パターソンのレビュー・感想・評価
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23 PATERSON
パターソンという街のバス運転手、パターソン。
彼は妻と愛犬(マーヴィン)と慎ましやかに暮らしている。
詩を書きながら。
彼の1週間。
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私が好きだったのは水曜日の朝の妻。
お昼のお弁当を食べるシーン。
「ムーンライズ・キングダム」のサムとルーシーがカメオ出演してるところ。
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詩を翻訳することが「レインコートを着てシャワーを浴びる」ような振る舞いだとしたら、映画や他人の人生について想うことはどうなってしまうのだろう。
鑑賞直後より数時間後、一晩後にじわじわくる幸福感。
タイトルの通り、後から満足感、幸福感が湧き出てくる映画でした。
パターソンに住むパターソンの一週間の話。
バスのドライバーをしながら詩を書くことを趣味としている。
決められたルーティンで動きながらも毎日は少しずつ色が違う。
そんな日々がなんだかとても眩しい。
Excuse me,'Uh-huh'
好きな雰囲気ですが
前の席の男性の頭がちょうど字幕にかぶり、見えなくて終始辛かった😓😓😓
映画自体の雰囲気は好きです。ただ、声を出して笑っている人が居たけど、ん???って感じ。感覚の違い?心の中でクスッとなる程度。なんだかなー。モヤっとする。
映画『パターソン』評
☆映画『パターソン』(2016年アメリカ/ジム・ジャームッシュ監督作品)評
-人はこの映画に、小津安二郎作品と成瀬巳喜男作品、そしてエリック・ロメール作品からの痕跡を確認するだろう。そこには反復が生む差異が、日常的空間が歪曲する瞬間に生起する閃きにも似た記号の飽和状態を生成し、それをシステムからいかに逸脱させるかに懸けたジム・ジャームッシュ監督独自の映画文体を知悉する時、観る者に僥倖にも似た歓喜の歌としての詩作りを試行する。それはパターソンという人物の行動形態が崩れる瞬間に喚起される事件の根幹を露呈させる事で、監督が創造するワールドワイドな思考回路を映像に転化する際に起こる、まさに映画のフィクショナルな現実への置換作業と共に、パターソン夫婦の再生への物語を他者的視点から探る事でジャームッシュ夫妻の相貌をも透過する事実を知るだろう-
パターソンは町の名であり、バス運転手のそれでもある素人詩人の男の一週間を、ジム・ジャームッシュ監督は反復される記号の飽和が生み出す差異を感性で捉える事で、それが一編の叙事詩たりうる事を見事に証明したこれは佳品に値しよう。その為に監督は、パターソンの日常的空間に日毎に歪みを獲得させる際、記号体系として彼のデビュー作以降暫し固執したモノクロ映画が孕む光と影の操作を聡明にも顕示する映画のテクスト化に努める。
そこには、エリック・ロメール監督作品が刻む日常空間のリズム化と小津安二郎監督作品が露呈する記号体系の風土、そして成瀬巳喜男監督作品の保つバスや車に代表される乗り物や路地といった美的装置が、混然一体となり映画本体を活性化させるテクストの集積回路を稼動させる時、これはパターソンという狭い街の歴史の敷衍ともなると謂っても過言ではないであろう。
それは不特定多数のパターソンを意識させる複数性を収束するパラダイムを彼に担わせる作業が、このパターソンという街で展開されるドラマでもある事で証明されよう。パターソンとは、まさにテクスト的素材の人物としても描かれているのだ。
それでは、このテクストの充満した映画に於けるパターソンが好む記号体系との戯れを詳細に検討してみよう。
★只ひたすら影を慕うパターソンと、「光陰」という名の歴史を遡行する神話性について
冒頭の真俯瞰で捉えられたベッド上のパターソン夫婦の寝姿に、朝日と窓が形成する影との峻別さが醸すのは、パターソンが常にこの影に眠る妻ローラ(或はラウラ)とのキッスで覚醒を促す彼が、日中は勿論、夜においてもひたすら影や闇を慕う事に終始する仕種に溢れている事である。そこでは朝に始まり夜に終わるという一日の反復性に労働と暇という時間割が存在し、それが休日の土・日を除く五日間の繰り返しにより成立する人生の集約であるかのように、この映画の記号体系が飽和してゆく過程が実に繊細に描かれるのだ。
この映画では、パターソンは常に影との共存共栄に生きる。それが自慢のブルドッグの愛犬マーヴィンの散歩中に、日頃通う夜のバーで出会うカウント・ベイシー似のマスターや、やがて破綻するロミオとジュリエットに祭り上げられる悲恋の男女の黒人の肌の色や、或いはその映画内映画としてパターソン夫婦が映画館という暗闇の中で週末に観る事になるホラー喜劇『アボット・コステロの凸凹フランケンシュタインの巻』のモノクロ映像等の陰的色彩への傾倒に端的に顕れていよう。
この反動が、彼をして詩的世界へと誘う。そこでは影とは反転する真っ白なノートをペン字により黒に近く染め上げる事で、彼の影的嗜好の表象色としてこのカラー映画で際立つのだ。このエクリチュールは映画のエクリチュールとしても君臨しており、彼がバスの運転手という影の存在の職業に従事している事からも明らかであろう。
更にパターソンが頻繁に遭遇する双子には、カインとアベルの神話の影が常に付き纏う。そこには次世代への継承行為と、対照的な人間関係というパターソンに関わる存在意義が透過できよう。詩人パターソンが、帰宅途中で遭遇する双子の姉妹の内の詩人志望の少女の雨に関する詩に感銘を受ける時、そこに自分が書いている詩との近似性を認めつつも、その詩に畏敬の念を抱くのも、素人としての彼の自己嫌悪と共に次代への継承の理念が隠されている。
それは、映画の後半に於ける黒人青年と日本人の詩人との出会いと別離の寸劇にも顕れていよう。そしてそこでは、継承というよりも対照的な位置にいる人間関係が構築されている。前者は失恋した黒人青年と夫婦仲睦まじい白人のパターソンとの友情の破綻であり、後者ではパターソンに代表される西洋人と東洋人の詩の見解が、詩の翻訳に関する齟齬をきたす関係から生まれるお互いの差異の露呈にあろう。この一期一会の出会いと別れは、この映画の根幹に関わる極めて重要なファクターの一つである。それは仮想の双子的交錯としての友情関係の記号化に勤しむのだ。これら仮想の双子の関係性を保つ事で、映画に日常的空間とは異質な擬似性を歪みとして認識するに値する記号の飽和状態を生むのだ。
双子の意義とは擬似に接近するに連れて、「光陰」という名の歴史観を遡行させる神話作用の高まりを植え付けるアイデンティティの喪失にある。そこでは模倣する際に必然的に発生される差異が齎す襞の生成が、継承の理念であり且つ対照的位置の確認を助長させるのだ。
★日常的空間に於ける唯物史観が円形という形象が催す相違性と、反映を空虚とする「鏡」の無償化に還元する作用について
ジム・ジャームッシュ監督が道を曲がるバスによる速度に纏わる四次元的労働の原動力として、タイヤやハンドルに代表される運動性に溢れる円形のフォルマリストに徹する時、人はそこに唯物史観に則った法則がバスという乗り物のメカニズムに発する事を事象として理解するだろう。
それはアナログの腕時計の針が普段よりも速く回転する際のイマージュ映像が、タイヤやハンドルの日常性と一線を画す非日常と峻別される時間の概念を、労働する円形とすれ違う相違性に纏わる事件として生起するだろう。金曜日に起こるバスのアクシデントは、まさにこの日常的空間での労働を停止させるに相応しい非日常の事件の現場として君臨する事で、映画の虚構性を高揚させるに足る事件と謂ってもよいであろう。そこでは、停滞と逡巡という速度と運動性とは対極にある非日常性が無闇にも露となるのだ。
その停滞と逡巡が記号体系として編まれるのが、「鏡」の存在である。ここではその中の事物の不動が、この映画の主題でもある事象の集積回路の映像化に貢献する際に、夜と闇に相応しいオフの時間が次第に遅延される事で、「ミラー」=「鏡」という名のバーのビールの入ったジョッキや、妻の自家製のパイが
静止した円形のフォルムに収まる姿が露呈される。ここに「鏡」がその静止という記号に介入する時、そこには不動性溢れる空虚な事物しか映されぬ停滞と逡巡の概念が頭をもたげるのだ。
それは無償性を醸す事で映像に何ら寄与しないかに思えて、実はこの映画のもう一つの主題である日常的空間の維持が催す映画の諦念が、機械文明の原理から来る事を示唆する。その証拠に詩人としてのパターソンが固執する落ちる滝や、空中狭しと飛び回る鳥の映像は、自然体であればあるほど原理主義に則る詩作りと、この映画のパターソン夫婦のポジティブな側面に貢献してはいまいか!
★夫婦の紐帯を強固にする詩のノートと、この二人を監視する他者の視点が暗喩する悲劇と喜劇の相克について
この些か変転を欠いたパターソン夫婦にポジティブな方向を促すのが、パターソンが書き付ける詩のノートが愛犬マーヴィンによって夫婦の留守中に、恰もシュレッダーで砕かれたかのようにてんでばらばらにかみ砕かれる不慮の事件によるのも、先述の襞の生成には打ってつけの出来事であろう。それは一見悲劇に思えて、実はこの愛犬の仕業にしては荒唐無稽とも謂える大胆な喜劇性を帯びるのだ。
パターソン自身にとってその後に出会う日本人から白紙のノートを贈与される逸話には、同じ詩人としての自負と共にパターソンにとってはそのノートに日本人の詩が書き付けてあると理解した期待感が削がれる事で、逆にユーモアを醸す手立てとなる齟齬感をきたす時、この映画の主題が夫婦に代表されるコミュニケーションの成立とその強固さへの希求を意味する事が成就するグローバルな視線の装填だと気付くのだ。
そこでは夫婦の紐帯を強める二冊のノートの存在意義が、片や愛犬により崩壊されるという実にシニカルな喜劇と、片や日本人から別離の品として贈られるという悲劇の中間地帯に属する記号として偏在する事にあろう。
それは白紙のノートというエクリチュールの必需品を、撮影未満のフィルムという映像のエクリチュールに収める矩形が、この映画のもう一つの主題としてパターソンの寝台の脇に置かれた古い写真とバーの壁に貼られた偉人写真が、アメリカの歴史をも包含する記号体系を成す所に着目したい。
このクリント・イーストウッド監督が自らの記号体系に取り込んだ写真という矩形への偏愛が、喜劇と悲劇を包み込むアメリカの国民性のパラダイムとして、このパターソン夫婦が担う役割に繋がると謂っても過言ではないであろう。このニ冊のノートは、確かにこの夫婦の絆の強度を高めたに違いない。
そしてラストのエンド・ロールにジム・ジャームッシュ監督の盟友であり、良き伴侶として君臨する本妻サラ・ドライバーの名をスクリプトの項目に確認できた時、筆者の幸福感が窮まり不覚にも涙を禁じ得なかったのも、彼等までもがこのパターソン夫婦をテクスト化せしめ、パラダイムの対象として無意識に模倣したかのような錯覚を抱かせる。ここには、「鶏が先か、卵が先か」という命題が理不尽にも確認できよう。
この映画のパターソン夫婦は、まさにアメリカだけでなくワールドワイドな視点に立った鳥瞰図的視座としての映像に立脚している。それはパターソン夫婦二人をベッド上にしての真俯瞰撮影というアングルに収める事で世界が注視するパラダイムとして、ファースト・シーンに同じ月曜日の朝が再び訪れる事からも、反復が齎す差異性をパターソン夫婦がこの一週間で獲得し喪失もした悲劇と喜劇の相克の記号体系にあると認識する。と同時に、この記号体系からも逸脱し再生してゆく夫婦という家族形態の新しい姿が期待できるのだ。
それがパターソンの詩集と日本人から寄贈された白紙のノートに収束する時、ジャームッシュ夫妻さえもがフィルムと同じ矩形を司る共同体としてのパターソン夫婦を現実に体現する事を、改めて観る者の心に刻み込んだ事実に、筆者は快哉を叫びたい欲求に駆られるのであった。
(了)
観てい時と後での感想が違う・・・
観ている時はなんて退屈な映画・・・・
隣の人は時にクスッと笑っているが、何回か睡魔に負けました。
でも、後から記憶を整理すると、これは夫婦愛の映画だったのかと。
もう少し真面目に観ておけばよかった・・・・
あんな風に暮らしたい
ジム・ジャームッシュ、あらためてつくづく好きだとおもった。映画監督のなかで一番好きだ。趣味がよすぎる。こんな粋な才能をリアルタイムで見ることができて幸せだ。スクリーンをずっと穏やかな気持ちで観ていた。あんな風に暮らしたい。お金で買えないものをたくさん持ってる人たち。スマホの通知音に邪魔されない生活。日々ささやかながら生み出される芸術。インド訛りのバス会社のおっさんとのやりとり。クスクスわらったり、しみじみ味わったり、幸せな時間だった。
とても普通のありふれた日常を平熱でずっと描いてるのになんだか観てら...
とても普通のありふれた日常を平熱でずっと描いてるのになんだか観てられる不思議な映画。(ちょっと途中寝ちゃったけど)
日々のちょっとした喜怒哀楽が愛おしく思える、飾り気ないのに素敵だなーと思える作品でした。
日常を細やかに慈しもう
ありきたりのはずの日常は
実はその一瞬一瞬が
毎日違った色を見せている。
ありきたりの日常に
疲れきっているおいらに
この映画はそんなことを教えてくれる。
時間に追われる日々の中
肩の力を抜きふっと息をつく
そんな時間が人生には必要なんだな。
…なんて充分わかってるつもりで
できないんだよねぇ…
大昔、ミッドナイトアートシアターでストレンジャー・ザン・パラダイス...
大昔、ミッドナイトアートシアターでストレンジャー・ザン・パラダイスやダウンバイローを観て、映画通を気取ろうと高校生ながらに頑張ってた思い出が蘇りました。
通な映画の面白さはなかなか理解出来ないのは大人になっても変わりませんが、本作は退屈せずに観ることが出来ました。
でも、だから何?と言う感想を排除する事は出来ませんでした。
ありふれた、でも豊かな愛すべき日常。
なんとも愛おしい風景。
愛する女性に去られる不安がときどき顔を覗かせる。職場も街も何かが足りない。
でも大切な美しい風景。
満ち足りはしないが、かけがいがない。
そんな日々は言葉を産み、その言葉がまた日々に向かわせる。
ギリギリで、ささやかで、でもそれがきっと大きな幸せ。…重低音の効果音にやられすぎたかな…。
…あんなキュートで美しい奥さん、主人公がうらやまし。
ジム・ジャームッシュの到達点
小津安二郎、溝口健二、成瀬巳喜男等の日本映画の粋を充分消化し、それを独自のセンスで捉え、これまでのキャリアを更に深化させた美しい映像を見せてもらえた。アダム・ドライバーの演技は白眉だが、永瀬正敏の円熟した演技には目を見張るものがある。最後のカットで、それまでの映像の流れを一人でさらってしまい、見事にフィナーレに持ち込む力量には甚だ感動させられた。良い役者がまだまだ日本にも居て、その役者を国際的な作家が取り上げ、映画の新たな歴史を作り出す。この作品、今のところはジム・ジャームッシュと永瀬正敏の最高傑作だと思う。
毎日の中に潜む彩りの欠片を採取していくある男の日常映画
ある男のある一週間をありのままに描いた本作はそのなんの変哲もない一週間を彩り豊かに、情緒的に魅せてくれる
時にユーモアに溢れ、時に感傷的に浸り、時に些細な発見に出くわす、その出来事を主人公パターソンが詩として書き留めていくことでまた日常に新しい”色”が追加されていく
本来映画には自分が中々経験出来ないまのを求め足を運ぶがこの映画は何気なく過ごす日々にも、たとえ書き留めるノートがなかったって新たな彩りが芽生えている事に気付かせてくれる
ありきたりな反復する毎日を描いてるようでとても繊細かつセンスに富んだ映画であるなと感じた
あとヒューマントラストシネマ渋谷のこの映画の監督、ジムジャームッシュに対する愛が深いので是非
断SNSして、身の回りに眼を向けてみたいと思わせられた。家に彼氏と...
断SNSして、身の回りに眼を向けてみたいと思わせられた。家に彼氏といる時ローラくらい可愛くいられたらいいなとおもった。というか可愛くいてあげたいと思った。とにかく雑音が少なくて、毎日急いで生きてる人が観たら、こんな一週間の過ごし方があるんだと、ハッとするんじゃないかな
これの前に観たレッドタートルにも連なる、毎日を重ねる愛の映画。
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