ムーンライトのレビュー・感想・評価
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黒い肌に反射する色。
◯作品全体
本作を見始めたとき、「登場人物が黒人である必要性があるのか」という感想が浮かんだ。内気な性格、いじめ、身体的コンプレックス…人種に関わらず経験しうる出来事ではないか。アカデミー賞作品賞という肩書というのもあって、少し邪推してしまった。
しかし、主人公・シャロンの理解者であるフアンのブルーと呼ばれたエピソードによって、本作の演出は黒人でないとできないと確信した。反射する肌とその色、という演出は必ずしも黒人である必要はないが、反射しづらい「黒」という色の肌によって、反射することの意味が強くなる。
本作において肌に反射する色は「他者からの影響」を意味する。フアンのエピソードも、他者である老婆から「青色だ」と指摘されなければフアンは気づけなかった。そして気づけたことにより、黒人というカテゴリとは異なる「ブルー」という個性に出会うことができた。肌に反射する色は、他者からの影響により違う自分に変える力を持っている。そして変化の説得力は反射しづらい黒色の肌にあるのだと思う。
シャロンは無口で、話すときも下を向く癖があるから尚更他者からの影響を受けない。黒人のコミュニティでありながらあだ名が「ブラック」なのは、普通の黒人よりもさらに反射させる色を持ちえないからかもしれない。そんなシャロンが初めて肌に反射させた色は青色だ。フアンと同じではあるが、意味合いとしてはネガティブな印象が強い。なぜなら母から「私を見るな」と怒鳴られながら呆然とするカットで反射した色が青だからだ。母が知らない男と入っていく強烈な赤色の寝室が対比として使われていた。
第二章では、居場所のないシャロンに反射する青色が印象的だった。駅のホームで反射する青色と下を向いたシャロンの表情から、街やコミュニティに入れない寂しさを感じる。海辺のシーンでは色を排除して、月の光とそれに当てられて光る肌が強調されていた。スポットライトのように注がれる真上からの光が、ケヴィンの隣にいるこの場所こそシャロンの居場所だと訴えかけてくる。もう一つ、光の反射が使われていたカットがあった。ケヴィンやテレルに殴られて、氷水で顔を洗ったシャロンのカットだ。こちらの光は鏡に乱反射していて、そして額からは赤い血が残っている。シャロンの怒りや悲しみが反射によってあふれ出た演出で、その後、テレルを椅子で殴ってしまう導火線のような役割だった。
幼少期から青年期のシャロンにとって他者からの影響は計り知れないもので、シャロンが口を閉じ、俯いていても他者や社会からシャロンへ向けられるものは抑えることができない。肌の色も、そして心も「ブラック」で閉ざしたシャロンに突き刺さる色たちが刺々しく映った。
第三章ではシャロンが失った居場所を再び獲得する物語になっている。ここまでの本編にシャロンの居場所はほとんど描かれず、自室にいるシャロンも意図的に映さないようにされていた。さらに街の名前が出てくることもなく、シャロンがどこにいて、どこに居場所があるのかわからなくなる立ち位置だった。
大人になったシャロンは自分の車と家を持ち、アトランタの街で生活していることがわかる。母からの謝罪も優しく受け入れられる心も手に入れたが、独りぼっちだ。忘れたい過去の中にいるケヴィンを少しずつ過去から現在へ掘り起こすシャロンの目線や仕草は、理想の居場所を壊してしまうことを恐れているかのような、そんな印象を感じた。
第三章はあまり色を感じるシーンが少なかったが、ラストカットの青い月光と幼少期のシャロンを強調するためかもしれない。青色が示すネガティブに感じた「他人からの影響」が月の光としてシャロンに映る。ケヴィンがいる、という「他人からの影響」をポジティブなイメージの月の光と重ねたラストだ。
肌に反射する色はシャロンを攻撃するかのようにシャロンのままでは居させてくれなかったが、ラストにはシャロンを包み込むようにやさしく存在している。シャロンの内的な世界を鮮やかに、静謐なままに切り取った色の演出が素晴らしかった。
〇カメラワークとか
・テレルがケヴィンの相手を品定めするカットは、テレルの周りを動きながらテレルをフォローパン。カメラを引くとケヴィンの前にシャロンがいる、というトリッキーなカメラワークだった。ケヴィンが相手を探し始めた時点で作品を見ている我々は誰が標的になるかわかってしまうから、そのくだりは確かに不要だ。省略の巧さを感じる演出だった。
身を削るように生きる世の中で
身を削るように生きなければならない世の中で、そうであるからこそ、愛情がほのかに温かく染みこんでいく。残念ながら、現実は魂をすり減らすように残酷で、それでも、欲情を越えた思いやる心がわずかに生き続けている。どのような、世界であったとしても。そのことに気付かず、自分だけが不幸であるかのように下を向いていては駄目だと、教えられたような気がしました。だからこそ、劇中で「下を向くな」と繰り返していたのかも知れません。そのことに、映画が終わってからやっと思い立ちました。
抑制がもたらす興奮はかくも強烈なのか!?
マイアミの貧困地帯。何かにつけて仲間たちに虐められている少年、シャロンを匿ったドラッグディーラーのフアンは、決して、暴力には暴力で対抗しろとは言わない。思春期を迎えたシャロンは友達と連んでいきがったりせず、月夜の浜辺で"永遠の一瞬"に体を震わせる。今や逞しく成長した青年のシャロンは歯を金で固め、筋骨隆々のボディで自らをガードしているが、何が彼をそうさせたかは観客に想像させるのみ。等々、かつて見てきた黒人映画のルーティンをことごとくスルーし、ひたすら優しく、知的で、且つ、エモーショナルでエロティックな愛のストーリーとして全編を全うしている。抑制がもたらす興奮はかつも強烈なのか!?その余韻は未だ熱を帯びている。
圧巻
ヤク中の母と二人暮らし、いじめられっ子のシャロンは唯一の友達ケヴィンに友情以上の感情を持つようになり……みたいな映画
2分ぐらいある長回しを多用してドキュメンタリー的な雰囲気を出したり、ポスターに見られるようなネオン風の光がめちゃオシャレに入っていたり、音楽の入り方が心情にピッタリあっていたり、とにかく映画としての完成度が高くびびらされました
特に、自分の気持ちをBGMに代弁させるシーンはエモすぎて鳥肌立ちました また、演技力も素晴らしく、困難な環境で心を閉ざせども瞳にギラギラ野望が眠っているシャロンがばっちり表現できていて、感動しました
何より、このような卓越した映像表現で、マイノリティが奮闘するも失敗するが最後に希望が残るという救いのある脚本が、重いテーマを薄れさせることなく美しく描いていてよかったです
ともだち
ともだちがいない子供時代を過ごしていると些細なことで自分を受け入れてくれる相手に恋愛感情に似たものを抱くことはあると思う。
ともだちがいない子供は仲良くなっても、ともだちと言えない、夏目友人帳の中の言葉。
そのまま誰にも心を開けず大人になっていくのもわかります。
問題のある親のことや黒人であること、同性愛という、辛さが加わって強くなっていったのかもしれません。
美しい月の光のようにさみしく沁みてくる映画でした。
自分には良さが分からなかった
アカデミー賞で高評価を受けたらしいが
自分には良さがわからない
主人公のシャロンはいじめられっ子の少年
唯一の友達はケヴィン
母親は薬の常習者
ある日、いじめっ子から逃げて、隠れているところ薬の売人と出会う
数年後
砂浜で話す主人公とケヴィン
2人はキスをし、その後ケヴィンはシャロンに対し行為に及ぶ
数年後、二人は再会する・・・・・
んだけど、
全く良さが伝わってこない
主人公も薬の売人になってるとか・・・・
ケヴィンとの一件以降、男とも女とも性行為をしてないとか・・・
3年後くらいにもう一度見ようと思うので
日記代わりの記録を残しておく
予想ほど重苦しくない
シティオブゴッドなどのように
貧困から抜け出せずアンタッチャブルに落ちていく
黒人少年の話、かと思っていた。
外れてはいないけれどそこが主題ではなかった。
あくまで愛に飢えながらも愛に不器用になってしまう人々の映画だった。
母親は息子に愛してると言いながら
薬でラリってると罵詈雑言を浴びせる。
唯一親切にしてくれる近所の大好きなおじさんは
少年に負い目の大きい生業である。
はたして自分は存在していいのだろうか?
さらに貧困社会においてナメられるのは=死に
近い意味合いを持つのであろうなかで、
少年はさらにマイノリティであると思春期に自覚する。
唯一心を許した相手も弱さ故に少年を傷つける。
そう、この映画に出てくるのは弱い人間たちなのだ。
強い人間であればどんな環境においても
確固とした姿を見せて少年を導けただろう。
しかし彼らは弱い。
流されてしまう。
そして「俺(あるいは私)のようにはなるな」と忠告する。
それが弱い人間の優しさなのだ。
己を棚に上げてこの子はそうならないでくれるはずだと
勝手に期待やプレッシャーを与える。
久しぶりに連絡してきた幼馴染みでもそうだ。
状況的には幸せであるはずなのに満たされないから連絡した。
でも少年がやってくると「なぜ来た?」
つまり寂しいけども少年には俺と違って
成功していてほしい、と
やはり勝手にそうでいてほしいイメージを抱いている。
少年は常にその期待に応えられず、
物悲しい瞳で俯く。
彼自身も弱い存在だからだ。
なんと切なく悲しく美しい映画なんだろうか。
それにしても、世代が違っても同じ目をした役者をよく
見つけたものだ。
毒親といじめ差別の中で性的マイノリティの一人間が人と触れ合い成長する
薬中のシングルマザーを持つ繊細だが気高い精神性を持った男の話。
作品全体からなにかを伝えようとする力を強く感じる作品だった。
母親やいじめっ子からストレスを溜め込んでいくシャロンがいつ爆発するか緊張感を感じながら見ていた。しかし彼には少ない理解者がおり、その人たちのの触れ合いや思い出を得て彼は彼の父親のような存在だったフアンと同じ薬の売人として生きることとなる。黒人が多数派の社会を映像で見たことが無かったため、そこは新鮮だった。
美しいフライヤー 月に照らされるその3つの時代の顔
1人の黒人少年の成長を3つの時代にわけ、彼の目線から覗く人間社会。
○注意○ネタバレです
⚫︎少年期 リトル
母親はリトルに対し抑圧的で愛情にはムラがある。
生活のためだけではなく薬にも手を染め身を売ることも厭わない。親としてその身勝手さはこどもの自信を育てるはずもない。安らぎがない暮らしの中、常におどおどしているリトルは学校でからかわれ執拗なないじめを受けているのだ。
しかし、はけ口を見出すこともできない性格と年齢と環境ではただただ耐えることに慣れるしかない。
現実の嫌なことをかきけすのはバスタブにためる水の音。
母が男と居る2階をみあげる切ない姿がかわいそうで仕方ない。
ストレスと孤独感は本人も知らないうちに、その小さな身体を埋めつくそうとしている。
救えるのは愛だとしても、そこにそれはない。
しかしリトルの母の行動も社会問題である人種差別や貧困などの悪循環が生み出したもののかけら。
断ち切れなければ、代々、子の世代に影響していくという悲しい現実と手立ての難しさを世界はとうに知っている。
そんなリトルとある日偶然に出会い、助けたのがフアンとテレサ。ふたりは真心をもってリトルに接してくれる唯一の大人となるのだ。家に居場所のない思いをするとき自然とリトルは彼らを頼るようになる。
そして同級生ケビン。
彼はリトルが自分らしく話しができる唯一の友だち。いじめられてるときもさりげなくフォローしてくれる存在だ。
彼ら3人がいなければ、リトルはどうなっていただろうと思う。
そう、人生は誰といつ関わるかだ。
2.青年期 シャロン
相変わらずの母、いじめがエスカレートする学校生活。
彼の性格や身体的特徴、家庭環境、母への噂、母への不信など、思春期に重なるほど悩みは募っていたはずだ。
父のように励ましてくれたフアンの死後も母のようにテレサは見守ってくれて、シャロンの心の安まる相手だ。
ネグレクト的な母だが、リトルがシャロンになつくことには嫉妬心も湧き感情的にシャロンにあたりちらす。テレサにもらった小遣いさえ巻き上げるあきれた母だがどうにもできない。
やるせなさと悲哀でいっぱいのシャロンの心はフアンに言われたあのことばのおかげでぎりぎりの均衡を保っていたのではないか。
「自分の人生を他人に決めさせるな。」
母に閉ざされたリトルのドア。
それを自分でこじあけれるように、生き方を教えたフアン。人を信用せず口数すくなくおびえた上目使いの幼いリトルに自身のかつての姿を重ね、息子のように心配していたのだ。
鬱屈したリトルの成長期にその出会いと存在の重みははかり知れない。
ある晩の浜辺。
シャロンと並び語り合うケビン。
ふと2人が秘めてた感情が月に照らされ露呈される時がきた。しかし束の間の幸せは、ケビンがいじめっ子の権力に負けシャロンを裏切り、傷ついたシャロンが暴れ補導され離ればなれになる運命だった。
3.成人期 ブラック
時は過ぎる。
シャロンがこの間、どう生きていたかは観るものの想像で繋いでいく。
線の細い気弱そうな青年は
恩人フアンとおなじく薬の売人になってあらわれる。
彼がシャロン?と思うほど、すっかりイメージを変えた彼はブラックと呼ばれ、派手な車に乗り、いかにもないでたちに金歯を光らせている。鍛えたあげた身体はひ弱な少年期青年期の彼を捨て去ったのか。生きるために纏う鎧でかためあげた姿は、あの頃の味方、フアンの風貌とそっくりだ。
ブラックに、ひさしぶりに会いたいと母から留守電が入る。とれる電話をとらないブラック。母を許せないブラックのわだかまり度がわかる。そんな折、夜明けにケビンからも電話がありブラックは動揺しつつ故郷に行く気になる。
久々の母はブラックに
「愛が必要なとき、与えなかったから。」と謝る。
母はわかっていた。わかっていてもできなかったということを訣別の状態で聞かされブラックの頬に涙が落ちる。怒りもあったはずが、罪を認めてもらえたことは嬉しかったのだろう。震える母の煙草に火をつけてやり「もういい。」と抱き寄せる。
少年リトルの頃からのやさしさがまだそこにあった。
そのあと、道中の彼は少し肩の荷をおろしたようにみえた。夕暮れの海で黒人のこどもたちが楽しそうにはしゃぐ映像が象徴的に重なる。
ブラックはケビンに会う為、仕事場の飲食店に向かっている。シャツを着替え、髪をとかすブラックのしぐさにケビンに対する配慮を感じる。一方、変わり果てた風貌のブラックをみてケビンは驚きを隠さず、しかも薬の売人をしていると知りショックを受けている。だが話をしてみれば心の中に変わりはない。ケビンはジュークボックスで恋人の帰りを喜ぶ唄を流す。あの日以来、一途にケビンを思っていたブラックと結婚後子供をもうけたがすでに家族とは別れて暮らしているケビンのブラックへの気持ちがまたここで交わった。
ケビンはあの浜辺の近くに住んでいた。
繰り返すさざなみの音は記憶はよみがえらせただろう。ようやく安堵に包まれ寄り添えた2人。
ラストシーン、
月灯に照らされる波打ち際、振り返るリトル。
今、素直に愛を求めるブラックは
どんなに強がろうがこのリトルと何ら変わらないことを傍のケビンが誰よりも知っている。
人の物差しに惑わされることなく、自分の心をみつめて。
愛をもってすべてに向き合って。
人種も貧困も薬もいじめも性的マイノリティも…
みんな、みんな
いいわるいを簡単に決めつけちゃいけないよ。
ぼくは知っているよ。
決めつけられるものなんてなにもないんだ。
無言のリトルのおだやかな笑み。
語りかけてくるのはそんなことだろうか。
友情と愛情とエクスタシーと
とにかく映像が美しい。曲が素晴らしい。演出がよい。総合的にかなりハイレベルの映画作品です。
黒人問題、貧困、母子家庭、ドラッグ、いじめ、暴力、同性愛など、てんこ盛りの内容なのですが、
物語構造としては、かなりシンプルな、ラブストーリーなんですね。
貧しい家庭に生まれ、周囲からいじめられていた主人公が、幼馴染との友情を育み、
成長と共に愛情へと変化し、一夜の甘い思い出と、離別する理由となった苦い思いを胸に
長く離れ離れになっていた、その恋人と再会する・・
ね、なんて素敵なラブストーリーでしょう。
ただ、舞台が黒人社会であり、取り扱いが同性愛ですので、表面的に、従来の価値観からは、なかなか受容れ難い作品なのですが、
これが、登場人物が日本人や白人で、幼馴染が女の子なのだとしたら、
まったくありきたりな、よくある恋愛映画なのですね。
そこがこの映画が高く評価され、価値観のカウンター文化の角地に立っている、現代的なテーマを浮かび上がらせてくれます。
(20年前なら「なんか黒人の同性愛の気持ち悪い映画」で切り捨てられていたことでしょう)
LGBTQ、フェミニズム、ポリコレなど従来の弱者への配慮が昨今の映画作品に過度に組み込まれ、
「もういいよ」「作品を壊すな」という感想が漏れ聞こえるご時世ですが、
この時代の波がもう少し、社会全体に浸透し、人類の価値観の変換がじゅうぶんに成されるまでは、
このカウンターが続くことは、時代の必然として、受け容れてゆく必要があるのでしょう。
賛否ある、その議論とモヤモヤ自体が、必要なプロセスとして、取り扱われ、描かれることが大切で、
自覚なき強者から、自覚なき弱者への理解と寛容が社会へ根付くには、もう少し掛かる気がしますね。
どうですか、この映画を見て、甘美なラブストーリーと捉えることができますでしょうか。
浜辺でのラブシーンで、あまりの官能と、甘酸っぱい性の目覚めに、ドキドキしませんか?
恋人に殴られる絶望と、痛みが、どこかエクスタシーに繋がる感覚が、しませんか?(性癖には個人差あります)
その甘く苦い思い出を胸に、何年も相手を想い続ける純愛に、とても素敵な純粋なものを感じませんか?
とても美しい映画だと思います。
この映画を美しいと感じられるように成長した、自分のなかの審美眼を信じたいですね。
(いずれまたこの価値観も変わってゆくことでしょうが、それはまた、別のお話・・)
2016年制作の時代に即したUp-to-dateな被差別者主体の映画だが、今見るとありきたりとも思える
バリー・ジェンキンス監督による2016年製作のアメリカ映画。
原題:Moonlight、配給:ファントム・フィルム。
筋肉もりもりの黒人男性トレバンテ・ローズが、あの弱そうなリトルの大人になった姿であることを理解するのに少々時間を要した。そのマッチョな彼が、ずっと一途に学生時代の友
人に想いを抱いている純情さのギャップが、なかなかのインパクト有り。
ゲイでいじめられっ子の黒人学生が、いじめっ子に意を決して教室で椅子を振り上げて暴力を振うシーンに、一瞬カタルシスを覚えた。しかし、その結果として犯罪人となり、その後麻薬売人になってしまうというのが、マイアミ黒人社会の救いの無さを示している様で悲しかった。
自伝的要素も強いらしいが、原作者タレル・アルビン・マクレイニーは1980年生まれのマイアミ出身の黒人で、名門イェール大学卒で、劇作家として活躍により2013年にマッカーサー基金「天才賞」奨学金受給とか。仕事的には、この事実に近いとこで物語にして欲しかった気もした。
2016年製作ということを考えると、時代に即したUp-to-dateな被差別者主体の映画であったということは理解出来きるし、結果的にアカデミー作品賞までゲットした製作総指揮ブラッド・ピットらの目の付け所に感心させられた。ただ、今の時点で見ると、インテリ受けを狙ったありきたりの映画の様に自分は感じてしまった。
とは言え、麻薬に溺れた母ナオミ・ハリスの愛情を知らずに育った主人公、彼の少年時代を演じたアレックス・ヒバートの全ての人間に不信感を持った様な目つき、その彼と息子の様に接する麻薬売人マハーシャラ・ハリの大らかさ・優しさを見せる演技は、かなり心に突き刺さった。
製作アデル・ロマンスキー 、デデ・ガードナー 、ジェレミー・クライナー。製作総指揮ブラッド・ピット、サラ・エスバーグ、タレル・アルビン・マクレイニー。
原案タレル・アルビン・マクレイニー 未発表脚本「In Moonlight Black Boys Look Blue」、脚本バリー・ジェンキンス。
撮影ジェームズ・ラクストン、美術ハンナ・ビークラー、衣装キャロライン・エスリン=シェイファー、編集ナット・サンダース、ジョイ・マクミロン、音楽ニコラス・ブリテル。
出演トレバンテ・ローズ(シャロン(ブラック))、アンドレ・ホランド(ケヴィン)、
ジャネール・モネ(イテレサ)、アシュトン・サンダース(10代のシャロン)、
ジャレル・ジェローム(10代のケヴィン)、アレックス・ヒバート(シャロン(リトル))、マハーシャラ・アリ(フアン)、ナオミ・ハリス(ポーラ、007 スカイフォール等)。
タレル・アルヴィン・マクレイニーの自叙伝だったんだ?!
フロリダの、リバティー・シティーの黒人が多い共同体の中で、シャーロンが大人に成長するまでの過渡期を表している。 そこで、最も心に響くのは麻薬ディーラーのフアン夫妻の存在だ。シャーロンはこのふたりに少しずつ心を開いていく。本当に少しずつ。それも、三部作の第二、シャーロンの章で彼は質問ができるようになる。シャーロンは元々内気なのか、家庭環境や学校でいじめられたりホモ扱いされることにより、何も言わなくなったのかわからない。多分両方だろう。家庭環境は母親、ポーラ(初めは看護師のようだ)の都合により、自分の家が娼館になっているようで、シャーロンは家にもいられない。母親は麻薬に溺れている。その母親も、血の繋がりが唯一の武器で、それを盾に、息子、シャーロンをとどめておきたいように思える。学校では、Faggotだと言われ肉体的にいじめに遭うが、家庭では精神的にいじめ抜かれている。これだけのDVを受けて、人間が機能するとは思えない!?
母親は麻薬ディーラーのフアン夫妻と付き合うことを嫌う。それは、面倒が見られなくても『自分の血をわけた子』という発想で、息子を自分の物として考えているから、シャーロンの感情なんてどうでもいい。人格否定している。 これは愛とは言えないと私は思う。ご都合主義である。
学校では、ケヴィンを除いて誰一人とも口を聞かない。周りの生徒はいつ自分が標的になるかしれないと思い、シャーロンに対するいじめを放任しているようだ。高校時代はケヴィンまでがいじめの大将の言うことを聞いている。ケヴィンに殴られても何度も起き上がるシャーロンを『起き上がるな!』と言って叩きのめす。ケヴィンは自分がいじめの標的になるのを恐れてるから、シャーロンのために立ち上がれない。シャーロンは殴られて倒れていればいいものを何度も立ち上がって、まるでケヴィンへ忠誠を誓うようだ。
シャーロンはファンにはやっと打ち解けてきて(それでも、多くを語らないから、心を読むことが難しかった)、泳ぎを教えてもらったり、「入口に背を向けて座るな、全部見通せるところに座れ」と銃、麻薬社会に住む知恵を教わる。ファンははっきりしないが、シャーロンと同じような環境に育ったようで、麻薬ディーラーであっても心の中は父親になってあげているようだ。「Faggotってなに? 麻薬を売っているの」という質問にもファンは嘘を言わなく、考えながらゆっくり正直に答える。いいねえ。シャーロンの母親も間接的には自分の売った麻薬を使っているのに、母親に説教しにいく。そして、ファンは『ムーンライトの中で、黒い少年はブルーに見える』という話をシャーロンに伝える。私個人の解釈は「シャーロンの考えるステレオ・タイプの黒人だけでなく、それ以外の黒人もいる」という意味かな? 自分は自分でいいよという意味だと思った。しかし、タレル・アルヴィン・マクレイニーの "In Moonlight Black Boys Look Blue" からきているフレーズなんだが、修辞的で理解しにくいフレーズだね。実はわからない。 麻薬ディーラーのフアン夫妻のおかげで、シャーロンは生き方を学んだし、家庭になかった暖かさも味わえたと思うが、育っている時から授かっていない愛情をどう受け止めていってるのかシャーロンの気持ちが理解しにくかった。 でも、ベットメーキングを教えてもらった時、『いつでもきていいよ』と言われた時など、どこか身を寄せられるところが存在したのだ。
三部作の第三、そして、車のフロントには王様の冠、歯には金のブレイスを入れ、肉体を鍛え、金のネックレス、ブレイスレットと金があり、シャーロンはパワーもあるところを見せようとしている。内面の弱さを外見でカバーして強く見せようとしている。心の中はトラウマで母親が夢にまで出る。でも、アトランタに引っ越ししたシャーロンがわざわざマイアミまで、母親に会いに来て母親を許すところには、驚いた。許せるのには驚いた。シャーロンは許すことにより、トラウマがなくなったに違いないと思う。許すことはパワフルだからね。
ケヴィンは電話で謝るが、このシーンでシャーロンがケヴィンのことをずうっと思っていたことがよくわかる。ケヴィンとの再会のシーンは圧巻で、ケヴィンの饒舌さ、それに比べて、シャーロンの寡黙さ。子供の頃の二人に戻ったようだ。またケヴィンのアパートも高校生の頃、二人が心を合わせた海辺が見えるように映し出されている。ケヴィンは自分の過去の行為を、自分の思うように行動できず、価値がなかったと。 I was not never really myself(?)と。でも、シャーロンは今はどうなのと聞く。切ない気持ち。だって、ケヴィンは新しい世界を家族と共に、歩んでいるんだよ。子供もいるし.......でも、シャーロンが返す言葉は、You are the only man that's ever touch me!! 参った!
You are the only one!!と。一途に思う気持ちに泣けたよ。終わり方がいいねえ。ただ、わかるのはシャーロンの答えにケヴィンが微笑んだだけ。
私は勝手にバリー・ジェンキンスの自叙伝だと思った。出身地も同じで、母親がドラッグ漬けだったと読んだことがあったから。でも、これはタレルの個人的な経験だとわかった。
月見れば 千々に物こそ悲しけれ わが身一つの 秋にはあらねど。
自身のアイデンティティーの在り方に悩む青年、シャロンの半生を少年期、青年期、成人期の3つのパートに分けて描くヒューマン・ドラマ&ラヴ・ストーリー。
少年期のシャロンにとってメンター的な存在であった麻薬ディーラー、フアンを演じたのは『ベンジャミン・バトン』『ハンガー・ゲーム FINAL』のマハーシャラ・アリ。本作でオスカー(助演男優賞)を獲得している。
製作総指揮を務めたのは『セブン』『オーシャンズ』シリーズの、名優にして名プロデューサーのブラッド・ピット。
👑受賞歴👑
・第89回 アカデミー賞…作品賞、脚色賞、助演男優賞の3冠を達成‼️
・第74回 ゴールデングローブ賞…作品賞(ドラマ部門)!
・第42回 ロサンゼルス映画批評家協会賞…作品賞、撮影賞などを受賞❗️
・第12回 オースティン映画批評家協会賞…作品賞を受賞!
・第32回 インディペンデント・スピリット賞…作品賞、脚本賞、ロバート・アルトマン賞(アンサンブル・キャスト賞)などを受賞‼️
LGBTQを扱ったブラック・ムービーかつオスカーの作品賞を獲得しているということから、どうせ重たい映画なんだろうと思ってなかなか食指が動かなかったのだが、いざ鑑賞してみると事前のイメージと大きく違った!
確かに重々しく苦しい作品ではある。
しかし、圧倒的に美しい映像と瑞々しい恋愛描写、そして誰もが身につまされるであろう普遍的な物語がグッと胸に迫ってくる。
映画の細部に渡るまで気が張られており、とにかく上品で美しい。
最高級の絵画を鑑賞しているような気分…😌
黒人の肌は月明かりの下では「ブルー」に見える。
「ブルー」というのがこの映画のキーワード。
憂鬱な気分のことを「ブルー」と言い表すことがあるが、これはもともと黒人奴隷の言葉だったらしい。
雨が降ると過酷な労働から一時的に解放される。しかし、雨が上がり青空が戻れば、また強制労働を課せられる。
だから「憂鬱」のことを「ブルー」というようになったそう。
これはあくまでも一つの説だが、黒人の苦しみを歌い上げるブルース(blues)という音楽ジャンルもあるのだから、やはり「ブルー」と黒人の間には大きな結びつきがあるのだろう。
「ブルー」とは悲惨な黒人社会の比喩である。
しかし、その「ブルー」こそが黒人をより美しいものへと昇華させる。
一寸先も見えない闇夜。そこに射す一筋の月光。その明かりに身を晒すことにより得られる「ブルー」こそが人間の尊厳であり美しさなのである。
外部からの圧力に屈し、逃げ出し、廃屋の中に閉じこもっていてはいつまでも「ブラック」なまま。
だからこそ、「ブラック」の愛称を持つシャロンが月光の下で振り返り「ブルー」に染まるあのラストシーンが胸を打つのである。
ふーん、それじゃ黒人じゃない人間には関係ない映画なのかな?
もちろんそんなことはない。月明かりは白だろうが黄色だろうが茶色だろうが、全ての色を美しく浮かび上がらせてくれる。
黒人映画だとか、LGBTQ映画だとか、そんなものを超越する普遍性がこの映画にはあるし、人種や性的指向を超越する尊さが人間には備わっていることをこの映画は教えてくれる。
美しくあろうとするものは美しいのだ。
この映画はまるで夜の浜辺に打ち寄せる波のよう。
定期的に打ち寄せる波の音は心地よいのだが、ついついウトウトしてしまう…😪
娯楽映画ではないし、基本的には緩やかな速度で進んでゆく作品なのでまぁ退屈だと感じるところもありますね。
あれ、そこは描かずにスルーするんだ!?みたいなところも多く、全13話のTVドラマの総集編みたいだな、と思ったりもした。
今の季節柄もあってか、この映画を鑑賞して大江千里の一首「月見れば 千々に物こそ悲しけれ わが身一つの 秋にはあらねど」が頭に浮かんだ。
1000年以上前の日本人も、現代のアフリカン・アメリカンも、月を見れば同じような思いを抱くんだなぁ、ということがなんとも不思議な気持ちにさせてくれた。
※この映画がR15指定なのが納得いかん。直接的な性描写もほぼないし、暴力描写も薄い。
これこそ小学生や中学生が、講堂で観るべき映画だろ!
最近イジメを苦にした子供による自殺のニュースが目に付き、陰鬱な気持ちにさせられることが多いが、この映画を観ればイジメをしようなんて気持ちもぶっ飛ぶだろうに…。
これはティーンエイジャーこそ観るべき映画だよー🎬
言葉少なに多くを語る
ゲイの話だが、とてもストイックな恋愛感情を
言葉少なに多くを語る形式で、
観ている側がそれぞれの
思い入れで補完しつつ観ることが出来る
リトル→シャロン→ブラックと3つのパートに分かれ
呼び名が変わっていく毎にシャロンが歳を取り
体と心境の大きな変化があるのがわかりやすかった
何故か自分に優しかった麻薬売人の元締めフアンに憧れ
バンダナ真似して元締めになってマッチョに体を鍛えても
心の芯はピュアな少年のまま
子供時代のケヴィンとの友情も、
痛々しくも良かったけれどいじめっ子のせいで決裂、
大人になって再会後、微妙な心のニュアンスを
伝えながら、
「おまえ以外、(自分の体に誰も)触れていない」
ケヴィンの肩にもたれかかるシャロンの、
やっと居場所を見つけたような
安心しきった寝顔にほっとした
テレサとの、ほどよく距離感のある関係や
シャロンが泳ぎを覚えるシーンとか
麻薬中毒だった母との気持ちの変遷や
印象的な場面が多く心に沁みた
A24らしい作品
アカデミー作品賞受賞も納得のクオリティー
リトルでありシャロンでありブラック
シャロンの孤独が沁みる、、
母は薬物依存でその売人に助けてもらうのも複雑で切なかった
そのフアンが亡くなって孤独が加速したように思えた
ケヴィンは優しくてノリも良くて仲間が多い
友情だったし、遊びの延長だったのかもしれないけど
気弱で控えめで優しいシャロンにとっては
これ以上ない存在になってしまう
ラスト全てが変わってしまった
リトルでありシャロンでありブラックの全てを
包んであげたケヴィンの優しさと償いに救われた
3人が演じたシャロンの心には
いつもリトルがいたという事が分かる
月明かりに照らされたカットがよかった
このポスターもとてもいい、、
フアンもママもケヴィンも罪すぎるものの
シャロンを救ってくれたのはその人たちでもある
皮肉で切ないシャロンの数奇なお話
「しあわせの隠れ場所」と比較してしまった
アカデミー賞作品賞を受賞したと言うだけで、内容を全く知らずに見た作品で、ポスターからクンタキンテを連想して、奴隷の物語かなと思ったが全く違っていた。
サクセスストーリーの「しあわせの隠れ場所」と子供の頃の環境が似ているのに、その後の人生は大きく異なってしまった。
子供の頃いじめに会い、シングルマザーの母親は麻薬中毒で売春もしている、大人になった主人公も結局麻薬の売人になってしまったといった救いのない内容であった。そんな社会の底辺に生きる人たちの中にも彼を大切に思ってくれる人たちがいたということか。
最初に子供の頃のリトルを大事にしてくれた麻薬の売人が、実は麻薬中毒の母親が彼から麻薬を買っていたという事実を知った時のリトルの気持ちを思うと、切なすぎてたまらなくなった。
予想外
シャロンとケヴィンは砂浜で、まさかの関係になりましたね。あっと声が出ました・・
ブロークバック・マウンテンなどのゲイをテーマとした映画を観て、
人を愛する気持ちに性別は関係ない事は理解出来ました。
ただ、個人的には共感度ゼロですね。
見たことあるようなヒューマン映画でした。
主人公の少年が大人になるまでの人生を描いた映画です。
自分がゲイであることを周りに隠し、周りの人たちと違うことに悩みを抱えながら成長します。
好意を抱いた相手に自分の本音を打ち明けるべきか悩む場面が多くて印象的でした。
割とヒューマン映画でテーマになりがちな、ドラッグ、黒人社会、同性愛などに触れていて、フツーの映画だったかなと思います。
タイトルなし
スラム街に住み、ドラッグ中毒の母親に育児放棄され、学校でもイジメに合い、ゲイでもあるマイノリティの中のマイノリティである少年の青年期、成長期を描いており、共感はできないが、LGBTを声高に叫ぶわけではなく、淡々と描いており、ストーリーとしては盛り上がりはない。いじめられっ子の少年が頼れるのは麻薬ディーラー夫妻と唯一話しかけれてくれる親友。その親友も仲間からのイジメが怖いため、親友からもイジメを受けることになるが、イジメっ子の張本人を椅子で殴った事で少年院に。そこから体格も筋骨隆々と鍛え上げ、結局麻薬ディーラーになってしまう。しかし、親友への愛は変わっておらず、ラスト親友に頭を撫でてもらい、微笑むシーンは余韻が残る。
自分には合わない
リバイバル上映で鑑賞
映像と音楽が素晴らしいのは、わかるんだけど、自分には全くあわなかった。唯一グッときたのはいじめっ子のレゲエ野郎をイスで叩きのめしたシーン。
ヤク中の母親を持つ少年が、売人と仲良くなり、結局は売人になってしまうってストーリーに感情移入するのは難しいね。
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