「そういえば 「ロダン カミーユと永遠のアトリエ」でも、弟子カミーユの作品に師ロダンが合格点を出し、カミーユの作品に《Rodin》とサインを揮毫するシーンがあった」ル・コルビュジエとアイリーン 追憶のヴィラ きりんさんの映画レビュー(感想・評価)
そういえば 「ロダン カミーユと永遠のアトリエ」でも、弟子カミーユの作品に師ロダンが合格点を出し、カミーユの作品に《Rodin》とサインを揮毫するシーンがあった
【ロンシャンの礼拝堂】
憧れの建造物だ。
ぜひいつか行ってみたいと思っている。
・サヴォイ邸
・国立西洋美術館
・ラ・トゥーレット修道院 等々、
直線一本槍だったル・コルビュジエが
なぜに最晩年に及んで、直角や平行線を排したミロの絵のような礼拝堂を建てたのか。
ピロティも窓も無く、装飾を拒む頑丈な厚い壁に閉ざされていて、無限拡張の逆を行き
彼はなぜご自慢の「5原則」を離れたのか。
それは大変不思議なことだ。
アイリーンとの関わりが、彼の中に何かの変容を引き起こしたのだろうか。
ロンシャンの緑の丘の上、
あの褐色の屋根は、まるでアララト山の白い巨石の上に止まった箱舟のようだ。反り返ったその屋根の裏側は、下から仰いだ船の腹のように見える。
あの礼拝堂は山の頂に堂々と着地をしており、そして光のスリットを介してわずかに浮かんでいる。
重力と無重力が同居している。
東北の津波の際、白いビルの屋上に巨大な船舶が取り残されたままになっていたが、あれはこのロンシャンの礼拝堂を思わせる光景だった。
恐らく、当地で現物を見れば、その内部は20人ぶんほどのピュイ(長椅子)しか置けないサイズゆえ、
想像よりも意外にも小さくて、僕の中で膨らみ過ぎていた期待をしぼませてしまうかもしれないのだが。
でも、
映画を鑑賞し終わって、一人の男の情けなさ、その体たらくを突きつけられて、僕の心の中の巨匠=ル・コルビュジエへの尊崇も幻滅。
ポシャってしまったのだが。
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【三人のアーティスト】
映画は、アイリーンを愛し、アイリーンを踏み台にしたジャン。
名士コルビュジエと、彼を嫉妬させ、苛立たせて撹乱させた女性、アイリーンについての物語。
自分と愛人ジャンのために海辺の邸宅をデザインすることにしたアイリーンだが、
そのイメージの世界に遊びながらゆったりとワルツを踊る姿が大変良かった。
⇒ 家具デザイナーが建築に目覚めていくいいシーンだ。
自信と満足に満ちた目、次の構想への意欲に燃えるアイリーンの眼差しが素晴らしい。
僕も自宅の設計をしたことがある。
もちろん図面は専門家に引いてもらったのだが、一切は僕の夢の具現。
たくさんの家を意識的に見てきた甲斐があり、自画自賛だが素晴らしい家が完成した。
礼拝堂のスケッチも構想した経験がある。
だから建築関係の映画には、ついつい手が伸びてしまう。
アイリーンならずとも、建築はワクワクドキドキで寝食を忘れる一時なのだ。
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【映画の造り】
アイリーンと、ジャンと、コルビュジエ。
三人の創造作業のための、《建築の前段階でのイマジネーションの風景》、
•・あれはまだ形にはなっていない渾沌の世界だ。
本作の画面においては、おのおのの「横顔」と「光」と「音楽」によってしか、彼らの心中は伝えることはなされない。
建屋に求めるスピリットとしては
①住む者たちを守る“生命の殻”を目指すアイリーン。
②かたやコルビュジエは自然と屋内の調和を具現する“機械”として建造物を据え、居住する人間たちをコルビュジエ理論に屈伏させる意向。
③ジャンは?といえば業界の有能なライターではあるが、アイリーンとコルビュジエという巨人の間で右往左往する根無し草だ。
感覚を重んじるアイリーンと
理論を信奉するコルビュジエと。
そしてアイリーンの才能に寄生するジャン。
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【映画の演出技法】
◆撮り方の工夫としては
どうしても先述の「イメージ画像」の尺が長いので、こういう作風が肌に合わない方には、緊張を持続してスクリーンに向かうのはくたびれるかもしれないが、
時折、「目指すものの相違」という確執の中で、それぞれ登場人物の中で言葉化され明確になっていく三人の「ポリシー表明」が光る。
発見された「ポリシー」が本人たちの口から、映画の進行中にコメントとして直接に挟み込まれている。
それが鑑賞者のための道しるべとなるから、その発される言葉に眠い目が醒めてハッとさせられるかもしれない。
アイリーンのセンシティブでシリアスな独白と
いつも裸の“お山の大将”だったコルビュジエの、カメラを向いてのやんちゃな「独り言コメント」が、双方で対比しているのも仲々ユニーク。
◆時間の進行をゆっくりと撮るかと思えば、まったくのその逆もある。
仏独の「 開戦〜戦中〜戦後」を1カットずつの、たった1分でのコマ送りの早送りにしたり、
ジャンの「ガンの告知から死までの数ヶ月」が、枕辺でのノーカットの優れた1シーンで撮られていたり。
斬新な監督のアイデアだ。
◆そして、
長調・短調にかかわらずいつも後ろに流れ続けているのが作曲家ブライアン・バーンの
「三拍子のワルツ」というところが、また“この三人の絡み”を象徴するようで、恐らく意識的な、旨い当て書き作曲であったと思う。
アイリーンと女友だちの避暑も三人のシーンであった。
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【残るものと 残らないもの】
僕はオルガンの演奏をしていた。
「音楽」は、録音を残しておかないならば、その場その時だけで、はかなくどこかに消えてしまう一瞬のものだ。
「音楽」には、つまり形が無いのだ。
演奏は、失敗すれば舌を噛み切りたいほど恥ずかしく悔しいものだが、その失態を知る人々の記憶から消えていく幸運をも持っている。
しかし「建築」は違う。
友人には幾人かの建築設計士や公共工事の施工管理者がいるけれど、彼らに「作品」と後年再会する時の、作者としての気分を訊くのは面白い。
「嬉しいかい?」
「後悔は?」
「どんなふうに使われているか関心は?」
「崩壊してないか心配にならないかい?」
高層ビルや長大なトンネルの作者だ。
消えてしまう音楽の演奏とは真逆だ。
固形体・ソリッドとして長く残る物を造る人間たちの、叡智や技術、そして名を残す勇気と責任感は大したものだ。
僕が建てた家は賃貸に出した。
その後いろいろな階層の人たちがそれなりのけっこうな家賃で住んでくれており、お陰でローンもペイ出来たのだが、
当初そこに暮らし、一生をそこで過ごすものと思われていた最初のカップルは、残念ながらもうそこにはおらず、
外壁は断りなく塗り替えられて、
遠景からたまにその方角を眺めることはあっても、(コルビュジエの世界文化遺産17件とは異なって)近寄りたくもない負の遺産となってしまったが。
だから、形が残る建造物は、容赦がなく、告発的で、時に残酷だ。
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【男性性=俺が壁画を描いてやるよの傲慢、笑】
映画の冒頭、「このE.1027を守りたい。俺の壁画だけでも守りたい」と臆面もなくぶち上げる恥知らずの男が、カメラ目線で得意げなのだ。
見終わって判明したのは、ル・コルビュジエの「5原則」は、実は+プラスもう1個の「6原則」だったという種明かしではないか。
「『家』は男の側が力の象徴として用意すべき物なのであり、そこに か弱い女を迎えてやるべきなのだ」とするコルビュジエ風の、そして愛人ジャンなりの、それまでの男社会の常識が壊れていく様相、
その「変革期」を、建築に於いて、そしてジェンダーに於いて、語って見せようとした映画であったと思う。
男尊女卑の醜態。
「E.1027」の名義は盗られ、鍵は隠され、美しい壁は凌辱されて、女は黙して耐えることを強いられる。コルビュジエとジャンに利用され、虐待されていたアイリーンなのだ。
聖家族の“落書き”に銃弾が撃ち込まれたのが象徴的だ、
窓があってももうそこに人はおらず、
ピロティにも外壁にも愛する家族がいない始末だ。
コルビュジエ先生には言いたいが、HOMEに生命が宿るのでなければ、それはHOUSE=廃墟に過ぎないのだと、
僕は痛みと反省を込めて、男の自分の経験からもそう思った。
監督は完全にアイリーンの肩を持っている。
女は「嫁」ではないと主張する。
ル・コルビュジエは最低の男だったことを暴露する。
それが今現在ル・コルビュジエの作品に住むハイソサエティたちの怒りを買おうとも、だ。
自信過剰の男二人が先に死に、アイリーンが長らえたのもちょっとウフフかな?
監督がやったのは 敵討ちですよ。
姉妹作「アイリーン・グレイ 孤高のデザイナー」もぜひ観てみたい。
コメントありがとうございます。ブニュエルの度胸みたいなものが好きですが宗教の理解が浅いのでついていけないところがありますね。あなたの理解力に感心しています。