「それでも愛は」散歩する侵略者 小二郎さんの映画レビュー(感想・評価)
それでも愛は
黒澤清監督の近作は、「夫婦愛」がその底流に描かれている。
『岸辺の旅』では、死んで幽霊となった夫を愛する妻。
『クリーピー』では、たとえ夫が超変人だとしても愛してしまう妻。
『ダゲレオタイプの女』では、自分が死んで幽霊になっても恋人を愛し続ける女(この作は夫婦設定ではないが)。
死すらも、女たちから愛を奪えない。それが切なく怖い。ラブストーリーでホラーな映画だった。
本作『散歩する侵略者』も、
たとえ夫が宇宙人で侵略者だったとしても、愛し続ける妻の物語だった。
-----
『散歩する侵略者』では、
侵略者たちが地球にやってきて、次々と人間の「概念」を奪っていく。
奪われていく「概念」…「他者と自己の区別」「所有」「仕事への責任感」などなど。
奪われると書くと、何か困ったことが起きそうだが、案外そうでもない。
「所有」の概念を奪われた満島などは、むしろイキイキし始め、「概念の消失」=解放・救済なのではなかろうか?とも思う。
「他者と自己の区別」を奪われた児嶋に至っては、そもそもこの人、そんな概念持ってたの?最初から必要なかったのでは?とすら思う。
侵略者の側も、奪ったからといって大して嬉しそうでもないし彼らの何かが変わるわけでもない。
日々固執し大切だと思っていた事(概念)が、さして必要でも重要でもなかった…。
価値観が入り乱れ混迷する現代で、奪われて困るものなどあるのか?奪う意味があるものなどあるのか?本当に大切なものなんてあるのか?侵略者たちは、その事を問うているようにも思える。
-----
主人公の女性は、夫が何だがおかしい、夫が侵略者だと気づいても、何故だが夫を愛し続けてしまう。
(宇宙人ということは差し引いても、かなりポンコツな夫なんて愛さなくていいんじゃない?と思うが、愛に理由や分別は無いのだろう。)
そして侵略者が取ろうとしても、「愛」という概念だけは女性の中に残ってしまう。
果たしてそれが彼女にとって幸せだったかは判らない。
(満島の例が「概念の消失」=解放・救済だとするならば、主人公に救済は訪れない。)
それでも愛は残る。
-----
原作、前川知大。
(ストーリーの構成がどうのこうのというよりも)このスレた世の中で、前川知大氏が、臆面もなく「愛」の物語を描いたことに、何かしらの希望を感じる。
それを、黒沢清氏があえて若いキャストを起用して映画化したことにも、希望のようなものを感じる。
「混迷する現代で、本当に大切なものなんてあるのか?奪うor奪われる事に意味があるものなどあるのか?」が侵略者(演じたのは若い高杉真宙・恒松祐里)の問いだったとするならば。
侵略者=若者への答えがこの映画にはある。
-----
追記1:
舞台版『散歩する侵略者』も観た。前川氏の舞台は、ミニマムかつシンプルで、描写を省略し、その先を観客に想像させるのが非常に上手い。
それの映画化となると、舞台では省略されたシーンを視覚的映像的に表現しなくてはならない。これは、とても大変なことだし、果たして映像化に向いた話なのか?と映画を見る前は思っていた。
舞台ではセリフのみで語られる事象(例えば血まみれの部屋とか)が、映画内では嬉々として視覚化映像化されている。あえて「視せる」事にこだわった映画だなあと思った。特に恒松祐里のアクションシーンなどは、ストーリー上の必要よりも、「視せたいから撮った」感じすらする。
(黒沢監督『リアル』でも、匂わす程度で十分な筈のネッシーをあえてガッツリ視覚化してたしなあ。)
黒沢氏の映画は、登場人物の心情が変化するとき風が吹く。風は目に見えない。だから各映画で風車が登場し、風を視覚化する。
「目には見えないものを視覚化する」に固執する黒沢氏だからこそ、ミニマムな舞台の映画化、非常に面白かった。
追記2:
松田龍平氏の素なのか演技なのか判別できない得体の知れなさが素晴らしかった。あと脇役の東出さんも面白い。
追記3:
長谷川博己さんの切ないコメディ感も良かった。
長谷川さんのインタビュー「黒沢清映画の衝撃」by文學界10月号がメチャクチャ面白い。長谷川さん、映画オタクをはるかに超えた怒涛の映画マニアだったんだなあ。知らんかった。