「事実を争っているわけではないあたりが難しい」否定と肯定 りゃんひささんの映画レビュー(感想・評価)
事実を争っているわけではないあたりが難しい
アメリカの女性大学教授デボラ・E・リップシュタット(レイチェル・ワイズ)。
ホロコーストについての講演会場で初老男性から質問を受ける。
男はデイヴィッド・アーヴィング(ティモシー・スポール)、ホロコースト(ナチスによるユダヤ人大量虐殺)はなかったと論じる歴史学者だ。
講演会での出来事はどうにか収まったものの、ある日、デボラはアーヴィングから名誉棄損で訴えられる。
アーヴィングの説を否定し、侮辱し、結果、出版社との関係も悪くなったと、と・・・
というところから始まる物語で、映画後半はデボラ対アーヴィングの法廷の場となっていく。
映画にするには非常に難しい題材で、その理由はふたつある。
ひとつは、ホロコーストがあったのか、なかったという点に絞るか、もうひとつは、名誉棄損にあたるかどうか。
何が難しいのか、ホロコーストはあったし、それがなかったという者については「アホか」と侮辱しても当然だろうとも思うが、名誉棄損は、たとえ侮辱した事柄が事実であっても、相手の社会的立場を気づ付けた場合は罪に当たる。
「事実であっても」である。
つまり、アーヴィングが説く「ホロコーストはなかった」説が誤りであっても、歴史学者として検証した結果、真に信じているならば「アホか」といってしまうと侮辱になり、罪になったしまう。
なので、取る戦法は、アーヴィングの説は、多分に恣意的であり、自己利益を図っての意図的な歪曲である、よって、その意図的な部分を「アホか」というのは道理的・道義的には侮辱に当たらない、とするのである。
映画は、かなりこの部分にこだわっているし、こだわらないと面白くならない。
なので、デボラ側の法廷弁護人(トム・ウィルキンソン)もその部分を論理的に突き、アーヴィングの説の矛盾点を突き、時期によって恣意的に変化していることを明らかにしていく。
けれども、論理一辺倒でも面白くならない。
というか、論理的にことに訴えるだけで、ホロコーストの事実が明らかになるのか、そう思ったデボラは、弁護団の方針を反故にして、自身が法廷に立ち、ホロコーストの生存者も証人として、事実を人々の感情に訴えかけようとする。
ここいらあたりの描写は興味深い。
事実の積み重ね、突合では無味乾燥になるし、感情に訴えかけるのが短期間でかなりの効果が見込める。
が、デボラの弁護団がそのような方針を採らないのが、さらに興味深い。
いわゆる「箸にも棒にも掛からぬ」似非歴史学者(アーヴィング)と同じ土俵に、真っ当なデボラを上げない。
さらには、ホロコーストの生存者を、アーヴィング(と彼と同じ考えの人々)の前に立たせて、過去の忌まわしい記憶を掘り起こさせたりさせず、さらに生存者たちの名誉を守ろうというのである。
論理に裏打ちされたヒューマニズムとでも言おうか。
そして、最後には(当然のことながら)デボラ側が勝つのであるが、その前に判事の信念が揺らいでいることがわかるエピソードがはいる。
つまり、アーヴィングは、心底から自説を信じているのではなかろうか。
であれば、信じていることが誤りだからといって侮辱するのは名誉棄損にあたる、と。
これは恐ろしい。
たぶん、この部分が映画の肝であるはず。
映画は、この後、裁判の結果についてテレビで滔々としゃべるアーヴィングが映し出され、「まるで彼が勝者のようね」と呟くデボラがいる。
ここで終われば、かなり恐ろしい映画になったはずなのだが、それをしていないので、少し焦点がぼんやりしてしまったかもしれない。