否定と肯定のレビュー・感想・評価
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あからさまな裁判での人的資源の損失も、まだ健全な社会での出来事のように思えて…
被告のヒロインが余計なことをしなければ
必ず勝訴するであろう裁判が淡々と進む。
それだけに、
この先にどんなドンデン返しがあるのかと
思っていたら、
裁判長の思いがけない発言があったものの、
それでも何事も無くスルーして
勝訴のエンディングとなった。
真実と正義の追求についての映画
とのことだったが、
相手があからさまに単純系だったので、
テーマそのものが深まらなかった印象の作品
だった。
また、
ホロコーストの有無、
どの国にもいる都合の悪かった事への
否定論者の存在、
ヒロインの成長物語、
等々、テーマの重点を定め切れていない印象
もあった。
だから、ガス室跡を映すラストシーンも
今一つ、インパクトを持ち得なかった
ような気がする。
この裁判は実際にあったものだろうが、
そうだとしたら、法曹界の貴重な人材が、
こんな低次元の裁判に時間を取られている
のかと思うと、
人的資源の損失の象徴にも感じる。
それでも、
国会議員が大挙して靖国参拝する日本での
南京大虐殺の有無の裁判や、
大島渚を失った日本の映画界での
南京大虐殺を自戒する映画なんて
夢のまた夢だろうから、
こうした映画化が出来る欧米社会の方が、
まだ健全なような印象を受ける。
裁判は大変…
率直になぜ今更、ホロコーストがなかったという誰もが信じ難い、わかりきったことで裁判が起きるのか、また起こそうとするのかが、まず驚く実話ベースの話だった。しかもイギリスの法廷では訴えられた側がそれを証明しなけらばならないという不可解さ。法廷弁護士を演じ、原告を理詰めに責めるトム・ウィルキンソンは好演だった。自身もユダヤ系として自らの口で法廷で反論したい気持ちを抑え、弁護士の戦略により、他者に自分の信念を託すまでの葛藤を見事に演じたレイチェル・ワイズも適役だった。判決直前の判事の物言いにはおいおい!となったが、原告がかなりの差別主義者であったことで形勢がやや一方的になった点に若干映画としての盛り上がりに欠けた気もするが事実はどうだったのだろう。再び悲しみを与える可能性を排除し、被告含め迫害を受けた人々に断固として証言させなかった弁護側の戦略はまさにプロフェッショナルだし、裁判というものを考えさせるものだった。判決結果は一日前に弁護側だけに伝えるというのは初めて知ったし、映画では明らかにされてないが実際に被告には伝えなかったのだろうか。
弁護団のプロ意識とチームワークに拍手👏
事実に基づく信念のホロコースト裁判。 記者会見でのデボラの言葉が重い「生存者と死者に言いたい、この言葉を!『あなた方は記憶され、苦しみの声は届いた』と」
裁判劇がみどころ
ホロコーストを否定するのも、声高に主張するのも、
名誉毀損と訴えるのも、すんごい度胸というか
図太い神経というか、まずそんな歴史家に驚きますけども
イギリスの司法制度の訳わからなさが、裁判で勝利することの
ハードルを上げてきたけれども、そんなことは承知の上での
あの勝利は気持ちが良かった。
偏見による歴史的事実の否定は罪
ストーリーは
1994年 アメリカ ジョージア州アトランタのエモリ―大学で、ホロコースト研究者として教鞭をとる歴史学者デボラ リープスタット教授は、自著の「ホロコーストの真実」を出版記念公演をする場で、沢山の学生たちの前で、ホロコースト否定論者のデヴィッド アービング教授から侮辱される。その上、このナチスドイツ学者から、デボラ リープスタットが著書の中で、アービングをホロコースト否定論者と断定していることで、彼から名誉棄損で訴えられる。訴訟を起こされたのは、リップスタットと彼女の論文を出版した出版社だった。イギリスの訴訟では、被告側が立証責任を負うため、リップスタットは、ホロコーストが歴史的事実であることを法廷で証明しなければならなくなった。アービングにとっては、豊富な財源をもとに、自分が活躍するイギリスで、若いアメリカ人の女性教授をやりこめることで、自説を大々的に宣伝することが目的だった。
弁護士チームに会うために、リップスタットは英国に渡る。リップスタットは、アービングに沢山の学生たちの前で侮辱され、自分が書いた論文が事実に反すると言われ、訴訟まで起こされて、怒り心頭に達している。法廷の場で、アービングと直接議論をもちかけて、ホロコーストが実際にあった事実を認めさせ、ケチョンケチョンに論破して恥をかかせてやらなければ気が済まない。ホロコーストが事実であることは疑いようのない事実であり、ユダヤ人に偏見を持つアービングなど、学者の資格はない。怒りと苛立ちで一杯の被告、リップスタットに対して、彼女の弁護団は、冷たい。
ロンドンのユダヤ人団体に会いに行くが、彼らはリップスタットを擁護するどころか、裁判がアービングのホロコースト否定論の宣伝に使われていることで、リップスタットが裁判を受けて立つことを迷惑がっている。ユダヤ人団体は注目されることを望んでいない。
他に誰も友人や親しい人も英国にはいないリップスタットは、肌寒く毎日雨ばかり降るロンドンで、孤独を噛みしめる。
アービングは自分の主張を宣伝するために陪審に訴える発言を繰り返し、自分の思い通りの裁判をしようとしていたが、弁護団は裁判官による決着を要求する。リップスタットと弁護団長のランプトンは、ポーランドのアウシュビッツ強制収容所に、地元の学者の案内で訪れる。裁判で、ホロコーストが本当にあったことだということを証明しなければならない。
アービングは強制収容所のガス室を設計した技師を法廷に出廷させ、ガス室の天井に張り巡らされたチューブには、ガスを放出させる穴がないので、ガスによる大量殺人などなかったことだと主張する。この主張はマスコミにも大々的に取り上げられて、ノーホール、ノーホロコーストとセンセーショナルに報道される。
怒ったリップスタットは、かつてガス室から生還した生存者を証言台に呼ぶことを求めるが、弁護団はそれに同意せず、生存者の証言などアービングの巧な弁論によって侮辱されるだけなので、証言もリップスタットの発言も必要ないと、主張する。納得できないリップスタットは、法廷で発言を封じられたままで、不満は募る一方だ。弁護団はアービングの著作が、偏見に満ちたもので、事実の歪曲があることを、ひとつひとつ辛抱強く証明していく。そして、徐々にアービングの主張が論理的でなく不条理であることが明らかになる。論理によって追い詰められたアービングは、ユダヤ人に対する強い偏見と差別意識を法廷で露わにする。アービングの主張がいかに事実からかけ離れているか、差別主義者による思いこみに過ぎないか、いかに論理性のないユダヤ人を忌み嫌う感情論に偏っているかが、法廷で証明されていく。
2000年1月、裁判が始まって5年、1600万ドルという、とてつもない裁判費用をかけた裁判の判決はアービングの敗訴に終わった。リップスタットは、自分の名誉を守るために、常に冷静沈着に法廷闘争を戦ってくれた弁護士団に心から感謝した。
という事実に基ずいたお話。
アトランタに住むアメリカ人女性が訴えられて、自分の無実を証明するために、ロンドンの法廷に立つ。ロンドンは今日も雨で寒い。弁護士と訪れたアウシュビッツも冷たくて雨。デボラ リップスタットの心の中を映し出すような、寒々とした雨。裁判制度も気候も人々も全く異なるアメリカ人の目に映るイギリスを、雨で表現するカメラワークが実に上手い。アメリカ人とイギリス人の違いも、見ていて興味深い。
ことほどさように歴史修正主義者、ホロコースト否定論者、ネオナチ民族差別主義者、レイシストとの論戦は消耗戦だ。
この裁判の結審前に、チャールズ グレイ裁判長は、人が純粋信じていることを、嘘と断言して良いのかと、問いかける。虚偽を信ずる者は嘘つきか。それが歴史的事実のねつ造ならば、イエスと言えるだろう。明解な偏見による事実の否定ならば、イエスだ。かくしてアービングは敗訴したが、これはが正しい。転じて、日本の国民会議の面々を法廷に立たせて、彼らの歴史認識に誤りがあることを証明するためには、どれだけの労力と資金が必要だろうか。
訴えられたデボラ リップスタットを演じたレイチェル ワイズは、ル カレの書いた「ナイロビの蜂」の主人公を好演してアカデミー助演女優賞を獲った。とても心に残る良い映画だった。ル カレは、自身も英国のスパイでもあった興味深い作家だ。
法廷の争いを映画化すると劇的にも、退屈にもなるが、名画がいくつかある。代表は何といっても「12人の怒れる男」だろう。1957年アメリカ映画。原作レジナルド ローズ。主演はヘンリー フォンダだ。父親殺しで逮捕された17歳の息子の、法廷証拠も証言もすべて少年に不利。11人の陪審が少年の有罪を確信していたが、たった一人の陪審が無罪を主張し、証拠を一つ一つ再検討して他の陪審を説得していく姿は、感動的だ。娘たちは、インターナショナルスクールの授業でこれを観た。人が人を裁くことができるのか、こうした命題を考えるために、最良の教育材料だと思う。
1962年「アラバマ物語」「TO KILL MOCKINGBIRD」は、1932年人種差別の強いアメリカ南部を舞台とした映画。ピューリッツアー賞を受賞した小説の映画化で、監督ロバート マリガッツ、主演はグレゴリー ペックだ。白人女性への暴行容疑で逮捕された黒人青年の弁護をするフィンチ弁護士の活躍には目を奪われる。この映画でグレゴリー ペックはアメリカのヒーローになった。
最後に、2014年「ジャッジ裁かれる判事」原題「THE JUDGE」も良かった。監督、デヴィッド ドプキン、アイアンマンのロバートダウニージュニア主演。彼の老いた父の判事を演じたロバート デュヴアルが好演していて、アカデミー助演男優賞を獲った。ロバート ダウニージュニアは、不良中年の代表。8歳のころからマリファナを吸引していた本当の不良なのに、切れ者の弁護士を演じている。
法廷を題材にした良質な映画がいくつもあるが、この映画の邦題「否定と肯定」が、原題の「否定」を意図的に弱めるようで、意訳がちがうのではないか、という論争があるようだ。原題はなるべく触らないで、そのまま「デナイアル」とか、原作の「ホロコースト否定論者との法廷での日々」が良いかもしれない。
真実であれ
非常に、本当に非常に難解な作品であったという感想でしか吐けない内容であった。決して愚作と言う訳ではなく、寧ろ流石BBCが制作した秀作といってもよい作品なのだが、その高い思想故、本来啓蒙しなければならない自分も含めた愚民である観客に疑問さえも浮かべることも出来ない『ぽか~ん』な状態を与えてしまっていることに、残念でならない事実も又存在している。
法廷戦術も含めて、法廷劇でもある今作はその辺りの下勉強が必須であるし、これこそパンフが必要なのであろうが、果たしてキチンとその辺りの記述がされているのか、そこも不明なのでおいそれと手を出しにくい。
今作の注意点は二つ。一つはイギリスならではの、立証責任の弁論を訴えられた方が行なうという『悪魔の証明』。もう一つは、本当に思い込んでいる人の言論の自由は守られるべきなのではないのか?ということ。この二つは本当に難しく、これを法律で裁けるのか、甚だ疑問なのである。その辺りのサジェスチョンを提示しつつの、肯定派の勝利でラストを向えるのだが、勝った側、負けた側、双方とも、何とも腑に落ちない結末で終わるところも又、この問題の根の深さを物語っていて、この複雑な問題こそが今作品のテーマなのであろう。敢えて結論をださない、否、出せないのである。
まず原題が「否認」であることの意味を考えなければならない。
現在ではフェイクニュースがSNSを席巻し、自分にとって都合の良い情報であれば真贋問わずに拡散させてあたかも決定事項のようなコメントを添える。事実から目をそらす否認行為、ポスト・トゥルースということだが、この作品で扱われている「アーヴィング対ペンギンブックス・リップシュタット事件」はSNSなどが広まる以前の1996年にアーヴィングによって提起され、4年の歳月を経て2000年に結審となった。
というようなことは自分にとってのメモでしかないが、2016年にこの作品が作られ、こうして遅ればせながらも日本で公開されていることの意味を考えながら鑑賞していた。
導入から訴訟を受けての弁護団が形成されている第一幕は非常に緩やかでかつ与えられる情報は少ない。これから何が始まるのかの重みを観客は感じられないし、それは登場人物たちでさえ理解していなかった。ただしこの時点で「歴史修正主義」について考えさせられるのが現代の日本人だろう。
被告の弁護団が裁判への準備を進めるにつれて彼ら自身もまたホロコーストの真実について深く知るようになり、やがて原告であるアーヴィングとその背後にいる差別主義者たちへの嫌悪と激しい怒りを増していく様子は上手いなと思う。デボラでさえも彼らの変容に驚き、またそのプロフェッショナルに感嘆し、否認していた他人(概ねユダヤ人以外だろう)の良心を信じられるようになる。この点においては邦題がカバーしていると言うこともできるが、好意的な見方だなあ。
劇中でも語られるように、ホロコースト被害者を法廷に立たせるということは筋が通っているようでそうではないというのも考えさせられる。同じ土俵に立って単純に比較されていいはずがない二軸ということなのだ。邦題に関しての問題点も挙げられているが、本来ならこの裁判自体が茶番であるとも言える。並び立つようなものではないから。事実について肯定は必要ないのだ。
また特筆されるのは【トム・ウィルキンソン】の演技プランであり、【アンドリュー・スコット】同様、キャスティングでのミスリードからの見事なカタルシスが彼によってもたらされる。
レイシストで自称歴史学者の罪を暴くために徹底した理詰めで進められていく極めて地味な法廷劇がこれほど心地よいのかと感じ入ってしまった。とにかく【デヴィッド・ヘアー】の本が良かったし、弁護団の若き弁護士の卵がボーイフレンドに「不満しか言っていないのに何故続ける」の答えとして「不満よりも重要なことだから」と返す。これが本当に良い。
実話といえど、もっと演出があっても…
裁判の準備段階までに比べて、裁判開始以降の展開が雑な気がする。
この映画は、
ホロコーストの否定vs.肯定の戦いを描きたかったのか、
否定論者を否定することでホロコーストが事実であることを肯定して見せた弁護団の戦略を描きたかったのか。
被告側が無実を証明しなければならない英国の裁判ルール。
訴えは名誉毀損だから、主人公がホロコースト否定論者に対してぶつけた言葉が名誉を傷つけたかどうか、という争点で不利な戦いを受けて立ったという図式だと思った。
ホロコーストが事実であることを証明しても、言論の自由、主張の自由を否定できるものではない。
しかし、裁判はお互いのホロコースト論の不備を突き合う展開となり、
しかも意外と敵はあっけない。
そこで最後の裁判長の言葉が急転直下を告げるものか?
と、思ったが、そうでもなかった。
要するに呆気ない決着。
問題は、布石をちりばめ過ぎてかたずけられていないこと。
思わせ振りだったのに、それっきりのシーンが多過ぎた。
しかも、主人公はさした戦いはしておらず、むしろ弁護団と内輪もめをしただけだったような印象だ。
だけど、なんとなく感動的に終わったのは、演者たちの力量・存在感なのかな、と思う。
あり得ない裁判も良い子も安心なストーリー展開
原題は「denial」
今回のレイチェルワイズは、武闘派女性タイプで売られた喧嘩はとことん買って相手を徹底的に叩きのめすタイプも、思わぬところから売られた異種格闘技戦にどう対抗していくかというお話。
題名は原告側のジョン・アービングのことを指すのだと思っていたが、むしろ主人公のことを指しているのかと感じた。
実話に基づくとのことだが、確かジョン・アービングの本を持っていたはずで、それをどうしようかなんて事が頭の片隅にありつつ、予定調和、勧善懲悪ものだったので新年初映画としては良かったかな。(よく調べたら違う作家と勘違いだったので一安心(^^;;)
法廷弁護士の役者は実力十分で年輪を重ねた俳優の好演を存分に楽しめた。
「人生はシネマティック」に続きイギリス映画の良さに感服。
法廷での丁々発止のやりとりがもうちょっとあるのかと思っていたら、...
法廷での丁々発止のやりとりがもうちょっとあるのかと思っていたら、意外とそうでもなく、淡々と追い詰めていく内容となっていた。事実に基づく映画だからこそだろう。
むしろ映画のポイントは、訴訟に勝利するために最も効果のあるやり方を取る弁護団と、被害者の苦しみを解消するために事実を認めてほしい主人公と間の葛藤にあったのだと思う。
ちょっと気になったのが、ガス室を視察した時に足下に引っかかった鉄条網の針が結局あとで使われなかったこと。ひょっとしてあれは鉄条網ではなくて、ガス室のドアに設置されていた金網の破片なのだろうか。
女優が終始怒り口調で不快!!
ホロコースト否定派がナチス賛美なので、どちらも極端すぎますし初めから茶番だと気づく必要があります。二項対立は両建構造の基本戦術なので、本作は単なるプロパンダ映画です。初めに名誉棄損で訴えると言った教授が、裁判で人格攻撃を含めて責められ続けるまるで中世のような内容で、決して法廷ものではないと思います。主人公ば自分に都合の悪い調査や意見は強い口調でねじ伏せるだけで知的な女性とは真逆の甘えた思考の持ち主です。裁判中は何もしないのにいちいちカットが入るし、ラストの勝ち誇った感も非常に鬱陶しいです。終始怒り口調でレイチェル・ワイズってこんな不快な女優だとは思いませんでした。
桶は桶屋な法廷劇。
否定と肯定を観てきました。
デボラがイライラする気持ちもよくわかるけど、英国弁護士チームが正義の勝利を目指して淡々と法廷戦術を進めてゆくプロセスに震えました。
桶は桶屋って思いました。お仕事映画としても楽しめます。
弁論担当弁護士と策略担当弁護士がいるんだとか、イギリスの司法制度にも興味が惹かれました。
法廷で示されるガス室での殺戮が起きたであろう証拠、ヒトラーが指示していた証拠など、なるほどと思いました。鉄格子の意味、防空壕ならば4キロも離れてるって?それに空襲の時期とずれてるやんetc…下調べの大変さを想像して気が遠くなりました。
2時間弱にまとめられているけれど、6年7年に渡る戦いでしょ?大変やったよね…
ティモシースポールはどんな気持ちでこの共感を完全拒否する役をやったんでしょうね。そして現実のこの原告はどんな理由、感情で、これらの言動をしたんだろうと思いました。
ホロコーストにまつわる知識は多少必要です。
わたしももっと勉強しないとって思いました。ホロコーストだけでなく、世界各地で起きたジェノサイドについて。人は愚かで、その愚かさを見つめ、考えることが前進だと思うから。
米国のユダヤ系歴史学者デボラ・リップシュタットは自著の中でホロコー...
米国のユダヤ系歴史学者デボラ・リップシュタットは自著の中でホロコースト否定を公言するイギリスの歴史家デイヴィッド・アーヴィングの主張を真正面から否定した為に名誉毀損で訴えられる。被告側に立証責任があるイギリスの法廷で戦わなければならないデボラは支援者達の資金援助のもと弁護団を組織するが、弁護団はデボラに決して証言台に立たないこと、ホロコーストの生存者もまた証言台に立たせないことを提案する。自身がユダヤ人でありホロコーストと真正面から向き合い研究に人生を捧げてきた自らが矢面に立ち正々堂々と戦うべきと考えるデボラは彼らと激しく言い争うが・・・からの法廷ドラマ。
イギリスの司法制度の特異性を解りやすく紐解きながら、歴史修正主義者がホロコーストの実在を示す資料を自身の主張に合致するように恣意的に曲解していることを立証するために奔走するデボラの弁護団と、あることないこと法廷でぶち撒けて言葉巧みに挑発してくるアーヴィングの心理戦に思わず手に汗握ってしまうサスペンスフルなドラマが圧巻です。
「ポスト真実」の時代のコンテンポラリーなテーマ
ホロコーストに関する研究者と否定論者との名誉毀損の法廷論争を映画化した『否定と肯定』。主演は、ウォン・カーウァイ『マイ・ブルーベリー・ナイツ』でアルコール中毒の警察官の元妻役を演じ、実生活ではダニエル・クレイグの奥さんでもあるレイチェル・ワイズ。
昨晩の『女神の見えざる手』に引き続きディベートをベースにした脚本なので、ずっと右脳を働かせながら見る感じが心地よい。
「ホロコーストはなかった」ということを訴えたいがために、反対論者を名誉毀損と言うかたちで法定に呼び出す老歴史家と、それに対してときに感情的にも反応していまいそうになる被告人のユダヤ人女性研究者と、彼女をサポートする熟練の弁護団。
レイチェル・ワイズ演じる研究者には「ホロコーストは存在した」ことをあらためて証明したいという焦りがあるが、そうではなく訴えられた点について緻密に論証をしていく戦略を貫く法律家たち。しかし法律家たちも、その論証を通じて結果的にホロコースト反対論に対する疑わしさをアピールしていくことになるのがとてもクール。
「最善の策だが、最大の効果をもたらさない策はとても厄介だ」
ポスト真実の世界に至った現代にとてもマッチしたテーマ。
演技には見ごたえがあるが、内容はやや消化不良
ホロコーストなど無かったと唱える否定論者によって訴えを起こされたユダヤ教徒のホロコースト研究家女性の実録映画。こういう作品はハリウッドが得意そうだがこちらはイギリス映画。なるほど裁判の過程も法律もイギリスの規律に基づいていてアメリカ映画の法廷劇と趣が違う部分もあり新鮮で興味深いところもある。
ただ、もうあまりにも周知の事実にたいして唾を吐きかけた男が浅ましすぎてレイチェル・ワイズ演じる主人公が裁判で負ける気がしないのは法廷劇としては不足なところだろう。最初こそ、アメリカとイギリスの裁判の違いから戸惑ったりティモシー・スポールの口車(小憎たらしい演技が実に巧い!)に惑わされたりと言った様子も見受けられるが、トム・ウィルキンソンが存在感を増すと同時にワイズに有利に傾いていくのが明らかにわかり、法廷劇としての面白味についてはいくらかもの足らなく感じた。
裁判の行方は、史実が前提として存在する以上は変えることは当然できない。だからこそ今この映画が何を描くのか?というところが本来もっとも重要なところで、それがこの映画には足りないんだと思う。ホロコーストなど無かったと唱える男を通じて、しかしそこから史実を再認識したり再考したりすることはできる。人には人の数だけ信念や理想がありそれが衝突するドラマを見いだすこともできる。ところがこの映画は「ムカつく否定論者をこうしてとっちめました」というだけのものしか存在せず、テーマの深刻さに対して内容はいたって普通の法廷劇に留まったのは、ワイズ、スポール、ウィルキンソンというイギリスの名優たちの演技合戦を前に実にもったいなかったと思った。
裁判所が、常に真実に味方するとは限らない。正しい者は、自らの潔白や真実を証明する努力を強いられるもの。
どっちにしろホロコーストはあったのだから、最後にはレイチェル・ワイズ側が勝つのだろうことはわかり切っているのだが、そのことよりも、アービングみたいな人間が存在する価値はなんなのか、と考えていた。こいつは本気でなかったと思っているのか?、どこかの団体から援助をもらうために嘘を承知ではったりをかましているのか?、、、。だんだん、この対決よりも、例えば、慰安婦像をめぐる論争、南京大虐殺の真相、竹島や尖閣や北方四島の帰属問題、シーシェパードと日本の捕鯨船の衝突、、。ああ、結局、なにがなんでも自説を曲げない奴に何言っても無駄なんだなって思えた。
ただ、裁判長がアービング勝訴の結論に行きそうな場面には焦った。あんただってホロコーストがあったことはわかってるよね?、理論さえ筋道立っていれば、「否定」は受け入れるの?
ここで、「三度目の殺人」を思い出した。やばい、真実が抹殺される。ああ、裁判って怖いわ。
事実を争っているわけではないあたりが難しい
アメリカの女性大学教授デボラ・E・リップシュタット(レイチェル・ワイズ)。
ホロコーストについての講演会場で初老男性から質問を受ける。
男はデイヴィッド・アーヴィング(ティモシー・スポール)、ホロコースト(ナチスによるユダヤ人大量虐殺)はなかったと論じる歴史学者だ。
講演会での出来事はどうにか収まったものの、ある日、デボラはアーヴィングから名誉棄損で訴えられる。
アーヴィングの説を否定し、侮辱し、結果、出版社との関係も悪くなったと、と・・・
というところから始まる物語で、映画後半はデボラ対アーヴィングの法廷の場となっていく。
映画にするには非常に難しい題材で、その理由はふたつある。
ひとつは、ホロコーストがあったのか、なかったという点に絞るか、もうひとつは、名誉棄損にあたるかどうか。
何が難しいのか、ホロコーストはあったし、それがなかったという者については「アホか」と侮辱しても当然だろうとも思うが、名誉棄損は、たとえ侮辱した事柄が事実であっても、相手の社会的立場を気づ付けた場合は罪に当たる。
「事実であっても」である。
つまり、アーヴィングが説く「ホロコーストはなかった」説が誤りであっても、歴史学者として検証した結果、真に信じているならば「アホか」といってしまうと侮辱になり、罪になったしまう。
なので、取る戦法は、アーヴィングの説は、多分に恣意的であり、自己利益を図っての意図的な歪曲である、よって、その意図的な部分を「アホか」というのは道理的・道義的には侮辱に当たらない、とするのである。
映画は、かなりこの部分にこだわっているし、こだわらないと面白くならない。
なので、デボラ側の法廷弁護人(トム・ウィルキンソン)もその部分を論理的に突き、アーヴィングの説の矛盾点を突き、時期によって恣意的に変化していることを明らかにしていく。
けれども、論理一辺倒でも面白くならない。
というか、論理的にことに訴えるだけで、ホロコーストの事実が明らかになるのか、そう思ったデボラは、弁護団の方針を反故にして、自身が法廷に立ち、ホロコーストの生存者も証人として、事実を人々の感情に訴えかけようとする。
ここいらあたりの描写は興味深い。
事実の積み重ね、突合では無味乾燥になるし、感情に訴えかけるのが短期間でかなりの効果が見込める。
が、デボラの弁護団がそのような方針を採らないのが、さらに興味深い。
いわゆる「箸にも棒にも掛からぬ」似非歴史学者(アーヴィング)と同じ土俵に、真っ当なデボラを上げない。
さらには、ホロコーストの生存者を、アーヴィング(と彼と同じ考えの人々)の前に立たせて、過去の忌まわしい記憶を掘り起こさせたりさせず、さらに生存者たちの名誉を守ろうというのである。
論理に裏打ちされたヒューマニズムとでも言おうか。
そして、最後には(当然のことながら)デボラ側が勝つのであるが、その前に判事の信念が揺らいでいることがわかるエピソードがはいる。
つまり、アーヴィングは、心底から自説を信じているのではなかろうか。
であれば、信じていることが誤りだからといって侮辱するのは名誉棄損にあたる、と。
これは恐ろしい。
たぶん、この部分が映画の肝であるはず。
映画は、この後、裁判の結果についてテレビで滔々としゃべるアーヴィングが映し出され、「まるで彼が勝者のようね」と呟くデボラがいる。
ここで終われば、かなり恐ろしい映画になったはずなのだが、それをしていないので、少し焦点がぼんやりしてしまったかもしれない。
現実
1994年、イギリスの歴史家デビッド・アービングが主張する「ホロコースト否定論」を看過することができないユダヤ人女性の歴史学者デボラ・E・リップシュタットは、自著の中でアービングの説を真っ向から否定。アービングは名誉毀損で彼女を提訴するという行動に出る。訴えられた側に立証責任があるイギリスの司法制度において、リップシュタットは「ホロコースト否定論」を崩す必要があった。そんな彼女のために組織されたイギリス人大弁護団によるアウシュビッツの現地調査など、歴史の真実の追求が始まり、2000年1月、多くのマスコミの注目が集まる中、王立裁判所で歴史的裁判が開廷した。
法廷闘争ではデボラは沈黙を貫き勝利する。
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