「映画『三度目の殺人』評」三度目の殺人 シネフィル淀川さんの映画レビュー(感想・評価)
映画『三度目の殺人』評
☆映画『三度目の殺人』(2017年フジテレビ・アミューズ・ギャガ/是枝裕和監督作品)評
-人間の尊厳を真摯に見つめる厳粛な視線を面会室と法廷内に定めた是枝裕和監督の、これはジョン・フォード作品、アルフレッド・ヒッチコック作品から西川美和監督、万田邦敏監督へと連なる法廷ならびに集会の系譜学を映画の枢要に据える時、構築されるオルタナティヴな思考回路の装置化に務める裁判劇。或いはそこが生と死の本質を二項対立により乖離させる為に、説話的磁場として面会室のガラス板一枚の介在するお互いの手に表象され、最期の天と地に張り巡らされる電線の交錯と十字路に変容する時、それがこの映画のリゾームの役割を果たす交通の概念を露呈するポスト・モダニズムについて-
冒頭、不意に現れる被告人・三隅氏の川辺での社長惨殺事件の映像は、この映画が暗鬱なる悲劇として提示される予兆を孕んでいる。その死体にガソリンを掛け焼死体にする事からも、この映画全体の特に色使いが反映された殺人事件の発端は実に鮮烈だ。そこには冷めた暗黒の闇の惨劇が、次第にパトスを纏う炎の赤に変色する様が見出だされよう。
是枝裕和監督はその即物性が時に即興演出の様相を帯びる時、叙事詩の品格を備えた佳品『奇跡』とは、一見対極に属するかの如く思えて、実は冷徹さに満ちたグレイの配色を基調とする映像の叙事性溢れるモンタージュによりそこに共通項を認めださせる。
このロング・ショットの大胆さと手を中枢に据えたクローズ・アップによる繊細さが同居した折衷主義が、『奇跡』と濃厚な共示作用を催す是枝風リアリズムを醸成する土壌を、ガラス板一枚で仕切られた面会室という非情にも限定されたセパレイトな空間を人が占有する事で、そこに差異を伴う被告人と弁護人の社会性に帰属する聡明さを際立たせるのだ。
それは有罪と無罪、犯罪者と弁護人、男性と女性、子供と大人、そして生と死等のオルタナティヴな倫理学にまで及ぶ峻厳さを、実に秀逸なライティングと撮影技法で描出する際の光と影の絶妙なコンビネーションが生み出す聡明なる演出力によるものであると謂えよう。
そして観る者を常に宙吊り状態に追い込むのが、弁護側の取り調べの毎回が、恰もセレモニーであるかのような極めてハイ・テンションなモンタージュの連鎖反応である。それがガラス越しに対峙する三隅氏と弁護人・重盛氏の横顔が、顔そのものの映画としてカール・ドライヤー監督の映画にどうしても似てしまう事で覗かせる映画のアルケオロジーの流通として認識したくもなるのだ。
そこには、前述の光と影の峻別の証拠が認識できよう。前半の逆光による暗さを称える重盛氏の顔と明度に満ちた三隅氏のそれは、この立場の相反する二人の男が次第に融合・交錯してゆくに連れて、後半この関係が逆転する過程が謎解きの過程と平行するドラマツルギーこそが、この映画の眼目であると謂えよう。
この対峙とは裏腹に重盛氏の肉親の父親と女子学生の娘との視線の殆ど交わる事のない映像処理には、是枝監督が描く家族像への実に冷めた視線が感じ取れる。その人物配置の変容が、最終的には重盛氏と三隅氏を面会室のガラス一枚に反映させる事で、同一のショットに収める近似性を露呈する。それが重盛氏の娘の髪型と三隅氏の殺された社長の娘のそれとの同型に言及する事で、事件の真相である彼女が実は三隅氏の娘であるかもしれないという予想を孕んだシンメトリーな構図にまで及ぶのだ。
この苛酷なまでに酷似した二人が、死刑を回避する為に互いに捏造された虚偽性を奮う時を基点として、この映画の相貌の反転が成される。そしてもう一つの反転の記号体系が、重盛氏の右手と三隅氏の左手がガラス板を通して合わさる時からだ。その証拠に死刑判決後、面会室で三隅氏と結ぼうとするコミュニケーションの断絶が、重盛氏の右手だけが虚しくガラス板に張り付く事で表象される事からも明らかであろう。
裁判の判決により死刑が言い渡される瞬間から、真実が被害者の娘の口から漏れるという反転の反復が、映画を活性化させる説話的磁場を法廷外の面会室に再び固定させるのも、この二律背反の世界がいかに停滞と逡巡を露出するかに懸けた是枝監督の執念がなしえた業といえよう。それは生と死の業であり、これがガラス一枚で峻別される彼の死生観の表出でもあり、この簡易なる装置が虚構と現実の境目をも分かつ強靭なる人間の壁として屹立している証明でもある。
このコミュニケーションの断絶を克服する儀式として、ラスト・シーンで重盛氏が屹立することになる十字路と電線の交錯地帯。そこでは天と地に張り巡らされたリゾームの如きこの交通と通信を司る都市空間に於けるコミュニケーション・ツールが、重盛氏と昇天したであろう三隅氏とのガラス一枚隔て通じた手による魂の唯物性溢れるコミュニケーションの再発見が成される。
その十字路は三隅氏が飼っていた鳥の墳墓に描かれた十字架と、北海道で雪合戦する三隅氏と重盛氏、そして被害者の娘が積雪に仰臥する姿を真俯瞰で捉えた時の十字型のイメージ場面に符合している。それは宗教観を払拭した唯物的な即物性を奮う事で、この映画の重要な記号として確認できるのだ。
ここには是枝裕和監督の交通の概念のトポス化への固執が、装置として君臨している。そこには人間関係の乖離から融合、そして冤罪による理不尽なる死刑という宿命的離反からの再生を願う主人公の魂の軌跡をも表象する、リゾーム(網状組織)としての都市空間に於けるポスト・モダニズムが犇めいているのだ。
その証明とは、この複雑怪奇な事件がクールな都市の冷めた思考回路とは確執する根深い血縁関係という親和作用を伴った肉体的欠損により顕れる親子の黙契が、宿命という不自由さに起因するからに他ならないのだ。
(了)