猿の惑星:聖戦記(グレート・ウォー)のレビュー・感想・評価
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オリジナルを越えていく決意
オリジナルの『猿の惑星』に繋がっていく前日談なのかと思いきや、独自の大河ドラマとして発展していった今回のシリーズが、いよいよ佳境。評判もよくヒットもしているのだから、まだまだ続くかと思いきや、一旦ちゃんとストーリーに決着をつけてきた。
マット・リーヴスが監督を引き継いでから、明らかに人間より進化した猿側がメインになっていったが、人でないものを主人公にして、実写でここまでちゃんとドラマとして楽しめるのは凄い。技術面もそうだが、アンディ・サーキスを筆頭にしたモーションキャプチャー俳優たちには相応の演技賞があっていい。
そしてオリジナルから名前を引き継いだキャラクターたちが出てくるのはオールドファンの心をくすぐるが、役割が異なることで、また違う未来像が開けているのだと感じさせてくれるのがいい。世代を重ねていくこの先の物語も、できることなら観てみたいものである。
リーダー不在の時代にシーザーの勇姿が眩しい
オリジナルの1作目から半世紀。間を置いて続いてきたSFシリーズは、遂にパフォーマンス・キャプチャーという最先端技術を得て演技力を手に入れた猿たちが、素顔で演技する人間の俳優たちを完全に凌駕して、もしかしたら1作目のラストに繫がるのか?つまり、再リブートの可能性もあり得なくもないと感じさせて、一応幕を閉じる。描くのは、人類が開発した妙薬によって高い知能を得てしまった猿たちが、その人類によって抹殺されようとする強烈な皮肉と、そこから立ち上がろうとするシーザーが垣間見せる理想のリーダー像だ。種族繁栄のために自己を犠牲にしようとするシーザーの有り様に、リーダー不在が極まる今の時代が重なって見えるのは、愚かな一国民の幻覚だろうか?
言葉を失う人類が平和をもたらす“新種”であるという皮肉
シーザーたちが旅の途中で遭遇する人間の少女は、人類を激減させたウイルスの影響なのか、話すことができなくなっている。エイプたちが彼女に与えた名はNova。ラテン語で「新星」を意味する(スーパーノヴァ=超新星という言葉で耳にする機会が多いはずだ)が、映画では逆説的に、言葉を話せない少女こそが(エイプと共生する)新しい人類だと示唆している。
人類は意思伝達の道具として言葉を獲得し、知識を共有して次世代に伝えることで文明を発展させたが、優秀になるほど競争心も高まり、政治的・経済的・軍事的に競争相手よりも優位に立つことが至上命題となってしまった。それに対し、シーザーらは「エイプス、トゥギャザー、ストロング」と訴える。団結こそが力なのだと。人類は知識の使い道を間違っている、という強烈な風刺が込められている。
ピースを埋めるだけの作業
これで終わりなのか。少なくとも、アンディ・サーキスの黒子としての名演技はこれで見納めなのだろう。『スターウォーズ 最後のジェダイ』のメイキングを見る機会があり、アンディ・サーキスのスノーク役の名演技を、モーションキャプチャー状態で見ましたが、言わば無修正版のライブ演技。その加工前の演技を監督のライアン・ジョンソンが絶賛していたのでメイキング映像として収録したということでした。
確かに、加工してCGキャラクターとしてサーキスの演技が見えなくなってしまうのは残念と思えるほどの白熱の名演技でしたが、しょせんは、映画の一部で使われたフッテージに過ぎず、それが観客の目に触れる機会が永久に来ないことが残念だった、という監督の気持ちがよく理解できるほどに、アンディ・サーキスのキャプチャー演技は素晴らしいものがあります。
たまたま、『ブラックパンサー』に悪役で出演していた時には、生身の人間(笑)役だったので、ちょっと貴重な映像だなと思いましたが、さほど心に刺さる演技と言うほどのこともなく、俳優って、限定された状況で光る人もいるんだな、なんて、妙に感心したものです。
それ以外に、この映画に心を動かされた要素はなく、ひたすらパズルの残されたピースを埋めるための「作業的」なお話になってしまい、作り手の情念とか、キャラへの愛情みたいなものが欠けている気がしました。特に人間の少女と、サルたちの心の交流など、もっと時間を使って掘り下げる必要があったのではないでしょうか。彼女の本当の親がどうなったのかとか、命がけでサルたちに守ってもらうとか、何とでもなったほずです。
いずれにしろ、人間の文明が荒廃して、サルたちが隆盛を迎えるまでの失われた物語を綴るシリーズはこれで終焉を迎えたのです。映画が当たればそれでも続編が製作されるでしょうが、中途半端なヒットでは、その目もなさそうです。
本当は、人類の文明が衰退する前に、光速で移動できるロケットが打ち上げられ、中でパイロットが冷凍睡眠状態になっている記述がなければ、『猿の惑星』とは言えないと思います。だって、あのグランド・フィナーレにつながらないから。
そう悪くはないのかもしれないが
久しぶりに連続で観ました。
前二作品に比べると安易というか物足りないというか
勢いそのままには走りきれなかった感がありました。
悪くはないんですが、前作までが良すぎたのかもしれません。
「関心領域」「デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション」
と、この「猿の惑星三部作」を続けて見たせいで、この映画の見方がずいぶん深まった。
ドンキーはアウシュヴィッツでナチスの手伝いをしていたユダヤ人そのものだ。
知性ある宇宙人や知性ある猿と、野蛮な人間がいたら、いったい自分はどちらの立場に立つのだろう。
だが、もしも知性のある蛇がいたとして、自分はその立場を理解できるか、と言うと、甚だ疑問である。また、実際に目の前に流暢に英語を話す猿がいたら、私は恐怖に駆られて何をするか想像がつかない。
理屈ではわかっていても、自分と違うものを受け入れることはとても難しい。人種差別を克服することがなかなか難しいのは、当たり前のことかもしれない。
自分達の考えこそが正義と信じている人間にとって、自分達と違う価値観を持つ異質な人々に対して理解することは、とても困難なことだろう。現に世界で起こっている紛争や差別、戦争などを終結させることなんて、奇跡に近いようなことに思えてくる。
新作を見る前に復習で
リアルタイムで劇場で観てるはずなんですが、なぜか記憶に全くない。ということでAmazon primeで300円課金して鑑賞。
続きモノなので真新しさというものはほとんど感じないのは当然なのですが、自分の中で飽きがきてるのか観終わった後の満足感はちょっと薄かったです。1回目劇場で観た時の記憶がないのも妙に納得できました。
しかし新作を劇場で観たいという気持ちは変わらないので観には行きますが、満足できるかちょっと心配になってきました。
VFXは凄いよ
猿と人類の紛争が続く中、妻子を殺された猿の指導者シーザーは仇である人間軍大佐を追う…。
リブート版『猿の惑星』シリーズ第3弾、猿の惑星史に何らかのケジメをつけるかと思ったがそんなことはなかったぜ!
両陣営の生存者数や生息域がはっきりせず種の存亡をかけた地球規模の戦いのはずが地域紛争程度にしか見えない、その後の歴史を示唆するような出来事も特に無いなど猿の惑星史上ではあまり存在価値が感じられない物語だった。
とは言え、VFXの出来は良く、雑ではあるがスリルやアクションや感動もあり単体の作品としてそれなりな満足感は得られた。
シーザーの怒りと、人類の自業自得とも言える衰退、糞が刺激的
原題 WAR FOR THE PLANET OF THE APES
訳すと「猿人類の惑星のための戦争」
Disney+で字幕版を視聴。
マット・リーヴス監督は、1968年のオリジナルに繋がる物語になると謳っていた通り新展開があった。
人間の少女ノヴァの存在と、人類がウィルスの影響で話せなくなるというマッククロウ大佐の説明、そしてノヴァのぬいぐるみから感染した描写。
復讐モードのシーザーは、前作のコバと同じことを繰り返すが、シーザーに戦意を持たせなくてはPLANET OF THE APESに繋がらない。
シーザーを退かせて別のリーダーにコバと同じことをさせたら、それこそ前作と同じストーリーになってしまうだろうから、シーザーの怒りのストーリーがベターだったのだろう。
山奥が舞台なので、ジャングル化しているであろう都市の映像はない。
見どころは、大佐の人類の未来を考えた言動が、エゴイスティックになったシーザーより人格者であるということ。
また、エイプの糞が描かれていたことは取り上げずにはいられない...そもそもエイプの知能指数は高くなったのに服を着る必要がないからなのか裸ん坊のまま(一頭だけ服を愛用するエイプがいるが)、パンツも履かない、しかも排泄物についての描写が無かったことに氣付かされる...ネット情報によると、劇中にはないがチンパンジーは糞を食べる習慣があり、さらに共食いもしばしば報告されているらしい。
まあ、SFだし知能指数が高くなったエイプは特別なので当てはまらないとしても、糞が好奇心や探求心を刺激してくれた。
大自然の迫力、アクションシーンの迫力が凄い。
脚本のマーク・ボンバックとマット・リーブス達は制作前に映画を沢山鑑...
脚本のマーク・ボンバックとマット・リーブス達は制作前に映画を沢山鑑賞。猿の惑星シリーズ、戦争映画、西部劇映画、『スター・ウォーズ エピソード5/帝国の逆襲』など。「限られた時間だったにもかかわらず、私たちは多くのインスピレーションを得ました」と述べている。
さらにボンバックとリーブスは、製作中に『戦場にかける橋』と『大脱走』を鑑賞してインスピレーションを得た。また、聖書の要素も必要と感じた二人は、さらに『ベン・ハー』と『十戒』も鑑賞している。これらの映画から得たインスピレーションは、シーザーと大佐の関係を描く際に活かされている。リーヴスはシーザーと大佐の関係を『戦場にかける橋』のニコルソン大佐と斉藤大佐の関係と比較して述べており、大佐を探すシーザーの旅は『アウトロー』と比較している。また、大佐率いる米軍部隊は『地獄の黙示録』のカーツ大佐の部隊の影響を受けていると指摘されていて、大佐役のハレルソンもその指摘が正しいことを認めている。←引用
人間とエイプとの鮮明な対比
1968年公開の“猿の惑星”第1作は、斬新な発想の衝撃作でありSF映画の傑作である。今でも鮮明に記憶に残っている。本作は、創世記、新世紀に続く、猿の惑星・新シリーズ3作目であり、シリーズの起点である1968年の第1作に繋がる壮大な物語が紡がれていく。
森で暮らしていたエイプ(類人猿)たちは、大佐(ウッディ・ハレルソン)率いる人間の軍隊に襲われ、リーダであるシーザー(アンディ・サーキス)の妻子が殺される。シーザーは、復讐と捕まった仲間の救出のため、僅かな仲間と旅立ち、大佐の軍隊を探し出し、戦いを挑んでいく・・・。
冒頭のエイプと人間の激戦からラストまで、極めて人間的な感情と良心を持ったエイプと、無慈悲、非情な人間の対比が鮮明である。特にシーザーは、人間の言葉を喋ることができ、本来人間が持っているはずの長所を全て持っている。対して、大佐は、人間の悪いところを全て集めたような典型的な悪党である。エイプと人間は、もはや外見だけの違いであり、エイプと人間の戦いは、人間同士の戦いのような生々しさ、切なさがある。人間とエイプの共存、共生について考えさせられる。
シーザー達は大佐探しの旅の中での様々な体験を通して、人間の驕りを体感していく。人間の驕りは観客である我々人間にも突き付けられる。本作は、シーザーを中心にしたエイプ側の視点で描かれており、エイプ側の心理描写もしっかりしているので、エイプ側から見た支配者としての人間の驕りが浮き彫りになっている。人間の驕り、大佐と来ると、カーツ大佐を探し求めた主人公を通して戦争の狂気を描いた地獄の黙示録を思い出す。
後半は、捕虜収容所を題材にした戦争映画のような趣となる。ここでも、人間の嫌な面がクローズアップされるので、人間である我々も、エイプ側に感情移入してしまう。そして、終盤は、お約束通り、エイプと人間の決戦となる。シリーズ第1作に繋がるとなると、結果は分かっているが、意外な展開が待ち受けている。ラストは、シリーズ第1作を久々に思い出すことが出来て、印象深かった。
1968年から50年近くシリーズが続いてきたのは、やはり、斬新な発想の賜物だろう。
パロディとエンタメの同時成立を評す。
カーツ大佐は意味不明な詩ををほざくこと、
大脱走の主役スターは猿顔だったことのパロディと、
ベタなエンタメの同時成立を評す。
序盤で抱く何故猿かという疑問を、中盤から吹き飛ばす快作。
祝ハレルソン自己ベスト演。
私的年テンには入れよう。
猿の惑星オリジナルも新しいのも良い映画です。複数回見ました。 妻子...
猿の惑星オリジナルも新しいのも良い映画です。複数回見ました。
妻子を殺されたシーザー。
仲間が奴隷になっている気の狂った大佐の基地に助けにゆく。
極悪な人間が幅きかせてる世界なら、人間なんて滅びちゃっていいよ。
話が繋がった
シリーズ物にしては
毎回、完成されている。
コロナに見舞われてる今
この映画は身につまされる。
人間は自然に勝てない!
オゾン層を破壊した時点で
地球を敵に回した今
負け戦でしかない
早めに降伏しないと絶滅は目に見えてる。
生きてる間、イヤ、少なくとも子供が存命のうちに絶滅を見る事のない様願うのみ
人類に台等するのは霊長類か否か?
聖戦記
奴隷制と全く同じ。
猿の視点で描かれるから猿への同情しやすいけど、自分が人間であることを考えると実際どうなのか考えさせられる。
自然淘汰を表す最後の雪崩。木に登れる猿が生き残った。そして猿の惑星へ…
人間らしい猿。
久しぶりに猿の惑星を観てみた。
初めに猿の惑星を観たとき衝撃をうけた。
猿の世界に支配されるSF。
今回は猿がリアルでまるで人間の様。
初めちょっと盛り上りがなくて退屈でした。
でも。後半過ぎて猿からの目線から描いているので猿が人間より人間らしく思えた。
特に最後は猿と人間が戦う時 猿が木に登り猿が難を逃れ生き延びる。
人間に奢りがあるかぎり戦争は無くならないと思った。
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