わたしは、ダニエル・ブレイクのレビュー・感想・評価
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わたしは、ダニエル・ブレイクだ。
私は、何の為に税金を払っているのだろうか。私は、何故こんなにも怒りが込み上げてきたのだろうか。私は、どうしてこんな社会になるまで、目をつぶり続けたのだろうか。
今、日本でも生活に瀕している沢山の人がいる。彼らを助けない政府、彼らを叩く人達。
「助ける」という行為そのものが嫌悪される社会に、人間が集まる事に、一体何の意味があるのだろうか。
私達は「自己責任」という言葉を、国民同士で振りかざしすぎてはいないだろうか。
勘違いをしたくないのは、この作品が決して生活困窮者である他人の話ではないということ。
「わたしは、わたしたちは、ダニエル・ブレイク」なのだということ。
ケン・ローチが点火した「抗議」の火が、この日私の胸に静かに静かに引火した。
私はダニエル.クレイグと勘違いしそう
ストーリーはイギリスのおじいさんの奮闘記と言う事でわかりやすい。イギリスもユーロ脱退とか底辺には住みにくいんだろうな。階級社会だしな。黒人の兄ちゃん良いやつだな。ただ、題名がダニエルクレイグと被るな。向こうで言えば佐藤さん並みに多いのかな?
語り口は静かだが、強い怒り
役所というところには、法の執行者であることが権力を持つことだと、大きな勘違いをしている者がときどき見受けられる。自分が血税に雇われた身であり、法で定められたことを誠実に実行することが自分の仕事であって、そこには自分の恣意など一切介在させてはならないという、民主国家では自明のことを忘れているものがいる。
映画の冒頭には「医療専門家」なる女性による質問と脅しにもとれる言葉が出てくる。しかも、この「医療専門家」が国から委託された民間企業の人間だというのだから噴飯ものである。
主人公のダンは求職手当と支援手当(日本でいえば雇用保険と生活保護にあたるのだろう)のどちらの支給要件からも漏れてしまっている。おまけにこうした福祉を受けるための手続きに必要なPCを扱う経験もなく、書類の作成もままならない。
働いているときは真面目に納税してきた彼を、病気で働けなくなったときに救い上げることのない福祉制度の矛盾は、議会が解決するかも知れない。しかし、この矛盾を矛盾とも思わない人々は、そう簡単にはこの社会から消えていなくなることはない。
特にハッとするようなカメラワークや編集のテクニックがあるわけではない。しかし、全編を通じてふつふつと湧きあがる憤りが心を揺さぶり続ける。
「マッチ売りの少女」あるいは「一杯のかけそば」、貧困と闘う尊厳の在り方を問う
"パルムドールを受賞したから、いい作品。"という方程式はないが、"やっぱりね、パルムドールを受賞してるんだね。"という会話は成り立つ。そんな映画だ。じんわり泣けてくる。
心臓病で医者から仕事を止められているダニエルは、自身を犠牲にしながらもシングルマザーのケイティと2人の子供の家族を助ける。しかし、そんなダニエルの正義感をよそに、厳しい現実に追い詰められていく。
貧困と社会を描く、この手のタイプは、アンデルセンの「マッチ売りの少女」や「フランダースの犬」、あるいは栗良平の「一杯のかけそば」のような描き方もある。しかしケン・ローチ監督は社会制度そのものに怒りを燃やし、問題提起している。そして人間の尊厳・プライドを主張する社会派ドラマに仕立てた。
おそらく私小説的なアカデミー作品賞の「ムーンライト」より、素直に心を寄せることができるに違いない。
(2017/3/24 /ヒューマントラストシネマ有楽町/シネスコ/字幕:石田泰子)
ケン・ローチの静かな激昂
「映画が声を上げている!」と思った。
あまり前情報を入れずに見に行った映画だったので、ケン・ローチ監督の新作で、ローチ監督らしい社会派のドラマだろうくらいの感覚でいたし、実際に、一人の貧困な男をめぐる物語として映画ははじまっていく。しかし、物語が進めば進むほどに、この映画が社会に対して声を上げて何かを呼び掛けているのを感じてくる。「こんな社会は間違っているだろう!」「こんな制度はおかしいだろう!」「平等や同権の意味は何だ!」と、頭の中で疑問や疑念が渦巻いてくる。そしてそれは、おそらく、どこの国のどんな社会にも通じる、大きな問題に違いないとはたと気づく。人々が、というよりも、国や社会や制度が、ある一定の層の人々に対し、公然と差別をはたらいているようなもの。映画という媒体を飛び越えて、人々の目を覚まさせる、そんな作品だった。
きっと公務員の人たちは悪くないんだよ。彼らも仕事としてしていることで、慈善事業というわけではないから、「温情」とやらを簡単に持ち出すわけには行かないし。だから一人の公務員の女性がダニエルにネット申し込みのやり方を教えてあげようとすると彼女の上司が「前例を作るわけにいかない」といってそれを止めるシーンがある。彼らも、何かおかしいと思いながらも、無力さを感じて仕事をしているはず・・・って、同じように働く社会人として、彼らの気持ちもちょっと分かるような気がしたり。
ダニエルと若いシングルマザーとの交流に、心救われる部分がある。もちろん、彼らの生活に救済はない。それでも、重く考えさせられる題材の中で、彼らのこころの触れ合いを感じて、少しだけ安らぎを感じる。二人の役者も本当に素晴らしかった。
映画だからと言って、ダニエル・ブレイクを安易に救済せずに幕を閉じる。カタルシスも残さずに観客の前から映画自体が立ち去る。残された私たちはますます考えてしまう。この映画を見た夜は、ちょっと眠れなくなった。
貧しさを教わる。
政府は福祉が困窮者に行き渡らないように画策している
去年、川崎市市民ミュージアムで観た、昔の作品の『キャシー・カム・ホーム』と確かに似ている。50年も前の作品なのにお役所の姿勢はは何も変わっていないようですね。 キャシー~は都会を夢見て無計画に田舎から出てきた娘が、都会で知り合った男と所帯を持つが失業し、政府の保護を受けることの困難さを描いていたけど、こんどは心臓発作で仕事を医者に止められている老人が失業給付を申請する話。
今回は主役がお年寄りになったことと、役所での申請がパソコン必須になりつつある事の弊害も加わってます。お年寄りはパソコンが苦手ですからね。電話の対応は機械音声、求職手当の申請に、働けないのに面接の実績と証拠が必要ときた。 この主人公は心臓の病気で医者に仕事を止められているのにですよ。 これは機械が苦手なお年寄りじゃなくてもイライラすると思います。
イギリスでは数年前の福祉改革により、最貧困層にある家庭200万世帯の状況がさらに悪化しているそうです。改革とは名ばかりですね。生活保護などが削減され生活困窮者がさらに困窮しているとの事。またこの映画の中で悪態を突かれていた、使っていない寝室に税金を課すという寝室税は
初めて知りました。福祉の名の下、貧しい人がより貧しくなるのは何故なんでしょうか?なんかおかしいですよね?
それから二人の子供を抱えたシングルマザーも登場します。彼女はお金を稼ぐために禁断の方法に手を染めてしまうのですが、そのきっかけは貧困が原因の子供のイジメなんですね。しかし、その禁断の方法はより子供が差別を受けやすくなるというのに、やもえず落ちていく感じが切なかったですね。
登場人物が不器用すぎる感はありますが、格差社会が急速に進む昨今、この映画を観て多くの人に理不尽さを感じてほしい。
厳しすぎる。
愛の欠落と他人事ではない無責任
よかった
そもそも役所になんか頼ろうとしてもどうせ気分よくならないに決まっているのでなるべく当てにしないことにしていた。しかし、里親活動をするに当たって児童相談所のお世話になったら、とても手厚く面倒をみていただいて、今ではその印象が逆になっている。部門によってきっと違うのだろう。
おじいさんが車椅子の弁護士を頼ったとたん、すんなり事が運びそうになっていたのが、よかったのだが、本来そうあるべきであり、なんとも残念な気持ちになった。
ヒロインがシングルマザーで、生活苦から風俗嬢になってしまうところがあまりに切なかった。リアルな現実なのだろうし、現実にそうして生きている人がいるのだが、本人も触れて欲しくないだろうし、実際ユーザーもいる。問題視しづらい問題だ。市場原理の負の側面だ。
観るのに覚悟が要ります
よそ事ではない・・
Working Class Hero
人が人として人らしく生きる権利
役所ってトコは〜〜
主役のおじさんが、江戸落語家の何方かに似てる気がして、
なんかひと昔前の下町にこんな江戸っ子親父がいたよなあ〜と
思ってしまう。
とにかく、国や政治のシステムが全く弱者の立場になっていない!
と言う親父の怒り、つまりは監督、ケン・ローチの怒りは
100%理解出来るが、
ダニエルおじさんは、給付金申請の窓口で
「自分で帽子をかぶれる程度に手を挙げられますか?」
と訊かれて
「心臓が悪いと書いてあるだろう!」とちょっと声を荒げる。
言いたい事は解るがそこで切れて「もうイイ!」と
椅子を蹴って帰ってしまうのもどうかと思うし、
心臓病で医者に仕事を止められてると言いながら、
知り合ったケイティ一達の家をちょこちょこ直してやったり
偽就活のために街を歩き回ったりしていて、
そこを観ちゃうと、高いところに登ったりは無理でも
心臓に負担をかけない小さな仕事なら
できるんじゃないかと思っちゃうのも真実。
そういう事は枝葉の事で本筋ではないんだけど
ちょっとダニエルおじさんに完全に同情し切れなくなってしまった。
この監督の前作「天使の分け前」でもちょっと力技が過ぎて
そこは無いわ〜というところがあった。
お涙頂戴にしない、容赦無いのがこの監督なんだろうけど
観客としては主人公がそれやっちゃったら
完全に主人公の味方になり切れない。
みたいな事が多すぎる気がする。
そう、立川談志師匠みたな映画だわ!
師匠の言いたいことは解るがそこまで頑固で
誰の意見も受け入れないのはどうよ!!みたいな〜〜
とにかく、この映画の言わんとする国の福祉制度の冷たさは
人ごとではなくて、日本も同じだと思う。
老後がますます心配になってきた。
ダニエルの不器用な生き方が涙と笑いを誘った。
私は、一人の人間である。
私にはダニエルブレイクという名前がある。
心臓発作で職を止められた男が再就職に孤軍奮闘とする、しかし国の政策により、非常に苦しい求職活動を余儀なくされる。このダニエルを演じたデイヴ・ジョーンズが実にピカイチ。
彼の演技が実に素晴らしい。違和感を感じさせない。
この国の政府は、貧困者に容赦なく厳しく冷たい。ケイティが「フードバンク」で行った
とっさの出来事に、驚かずにはいられない。
終盤近く、トイレで顔から湧き出る汗をひたすら拭くダニエルの姿で泣けた。ダニエルは
人間として決して悪い奴ではない。でもあまりにも不器用すぎで、困った人間に頗る優しい。
しかし自分が生きていくには「やはりそれなりのお金が必要。」なのかと、終わった後なぜかため息をついてしまった。
この監督は、フェードアウトが好きなのだろうか?
さて、あなたはどうする?
いわゆる社会派ドラマのなかで、カンヌ・パルムドールを受賞したこの映画の特異性は何か。
「社会派」のスタイルにはいくつかあって、ひたすら眉を顰めて見ざるを得ない酷薄な現場を写した作品や、ダルデンヌ作品のようにただただドライに事実だけを追跡して観察するタイプのもの、怒りを前面に出した告発調のもの、子供や弱者の視点でピュアな悲しみを誘発させるもの、など。
はたまた戯画調・寓話調で饒舌なユーモアと揶揄をふんだんに使ったクストリッツァ作品もあるし、ドキュメントでは皮肉と自虐的な笑いで鋭く饒舌に追及するマイケル・ムーアもいる。
作品に反映させる「表現」は様々だが、メッセージ性の強い社会派作品を作り出すモチベーションは、やはり「怒り」が発端なのだろう。
その怒りを、登場人物に代弁させる。
この作品の主役ダニエル・ブレイクは物言う男である。
けっこううるさく文句を言い、行動する男だ。
不遇な仲間であるケイティも不満をあらわに声に出した。
これら声高な主役たちだからこそ、弱者を代表して代弁できたのであり、この映画もメッセージを前面に出せたのだ。
しかし、往々にして、弱者は声を上げない。声を出せない。
国の違いもあるのかもしれない。
とくに日本人は声を上げない、あるいは自業自得だと思ってしまう。
もし当事者たちが、この主役たちのように声を上げなかったら?
声なき声が、ただ圧し潰されて泣く泣く社会の片隅に追いやられていくだけだとしたら?
と考えなくてはいけない。
当事者の大半はそうだ。
子どもたちなら尚更だ。
そしてダニエルもケイティもそうだ。
一旦、諦め、力尽きたときの彼らも描かれている。
坂を転げ落ちるのはあっという間だ。
弱者を排除する効率主義によって、格差は拡大している。
それに気付かない人が多いのもまた事実だ。
この映画を見て、僕らは気づかなくてはいけない。
ただ気づいていないだけで、そこら中に社会から弾かれた人が籠っているのだ、と。
格差が大きければ、それだけ下方は見えにくい。英国は階級社会だからそうだ。日本も年々階級化している。対岸の火事ではない。これを鏡として足元を見つめ直さなければいけない。
さて、話を戻そう。
ケン・ローチ監督80歳にして敢えて挑んだこの作品の特異性とは、メッセージの直接性と、弱者の視点に立ったそのまなざしのやさしさではないか。
メッセージを明確・的確に訴えるには、強さとやさしさが必要である。
そのやさしさは、怒りだけでなくユーモアや微笑みにも裏打ちされている。
悲しさ・惨めさによる涙を描いた後に、ちょっとしたやさしさを示すことで、こちらの涙腺をゆるくする。
あるいは、やさしさが通りいっぺんの口先だけではなく心の底からであることを実証するセリフが出てくるとき、僕らは安っぽくない涙を心して味わうことになるのだ。
とくにケイティの娘デイジーが、文無しで引きこもったダニエルを玄関に呼び出すときの言葉、
「ダンはわたしたちのこと、助けた? それなら・・・(略)」
というさりげないセリフには、何度も思い返しては、じんとさせられる。
フードバンクで食物を支給されているとき、ケイティがあまりの空腹のために思わずしてしまったこと、その彼女自身のショックと、ダニエルと女性スタッフのフォロー。
困窮者の惨めな心をさらに切り刻みすり潰す役所のシステム。
ダニエルは公的扶助を辞退して去り、役所の外壁に大きくメッセージを落書きする。
その力強さと、周りの人々の応援、その一体感には救われる思いがする。
そしてラスト、本人のいないところでケイティによって読み上げられるダニエルの力強い抗議文は、何度も反復したい。
主演のデイブ・ジョーンズというコメディアンの功績も大きい。
どれも涙なしでは見られないシーンだが、さて、観終わった僕らは感動して立ち去って済むのだろうか。
希望の光は、弱者同士のかすかなやさしさだけであって、弱者切り捨てシステムに関しては何も変わらず、ダニエルはああいうことになり、ケイティも相変わらず「あれ」を続けるのだろう。
映画では、何一つ解決していない。
現実の世界も変わらない。
イギリスの社会システムもひどいが、日本もほぼ似たようなものである。
(失業手当支給の条件を満たさないと「罰則」があり、支給がストップするというのは驚きだが。)
変わったはずなのは、観た人自身だ。
自分たちの足元が、例外なく脅かされていることを知ること。
今は安泰でも、これから少しずつ、かつてない老人漂流時代に墜ちてゆく。
一部の富裕層以外は避けられないことなのだ。
さて、どうする。
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