「自動機械と」散歩する侵略者 さわみんさんの映画レビュー(感想・評価)
自動機械と
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概念言語を獲得してから1万年。言葉の自動機械化となった現代人の多くは損得だけで内発性なんてないわけだ。そこに侵略者が催眠療法的に変性意識をコントロールされ概念を奪われる。奪われるということは、ゼロになることで、その概念を獲得する以前に戻るということだ。離陸前とおんなじ着地点に戻る。言語を獲得したが故に空洞化した表層の記号にとらわれる。「家族」「自分」「所有」「仕事」。最期に「愛」がなくなる。なくした者が言語を獲得するする前の子供に戻り「何も知らないが故の自由」に振る舞う姿。そこで問われるのは、概念言語をインストールする前の「なにも知らない状態」を幸せだと感じるのか。あるいは言語をインストールして、言葉の自動機械=損得勘定でしか動けなかったが、それに自覚して自己受容して、メタ認知的に自分を修正して、自発性から内発性に動く、それを幸せに感じることができるのかどうか。もうひとつの見所は最後の「愛」の概念の消失について。
キリスト的な言葉で定義した愛ではなく、内側からわき上がる愛だから当初の長澤まさみの考えた愛のイメージは「内発的な愛」であり、消えることはなかった。しかし、時が経つとなくしてしまった。侵略者が獲得した愛は継続的であった。
時間が経つと内発的な愛はなくなってしまう。常に愛のための訓練作法が必要であるということだろうか。非常に気付きが多い映画。ノアハラリさんのサピエンス、フロイトラカン的な言語解釈とその作用副作用の知識がなければ他のレビューになってしまう。社会学者宮台さんはどう観るのか。
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