲と例えたが、ラッセルがジミー殺しを命じる辺りから、それまで饒舌に流れていた音楽も一気にフェードアウトする。それはまるでフランク達自身の人生がフェードアウトしていく様を表しているかのよう。
チームスター台頭、キューバ危機、JFK暗殺など、戦後アメリカ史を揺るがす事件の巨大な歯車として暗躍し続けた3人の男たち。
だが、ジミーはその死を確かめられることすらなく消え失せ、ラッセルは小さく小さく車椅子に縮こまったまま消え失せ、そしてフランクも、心を許せる誰かに看取られることなく、この世から消え失せようとしている。
どれほどに歴史を動かした“老兵”であろうと、いつしか歴史の闇に埋もれて忘れ去られ、やがては自分自身の人生にすら忘れ去られて消えてゆく。なんという無常か。
最後、生前のジミーと同じく「扉を少し開けておいてくれ」とフランクは頼んだ。
敵だらけだったジミーは、『扉の向こうに自分を守ってくれる奴がいてくれる』という安心を感じたまま眠りたかったんだろうか。
そしてフランクがジミーと同じ頼みを口にしたのは、友を裏切ったことへの後悔や悼みの念からだろうか。それとも、自分もまだ扉の向こうの世界の誰かと繋がってるはずだと信じなければ、安心したまま独りでは眠れなかったんだろうか。
歴史に名を残すよりも、最期の眠りにつく時、誰かが隣にいてくれること。自分自身にとってそちらの方がずっと価値ある人生なのかもしれない。巨大な歴史の闇を描きながらも、そんなミニマムな悲しみに収束する傑作サーガ(大河)。
<2019.11.23鑑賞>
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長い余談:
スコセッシの例の話題について。
面倒なのであまり細かくは書かないが……特定のコンテンツを名指しして槍玉に上げたのはとても褒められないものの……『アイリッシュマン』を観た今、スコセッシの“例の不満”は、売れる映画しか作(ら)れなくなった米映画界全体に向けたものだったのだろうと改めて思う。
『アイリッシュマン』はいまや数少ない大河映画で、残念ながら全世界で数億ドルを稼げるようなエンタメ映画では、恐らく無い。だが本作には興収などでは測れない価値がある。米国そして映画人達の歴史をひとつの作品として構成してみせた本作は、楽曲・絵画・文章・演劇では表現不能な、まさしく『映画』と呼称する外に無い味わいがある。
豊富な資金があるとはいえ、劇場公開を前提としないNetflixの元で映画を撮ることは、スコセッシのような“映画家”にとって忸怩たる想いがあったに違いない(そこも僕が劇場で本作を観たかった大きな理由のひとつ)。
1990年、邦画界から冷遇されていた黒澤明がスピルバーグ等の出資で実現させた作品『夢』。そこに画家ゴッホ役として友情出演していたスコセッシを思い出した。ここに来て彼の境遇が、当時の黒澤監督とダブって見えた。
それは無論、僕もド派手で楽しく爽快感のある映画は大好きだ。親しみがいがあり共感できるキャラクターが登場する映画は大好きだ。きっと誰だって、それが映画好きになったきっかけなのだし。
だけどそれだけでは――それだけを求めては、『夢』『乱』のような心の臓に深く刻まれるような映画は産み出されなかったとも強く思う。『アイリッシュマン』も然り。頑なな生き方は悲しかろうと共感されざろうと、それはそれで国の歴史であり、人の歴史。映画として描くべき人の姿だと思う訳で。
最初に書いた通りスコセッシの例の発言を100%肯定はしないが、エンタメであれアートであれ、どちらの種類の映画も全力で作り手が取り組めるように制作会社の方々には舵取りをしていただけると嬉しいです。理想論だろうけどね。
観ましたよ〜
事前に、浮遊きびなごさんのレビューにある以下を予習していったおかげで、この長時間を、置いて行かれることなく堪能できました。浮遊きびなごさん、感謝です。
一部を、自分のレビューに引用させていただきました。事後報告ですみません。