三度目の殺人のレビュー・感想・評価
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役所広司の表情を凝視するだけで無間地獄に……
是枝裕和監督がオリジナル脚本で構築した世界は、法廷心理ドラマ。
勝ちにこだわる弁護士と、殺人の前科を持ちながら再び殺人をおかし火をつけた容疑で起訴され、犯行を自供する男。この2人を福山雅治と役所広司が演じているのだが、観れば見るほど理論武装がまるで役に立たず、本当に目の前の男が人を殺したのか確信が持てなくなっていく弁護士・重盛の苦悶の表情が印象的だ。
撮影に際しては、1年間以上にわたり弁護士や検事への取材を敢行したという是枝監督。
「人殺しが出てくるような映画を撮ったことがなかった」是枝監督は、「神の目線、全てを知る人が登場しない法廷ものが果たして成立するのか」を検証するため、弁護士陣の協力を仰ぎ、作品の設定通りに弁護側、検察側、裁判官、犯人、証人に分かれた模擬裁判を実施。ここで出てきたリアルな反応や行動などを抽出し、脚本に落とし込んでいったという。
その丁寧な準備には頭が下がる思い。と同時に、自供していた犯行を簡単に否認し、周囲を大混乱に陥らせる男を嬉々とした面持ちで体現した役所には、最敬礼だ。
「空っぽの器」という言葉が、役所広司主演作『CURE』を想起させる
謎めいた事件の真相を追う者が、対峙する犯人の闇にいつしか取り込まれてしまうという筋は、映画にもたびたび登場する。接見室のガラス越しの対話シーンという点では、近年の傑作『凶悪』(白石和彌監督)と共通するが、役所広司が演じる三隅を指して語られる「空っぽの器」という言葉で、黒沢清監督作『CURE』を思い出した。そこでは刑事の役所と、催眠暗示の使い手の萩原聖人、それぞれの状態を示唆するように同様の表現が使われる。
『CURE』では役所が犯人を追う側、『三度目の殺人』では犯人という立場の違いはあるが、犯人のブラックホールのように空虚な闇に取り込まれてしまう構図や、一種の超能力のような特殊能力を犯人が備えることの示唆を合わせると、黒沢監督の『CURE』に対する是枝監督からのアンサーソングのようにも思える。そう考えると、三隅が残す「十字」は、『CURE』の「X字」の切り傷との符号のように見えてくる。
タイトルにある三度目とは、、
へーって思いながら観れた
福山雅治ミスリード映画NO1
三度目?
裁判の現実
2度見てわかったこと
この作品には掴みどころのないものを感じていた。映画館で最初に見た時だ。
まずはタイトル このタイトルの意味こそわかるのだが、どこかしっくりこない。
2回目を見てようやく少しわかった気がしたのは、最初も2度目も、そして三度目に行われる法的殺人さえも、三隅が主導したのだ。
だからこれは、三隅による三度目の殺人なのだと思う。
いや、しかしこれは多義的だ。ここに裁判官や検察、弁護士の意思を加えることで、「誰を裁くかは誰が決める?」という言葉にも響いてくる。考えれば長くなるので割愛する。
そして、最初に見た時からあったこの作品への違和感は「いったい何が言いたい?」ということだった。
それは三隅が語っていた。「生まれてこなかったほうがよかった人間もいる」「あんな奴殺されて当然だ」 これらの言葉にかかっているのではないだろうか?
三隅は、自分と殺した相手に対しこの言葉を遣っている。
三隅はサキエを守りたい。本当の娘だと思っている。そのために彼女との秘密はあの世まで持っていく。彼の決心は最後まで揺るがない。
二転三転する供述はすべてサキエを守るため。
サキエも三隅を庇うために証言台に立つ決心をするが、それは母の言った「別にお父さんだけが悪いわけじゃないでしょう」という凍り付くような一言を聞いたからだ。
しかし三隅は先手を取り、自分はやっていない、河川敷にも行ってないと証言を変えた。
裁判は混乱するものの、判決を凡例通り死刑にすることで面倒くさい裁判の早期決着を図る。
あの正義感の強い検事の女性の正義を曲げた瞬間こそ、法廷という場の通例、つまり現代社会そのものなのを表現しているのだろう。
この作品が言いたいことの一つは、この日本社会に対する批判があると思われる。
本当のこと。真実などどうでもいのだ。
また、生まれてこなければいいという強い思い込みも、きれいごとなどではなく心から救われる時が来るということをこの作品は伝えたかったのではないだろうか?
それは、三隅が自分は犯人じゃないと言い出したことで、重森が混乱しながらも、裁判官の心証を悪くしても、また三隅が言った「本当のことを知りたくないですか?」に真摯に向き合った結果、三隅の真意を理解しそれに乗ったからだ。
三隅の誘導に乗り、死刑判決を受けさせるためだった。それが三隅の誰にも知られることなく行った正義だと信じたからだ。
最後にもう会いに行く必要などない拘置所に行き、三隅と対談する重森の額には、太陽の光が差し込んでいた。二人の顔が重なるのは、相対するのではなく真実にたどり着いたからだ。
そして二人で真実について話し合った時、三隅は重森が真実を理解してくれたことを知ると同時に、生まれてこなかったほうがいい人間などいないということを初めて悟るのだ。
ダメ出しし続けてきた自分という人間がした「悪事」あるいは「尊いこと」を理解してくれた人間がいたことで、三隅は自分の人生に満足したのだろう。
30年前の事件の裁判長が重森の父、彼の持っていた資料、それがなければ重森が真実にたどり着くことはなかっただろう。
これは素晴らしいプロットだった。
生まれてこなければよかった人間などいない
誰もがそう思っている。あの若い満島弁護士がそう言ったように。
しかし、自分自身が今までの人生の不遇から、そんなことを強く思い込んでいながらも、たった一人の真摯に取り組んでくれた人によって、三隅は最後に救われたのだ。
ここに大きな救い(テーマ)があった。
素晴らしい作品だった。
犯人は「器」 男が犯す殺人の動機は、近しい人への共感力なのか 人が...
犯人は「器」
男が犯す殺人の動機は、近しい人への共感力なのか
人が人を裁くことへの視点がこの映画の評価にもなっているが
この犯人の脅威的な共感力が、アイデンティティーの欠落を生み出し
自分の意思を超越したところで殺人を犯すのか
殺人を犯した人と、
心の中で殺人を犯した人の差異
正当な裁判で人を殺すことの差異はどこにあるのか
人への共感が薄い弁護士は、犯人に共感することで
人間性を試されるべきなのか
深いです、とてもとても、
是枝監督最高です
真相は藪の中
観客も翻弄される真実の迷宮
本作は、真実の危うさを描いた意欲作である。殺人事件を巡る推理サスペンス仕立てではあるが、起承転結の分かり易い作品でなない。
本作の主人公は敏腕弁護士である重盛(福山雅治)。彼は、ある殺人事件裁判の弁護を担当する。容疑者は殺人の前科を持つ三隈(役所広司)。三隈は既に自白しているので、重盛は減刑を弁護方針として、判決を有利にできる証拠を探そうとするが、肝心の三隈は、拘置所での接見で供述を二転三転させ、重盛は次第に混乱していく。ついに裁判が始まるが、そこには意外な展開が待ち受けていた・・・。
冒頭の凄惨な殺人シーンから、これから、本格的な殺人事件を巡る推理サスペンス、法廷劇が始まるのだと思ったが、そういう作品ではなかった。巧みに騙されてしまった。
本作の主題は真実の危うさである。真実は多面的であると謂われる。一面だけ見ても真実の本当の姿は分からない。ジグソーパズルに例えるなら、真実は、多数のピースで構成されていて、全てのピースが揃わないと全貌は見えない。本作では、重盛たちの調査で、次々と殺人事件の新事実が明らかになり、殺人事件の真実を構成するピースは徐々に揃い始める。逆に、三隈は、虚言を繰り返すことで、殺人事件を構成するある重要なピースを偽造する。そして、偽造されたピースで偽りの真実を見せる。完全に、重盛たちは三隈の虚言に翻弄されていく。弄ばれていく。操られていく。僅かなピースを偽造するだけで、真実は簡単に歪められてしまう危うさを持っている。
ということで、本作では何といっても三隈がキーパーソンとなるが、三隈役の役所広司がキーパーソンに相応しい存在感を示している。一見穏やかそうで人の良さそうな感じだが、心に深い闇を抱えた一筋縄ではいかない容疑者を巧演している。重盛役の福山雅治も、最初は裁判に勝つことに拘る合理主義者だったが、三隈の虚言に振り回されることで、自身の人間性が覚醒して、殺人事件の真実と向き合う弁護士への変貌を熱演している。
本作は、殺人事件の真相究明、法廷での弁護側、検察側の虚々実々の駆け引きを力点にはしていない。本作の力点は、繰り返される拘置所での重盛と三隈の接見シーンに集約されている。犯行動機のやり取りに始まり、徐々に重盛が不気味な三隈に翻弄されていく様が克明に描かれる。真実の危うさが炙り出されていく。最後の接見での激しいお互いの信念のぶつかり合いは鬼気迫るものがあった。
本作は、起承転結でラストもスッキリという作品ではなく、観客に答えを委ねる問題提起型の作品である。観終わって、“真実”という言葉がいつまでも頭から離れなかった。
なんだかなあ、
んーーーーーっ。
ヒーローかクズか
Amazon primeのお薦めから
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