三度目の殺人のレビュー・感想・評価
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結果、何も進まない
2時間では足りないのか、わからないことが多い。
ルドヴィコ・エイナウディの音楽に絵が負けている。
音の深みがあるだけに、映像の薄さが露見してしまった。
旦那を殺されたばかりの奥さんが、なぜあんなに着飾れるのか?
それだけ非情な奥さんなら納得がいくが、それもなし。
なぜ父親が殺されて当然な人間だというのをやめたのか?それもわからない。
器としての空っぽさを表すために、作品までも空っぽになる必要はあるのか?
カナリアを一匹逃した理由は?
裁かれるべき人間は誰か?十字架ではなく選択する道によってかわるといいたかったのか?最後の十字路や電線は意味を持たせる意味はあったのか?
正直、つまらなかった。
モヤモヤ感半端ない
観終わったあとに内容を色々と考えちゃう映画。
自分の中で作品の辻褄合わせをしようとする。
そういうのが好きな人にはたまらない映画だと思う。
個人的には問題提起だけで何も問題が回収されないってのはちょっと…。
モヤモヤ感だけが残る。
意味不明な雪遊びのシーンや河原のシーン。
イメージシーンと呼ぶには余りにも曖昧さばかりが目立つ。
意味がないシーンを見せられてもこっちは混乱するだけ。
何がしたいのかわからない。
タイトルもそう。
劇中以前の殺人、そして劇中の殺人。
それだけで物語は終わる。
え?三度目は何処?
三隅が死刑になるから三度目?
けど、三隅が殺さない限り三度目とは言えないよね?
よしんば三隅の死刑を三度目と言いはるなら、ある意味それは自死だから殺人と呼んじゃダメじゃん?
結局私の気分も映画の内容もモヤモヤだけ……。
唯一の救いは役所広司さんの演技。
柄本明さんばりの腹から声を出さず抑揚をつけない台詞回しに脱帽。
台詞、目線の向け方だけで「普通じゃない人」と観客に印象づける演技は素晴らしく鳥肌もの。
役所広司さんじゃなかったら評価は★1だが、役所広司という稀有な役者さんに敬意を評し★3です。
客席で寝てる人も居たが、つまらないとは言わないが観客を選ぶ映画だと思う。
嘘に嘘
ずーっと混乱させられて戸惑っている。それは、観客である私も例外ではなかった。表情と言葉に惑わされている内に、何を信じればいいのか。手からの温度から伝わるものこそが真実なのかもしれない。目に耳に騙されてはいけない。福山雅治と役所広司の会話から、福山一人の独白・自問自答に移り変わっていくようなシーンもある。
真実は自分の中にしかないのかもしれない。
ひとの裁きには限界が…。
福山さんと役所さんの凄みのある演技に圧倒される。
ストーリーは他の方のレビューにあるように謎の多いもの。ただ単純に考えると三隅とサキエの共犯。三隅は、サキエをかばい単独犯として罪を受けようとしている。
スローテンポで進行するが、時間を感じさせない。124分もあっただろうか。
ひとの裁きには限界がある。
そのことを再認識させられる。
人を裁くとはどういうことなのか
これは法廷ミステリー/サスペンスの体裁はとっているが、その実は寓話なんだろう。
高利貸しの殺人も咲江の父親の殺人も犯人は三隅で疑う余地はない。重要なのはなぜ殺したのか。
そこでキーワードとなるのが「器」「裁き」「生まれてこないほうがよい人間がいる」ということ。
三隅は器であり、三隅自身に意思はない。三隅は人の心を読み取る力があり、読み取ったその人の意思に従い行動する。
一度目の殺人はおそらくは高利貸しの被害者の誰かの意思に従ったもの。二度目は咲江の意思に従ったもの。つまり父親を「生まれてこなかったほうがよかった」と裁いたのは咲江であり、三隅はその裁きを実行しただけである。
では三度目は? もちろん三度目は三隅の死刑を指す。三隅が死刑になったのは犯行の認否を翻したからである。それはなぜか。もちろん三隅が咲江を守ろうとしたからではない。なぜなら三隅は器に過ぎないから。それでは誰の意思か。それは重盛に他ならない。重盛と三隅の最後の面会の場面で両者が重なり合う描写がされていることがそれを示している。
ここで重盛と娘のエピソードが重要になってくる。
重盛は娘に困ったときは必ず助けると約束した。咲江と娘を重ねたのは三隅ではなく重盛だった。重盛は、三隅が犯行を否定し死刑になることで咲江が証言をしないでよいようにすることを望んだ。重盛が三隅に語ったことはすべて重盛自身の考えだった。三隅はその意思に従っただけだ。三番目の殺人は重盛の意思によって行われたのだ。
ラストシーンで重森は交差点の真ん中にいる。十字は「裁き」の象徴である。これは重盛が「裁き」を行ったことを示すものだろう。
このように三隅は全くリアリティのある存在ではない。法廷ミステリーではなく寓話だといったのはそういう意味だ。
本当のテーマは人が人を裁くのはどういうことなのかということではないだろうか。
法廷サスペンスとは異なり、本作では裁判を徹底的に事務的に描く。検事も裁判官も人の生き死にを扱うにあたっても極めて事務的に対応する。法廷では「だれも本当のことを言わない。」という咲江自身も本当のこと(父親を憎んでいたこと、暴行されていたこと、三隅と親しかったこと)を言わない。
法廷は茶番である。じゃあ三隅は?
被害者の裁きに従いただ実行しただけだ。どこが違うのか?むしろこちらのほうが内心に忠実であり真実に近いのではないか。
解釈はいろいろあるだろうが本作が素晴らしい作品であることは間違いない。特に役所と広瀬の演技は素晴らしかった。(平日とはいえ観客が少なかったのは残念だった)
あえて言えばもう少しわかりやすく作ってもよかったのではないだろうか。ミステリアスにしなくても十分な題材だと思う。
是枝さん!なにか寂しいっす!
筆者の個人的な話で申し訳ないが、かつて10年以上前筆者は映画の専門学校に通っていた。
はじめフィクション科を受けたが落とされた。
学校側からドキュメンタリー科なら無試験で入学を許すという。
当時ドキュメンタリーには全く興味がなかったが、何事も勉強だと思って入った。
初等科を終えて2年目、ドキュメンタリー制作に興味を覚えたので、高等科に進んだ。
その時の講師が是枝裕和監督だった。
ちょうど『誰も知らない』が上映された頃だったと思う。
もう1人の講師がオウム真理経のドキュメンタリー映画『A』『A2』を制作していた森達也監督だった。
是枝さんは元々はテレビマンユニオンという映像制作会社に所属してドキュメンタリー番組を制作している人だった。(今も所属していると思う。)
是枝さんからコマーシャル制作やフィクション映画制作の裏話を聞いたりもした。
相談も無く勝手に主演を決めてしまう敏腕?プロデューサーもいたりするらしい。
講義中に是枝さんの過去に制作したドキュメンタリー作品を観ても結構寝てしまっていたので、感性があまり合わなかった記憶があるが、シーンの合間に挟むインサートショットに美しい映像があったことなどを覚えている。
「作品さえ面白ければ映像は雑でも構わない」的なことを豪語する森さんとは正反対だった。
(たしかに酷かったので面と向かって森さんに「撮影が下手クソ」と言ったら「自分でもわかっているけど面と向かって言われると傷つくなぁ」と笑っていた。)
是枝さんが仕事の合間に個人で撮り溜めた映像を編集した作品を観た時は、作品制作への真摯な姿勢もうかがうことができた。
ドキュメンタリー的な演出方法を用いた『誰も知らない』は本当に最高の作品だった。
ただその成功が返ってプレッシャーになったのか次作の岡田准一主演の『花よりもなほ』では何か作品から迷いを感じた。
その後配役や内容に興味が持てないなどの理由から是枝さんの作品から遠ざかっていたが『そして父になる』以降は欠かさずに作品を観ている。
その上での個人的な意見となるが、確かに『誰も知らない』よりも近年の作品は格段に映像も演出も洗練されているが、同時に何か物足りなさを感じる。
本作も無駄がない。しかしむしろ寝てしまっても印象に残るような美しいショットは全くなかった。
テレンス・マリックは脚本も用意しない一般受けしない映画を制作し続けているが、映像は驚異的に美しいし、そこには確かな監督自身の息吹を感じる。
もう一人の講師だった森さんも昔より格段に撮影技術は向上しているが、『フェイク』を観て「誰だっていつか死ぬからその前にとがったものをぶつけて死ぬ」ような心意気が相変わらずあるのが知られた。
河瀬直美の監督作品もだいたい河瀬の個性そのものを浴びせられて苦手なのだが、それでもそのパワーを認めざるを得ない。
本作は「日本映画史に残るサスペンス大作の誕生」などと宣伝しているが頓珍漢もはなはだしい。
この作品自体は犯人探しの謎解き映画ではなく、むしろ黒澤明監督作品の『羅生門』的な効果のもと人それぞれの闇や不合理さ、世の中の不条理を表現したものだろう。
2度殺人を犯し役所広司が、自分を死刑にするか、広瀬すずを社会的に殺すかの二重の意味合いで三度目の殺人をかけているが真相は「薮の中」といったところだろうか。
立っているだけで絵にはなるが、芝居自体はそれほどうまくない福山雅治の周りを役所広司はじめ芸達者で固める手腕もさすがだし、普段の広瀬より良い演技も引き出している。
本作のちょうど中ほどに、これから壊れそうな家族を抱える福山、自分のせいで家族を壊した役所、他人によって家族を壊された広瀬の3人が雪の上に大の字に仰向けとなる架空のシーンが描かれる。
また映画最後の接見室のシーンで覚悟を決めて晴れやかな役所広司の背後は後光のようにまぶしい。
照らされた福山の顔には強い光と濃い影が共存している。
そしてガラスを利用して役所の顔に福山の顔を重ねて会話が交わされるが、最後に役所との違いを再認識した福山が後ろに姿勢を戻すことで2人の顔は重ならなくなる。
これらは素晴らしい演出とも見えるが、あざといとも取れる。
人によって評価は違うだろう。
筆者は若手の女優や俳優においてもブレークする一歩手前で放つ輝きに格段の魅力を感じる。
それと同じことなのだろうか?もっとも近年ブレークする若手の俳優たちにその手の輝きは一切感じない。
本作は間違いなく平均点以上の傑作である。が、『誰も知らない』の時のような輝きは感じない。
それを妥協と呼ぶか、大人になった、あるいは洗練されたと呼ぶかは人それぞれだろうが、人生の一時期に教えを受けた者として何か寂しさを感じるのも確かだ。
是枝さんの作品は常に家族というパーソナルな領域を扱っている。原案も監督も脚本も編集も全部一人でこなす。
だからこそより是枝さんらしさを全面に出しても良いのではないか、やはりそう思えてしまう。
真実はひとつじゃない
正義ってどこの視点からなのか?
誰の正義が正解なのか?
役所広司の演じる人は何をしたかったのか?自分を律したかったのか?誰かを守りたかったのか?福山雅治の判断に委ねただけで、自分の言葉がなかった。
見る人がどう思いたいかだけで結果が変わってくるとっても辛い映画だった。
しかも、事実が明かされないまま。。。
考えさせられる
今作における三隅と重盛の関係は、そのまま作品そのものと観客の関係にあてはめることができるのではないでしょうか。
三隅の供述の同様、二転三転する物語の中で明確な答えは存在せず、あるのはヒントであることを匂わせるシーンの断片のみ。
冒頭のシークエンスで描かれる三隅の犯行でさえ、虚実入り混じる映像の中で確信性が失われていく。
劇中で三隅が放つ言葉のように「真実が何なのか」それ自体が重要ではなく、「信じるかどうか」が重要である。
観客は重盛同様、自分の中の倫理観や経験、「こうあってほしい」という願いの下に、ヒントをつなぎ合わせて自分の中で真実を創り出していく。
真実の持つ虚構性と、その集合である社会の歪な正しさ?みたいなものを文字通り「考えさせられる」作品でした。
(法廷ってのは個人の真実を擦り合わせて、丁度イイ社会の真実に加工する場所なんだな~とか思ってしまった。)
だからこそ、ラストシーンで重盛が導き出した「事件の真実」に少し安心してしまいました。
僕はあれが真実だとは思いませんが、そうあっては欲しい思うし、やっぱりその方が幸せだと思う。
そして、その答えに対する三隅の返答もまた、監督自身が「そうであればいいな」という観客=社会に対する思いそのものなんじゃないかなと。
久しぶりに何度も観直したい。そして色んな人と話をしたい映画でした。
色々考えて最後にスッキリできて面白い!
レビューというか考察を。
三隅はめちゃくちゃ空気を読む人なのでしょう。三隅は他人の感情や考えが流れ込んでくる「器」のような存在だと考えると、この人のつじつまの合わない言動が理解できると考えます。最初の殺人は近隣住人の感情から、二度目の殺人は咲江の感情から、殺人を認めたのは検事、減刑を求めたのは摂津、新たに出てきた事実に対して供述を変えたのは摂津や重盛がそうであろうと考えたから、最後、殺人を否認したのは重盛がそうして欲しいと望んだから、だと考えます。カナリヤを逃がしたり殺したりしたのもカナリヤ自身の感情が流れ込んだから...と考えるのはちょっと強引かもしれませんが。
重盛の手をガラス越し (ガラスではないけれど) に自分の手と重ねたところなどが他人の感情が流れ込んでくる描写に当たると考えます。
また、色々な他人の感情がある中で、三隅はより強い感情に「あてられる」と考えると、はじめはあの女検事の感情、最後は重盛の感情により強く影響を受けたと考えることもできます。
以上のことから、三隅の殺人はほぼ「自分の意志ではない」と考えられます。だから自分の意志で他人の生き死にを判断できる裁判官に憧れたのでしょう。
と、ここまで自分の考えをつらつらと書き並べましたが、様々な謎を提示してと最後にそれらをしっかり解決させてくれる (と考えられる) ところがとても面白い作品だと感じました。
まだ見落としていることがあるように思うのでぜひもう一度見たいです!
雪原の中
役所さんの蜩の記を最近観て、この人の脱力した演技は観る価値あるな~!凄いな~!と思って関心をもっていたところ、この映画にたどり着きました。
まず咲江さんを救う為に、殺人を犯したんだろうと思いました。
そして咲江さんを守る為に殺人を否認して裁判で供述させないようにしたのでしょう。
三隅さんが牢屋の外で鳥が鳴いているのに気づいて、窓から鳥に餌をやろうとしたシ―ンがあります。
その時の三隅さんの様子に、あ~この人は愛に飢えているんだ!愛を、誰か何かに与えたい!愛したいんだ!と強く感じました。
それは、心の琴線に響く、魂の叫びのようでした。
人を殺すことで解決するしかない…自分を殺すことでしか解決するしかない。
そんな生き方を選びたかったわけではないが、そうしか出来なかった人。
咲江さんの為には咲江さんは事実を裁判で供述することが、これからの彼女の人生の為に必要なことだったと思いました。
この映画はそのことも意識させる意図があって作られたんだろうか?
様々な理由の元に事実に蓋をする人々、そして私自身も様々な理由の元に事実に蓋をしてきた経験がある。
咲江さんに供述させて彼女を傷つけたくない、彼女を守りたい、そのためにしたことが三隅さんが選んだ愛なんだろう。
それが悲しい。
劇中で重盛の夢の中での雪原の美しさ、静けさ、そこに現れる人達の無邪気さ、安らぎとともに、劇中では出なかった雪原の中誰かを殺す画が観終わった後心に問いかけてくる。
3度目は、まだ。
暗いけど、良かったです。
題名が、これじゃなかったら、本当のところは
わからないけど、これなら。
個人的解釈として。
二度の殺人はあったという事だから、三隅はヤッてるんだよ。
サキエは、親父に河原でいつも?れてたんだよ。サキエが先か、三隅が先かはわからないが、
2人で、オヤジを殺した。多分、オヤジがサキエ
を河原に呼び出した時を狙って。
2人で殴った証拠を消すために、焼いた。
それを隠すために、自供した。
知ってて、知らないふりしてた、母親にも痛い目を合わせようとして、殺人依頼されたと言った。
だか、サキエが自分を、かばうために供述すると知り、作戦を、変えた。
自分が否認すれば、サキエが供述する意味がなくなる。
重盛も、結局それに乗った。本当に信じたのかどうかは、わからないが。
判決は、死刑。だけども、
結果として、保険金は払われる。
サキエは、供述しないで済む。罪も負わない。
大学にも多分行ける。結果オーライ。
最後、重盛が、頬の血を拭う仕草で、共犯になったのを表現。
サキエと、三隅の愛?に感化され、重盛も娘に素直になれて、謝れた。
3度目は、三隅の死刑宣告。自殺ともとれるし、結果として重盛もそれに加担した。本当に、三隅を信じたのか、とにかく、信じることに決めた。
蛇足
裁判室出る時、三隅はサキエを一度も見ない所に、
その覚悟をみた。
ラストシーンは、十字架で、「止まれ」に挟まれ、動けない?
三人目
映画を見終わり、三度目の殺人。というタイトルを考えた。
作中で死ぬのは三人。となると、三人目は死刑になった三隅である。三隅は本当に殺したのか定かでないまま終わってしまったが、二度本当に殺したというのであれば、三隅が三隅を死刑にしたということで三度目の殺人になる。
それか三隅は、重森の心を殺したのか。咲江の未来を殺したのか。重森が、咲江が、三隅を死刑にしたのか。
もしかしたら死ぬべきだと思った人間皆被害者を殺していて、三隅はそれを実行する器に過ぎないのではないだろうか。三度目といっても、三隅だけが苦しめられていた訳ではないのは、あなたも殺したいと思ったことあるでしょ?その人が死んだら、少し嬉しかったりしたら、あなたも殺人と同じじゃない?という事なのかもしれないと背筋がひんやりした。
にしても実行した人間が圧倒的に悪い。
結局分からないが、あの訳のわからない容疑者を演じた役所広司はほんとうに凄かった。私なら怖くて手を合わせるなんて出来ない。すごく不気味だった。
法廷という場所は不気味である。事実を知る場所ではなく、白黒つけるため、ストーリを作る裁判になってしまっているというのは私には気付かなかった事だと思う。
この映画で咲江に感情移入してしまうあたりまだ子どもだなぁと自覚した。私はあそこで三隅と目を合わせたかった。いつも、子どもの知らないうちに大人が覚悟を決めている。
重い、暗い、脳が疲れた。でも、
面白かった。
タイトルの「3度目」は、三隅自身の贖罪と捉えた。自己犠牲を払うことで咲江を守ったと咀嚼したが、本当に守れたのか否かは疑問符が付くところ。(この疑問符を付けられる処がこの作品が秀逸と感じる理由でもある)
ところで、法曹界はこの映画をどうみるのか?。真実の追求に対して裁判の成果主義の現実は「こんなもの」と同意するのだとしたら・・・。(恐ろしい‼︎。が、この作品を鑑賞したら、そんな気がしてならない。)
主役の二人は流石の出来。(特に役所広司は今年No.1の神演技‼︎)ラストのガラス越しのツーショットにはしびれた‼︎。カメラワーク&演出にも👏。
もう一つ驚いたのは、広瀬すず。こんな演技ができるとは‼️❣️。「すずちゃん」とか軽々しくもう言えない。。。久々に凄い目の演者に出会えた。
私的主観
何にも解決をみない作品でした。後味が悪い・・・というかすっきりしない終わり方。
俺なりに考えてみたけど・・・一つだけなんとなくわかった、おそらくすべてにつながるかも知れないこと・・・「三度目の殺人」のこと。
二人は映画でわかってる・・・数が合わない。
でも・・・観ていて感じた。
・・・「自分」を最後に「殺した」んだって・・・。
あくまでも「私的」な感想です。
浮き彫りになる心のことわり
愛と悲しみは、同一のものである。
悲しみの裏には必ず愛が隠されている。
人は悲しみを感じることが辛く耐え難いが故に、愛情を感じることも諦めてしまうものである。
人間の生き死には、何か人知を超えた無秩序なものによって
決められているのではないか。
それは司法制度であっても同様で、死刑でさえ
人が裁いた命のようで本当はそうではないのかもしれない
という根源的な疑念を持っていた弁護士は、
同じ理解を持つ罪人の中に、それでも愛や悲しみといった
人間の感情の理(ことわり)を見出そうとしてしまう。
結局、人が善悪を裁く時は、愛情の有無によっているものだから
罪人もまた、愛によって裁きを行っただけではないかと。
けれど、二人の影が重なりかけたところで
罪人は愛による理や裁きではなく、
それよりもっと大きな、善悪を超えた
神の気まぐれやゆらぎとでもいうようなものが現世に表出される時の
ただの器に過ぎないもの
感情の理の無い空っぽのものであるかのように振る舞い
影は重ならずに離れてゆく。
これでこの罪人の死もまた、真実によって裁かれたものではなくなった。
「悪いことをした罰だから」「本当は愛情からのことだったので罰を免れるべき」
というようなわかりやすい理屈を離れた、不条理な死。
攝津さんは経験から、この人のオーロラのように変わってゆく供述に
本能的に危険なものを感じ取ったのだろうなと笑
反対に、ぬかるみにはまってゆく福山さん。
犯人を、自分が感じていた絶望の理解者、共感者かと思っていたら
犯人自体がその絶望だった。
けれど、その絶望と対峙し、照らされることで、
逆に福山さんや広瀬すずや、その他登場人物の奥底にある、
愛情や悲しみといった感情の理が
次第にはっきりと浮き上がって見えてくる。
茫漠とした絶望の支配するゆらぎの中で。
是枝さんの作品は、見ているといつしか
登場人物の心だけを見つめているようなトランス状態に陥ってくる。
ここまで複雑な感情は、抽象的すぎてさすがに説明できないだろう
というようなところまで深く手を伸ばす。
理解されること、理解することを諦めていた領域まで。
なので、悲しい話であるのに、なぜか深く癒されて、幸福な気分になる。
役所さんの存在は恐ろしいけれど、福山さんがいるから救われるのである。
二時間無呼吸作品
いやぁ…集中しすぎてほぼ無呼吸の2時間超過ごさせていただきました…
どんどん、じわじわ、段階を踏んでいって、どんどん取調室のガラスの隔たりが無くなっていって、ほんと最後の役所さん福山さんの顔重なってるところでわたし謎の涙をぽろりと流して、そんでそんで??って思ってたらエンドロールになった!!!笑
本当に深く味わい深い作品で…誰も信じられない…………パンをもぐもぐ食べてる役所さんの可愛さが唯一の癒やしでした…でもその、ピーナツバター大好きなんですよってエピソードすら嘘だったらどうしよう…っ
あと満島真之介さんがずっといい顔だった!
雪原の中で
役所さんの蜩の記を最近観て、この人の脱力した演技は観る価値あるな~!凄いな~!と思って関心をもっていたところ、この映画にたどり着きました。
まず咲江さんを救う為に、殺人を犯したんだろうと思いました。
そして咲江さんを守る為に殺人を否認して裁判で供述させないようにしたのでしょう。
三隅さんが牢屋の外で鳥が鳴いているのに気づいて、窓から鳥に餌をやろうとしたシ―ンがあります。
その時の三隅さんの様子に、あ~この人は愛に飢えているんだ!愛を、誰か何かに与えたい!愛したいんだ!と強く感じました。
それは、心の琴線に響く、魂の叫びのようでした。
人を殺すことで解決するしかない…自分を殺すことでしか解決するしかない。
そんな生き方を選びたかったわけではないが、そうしか出来なかった人。
咲江さんの為には咲江さんは事実を裁判で供述することが、これからの彼女の人生の為に必要なことだったと思いました。
この映画はそのことも意識させる意図があって作られたんだろうか?
様々な理由の元に事実に蓋をする人々、そして私自身も様々な理由の元に事実に蓋をしてきた経験がある。
咲江さんに供述させて彼女を傷つけたくない、彼女を守りたい、そのためにしたことが三隅さんが選んだ愛なんだろう。
それが悲しい。
劇中で重盛の夢の中での雪原の美しさ、静けさ、そこに現れる人達の無邪気さ、安らぎとともに、劇中では出なかった誰かを殺す画が観終わった後心に問いかけてくる。
見ごたえ十分!
司法に疑問を持たざるを得ない。が現実として人が人を裁くことは難しく、現在もながれのなかで利害調整され、結論づけていく。
一度目の殺人で裁いた裁判官の息子にこそ、感じ取って欲しかったのかもしれない。三隅は自分が生き延びていることを良しとしなかったのだろう。ハガキはたまたまで摂津の紹介も偶然なのか?引き出されたものなのか?
何も考えてないような表情で、時折真相に近いと思われることを提示し、重盛を困惑させる。三隅は重盛に、二度目の殺人の真相をそれとはなく曖昧に理解させながらも、以前裁かれなかった自分に裁きを与えさせ、自分の大切な者を守るという働きを重盛に代行させていたように思われる。が、利害調整された不完全な死刑判決により三度目の殺人が行われ、一度目の殺人で死刑判決を下さなかった父の業を重盛が背負ったかのように、頬を拭う。
三隅と重盛が最後の接見でアクリルに反射して、顔が重なるのは二人が同じ気持ちになり、わかり会えたことを表しているのか。
真相はわからない、だが、それがいい!映画に演技に演出に、引き込まれてあっという間の時間でした。
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