「寛容の在りかとその発露」マンチェスター・バイ・ザ・シー よしたださんの映画レビュー(感想・評価)
寛容の在りかとその発露
前回、上映開始の直前に体調を崩し、無理に着席するも、敢えなく自沈。出直しての鑑賞。
海辺のマンチェスターという名の小さな港町が美しく切り取られたショットの数々。これだけが印象に残っていたが、これだけでもこの映画を観る値打ちはある。
そのことが象徴するように、この映画は海辺の風景と父親が遺した小さな船が人びとを強く繋ぐ役割を果たす。
この船に付けられた名が、主人公の母から取られたものであることが、兄が埋葬される墓碑に刻まれた名によって観客に示されている。亡き母が、遺された弱き息子と親を亡くすにはまだ若すぎる孫との、唯一の肉親関係を繋ぎ留めるのだ。
人は何によって救われるのか。
この大きな問いへの小さな、しかし、具体的で強い答えが映画には描かれている。
父親を失った後、主人公の甥は別れた母親に会いに行く。彼女は現在の夫と暮らしているのだが、甥はその夫のことを「キリスト教徒だった」と評する。
これは痛烈な宗教批判ではなかろうか。
この少年は、弱きを助け隣人を愛することを説かれているはずの敬虔なキリスト者には受け入れられなかった。むしろ、辛い過去と偏屈な自我のために人を遠ざけている叔父に救われるのだ。
いったい人の寛容性とはどこにあって、どのように発露されるものなのか。
映画はこの問題提起に止まらず、具体的な回答を示すことにより、感動のフィナーレを迎える。
ベビーカーを押す元妻との再開のシークエンスの、なんと緊張感に満ち、そして暖かみに溢れていることか。
彼女の後悔の言葉に続く「愛してる」の一言。それをどう受け止めたら良いのか判らずに、逃げるようにその場を立ち去る主人公。二人とも不器用であるが、相手をすでに赦していることが、正直にその言葉や態度に表れている。
この寛容性の発露が声高ではなく、真摯で暖かい。
固定カメラのショットが多用されていることから、小津安二郎の味わいをどこかで感じていた。そこへこの感動の再会場面である。これはこの作品に小津の緊張感と感動に類するものをもたらした。