光(河瀬直美監督)のレビュー・感想・評価
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複雑な気持ちで見ました
知人が制作協力として関わっていると、連絡があり見に行きました。ストーリー展開には思うところはありますが、光を失う人の気持ちは伝わりました。ここではなかなか書けない重さがありました。
最後にあの人が出てきて?なんかホッとしました。
同情から共感へ
久しぶりに“映画”を観た。
視覚障碍者向けの音声ガイドを作るヒロイン。単に情報を流せば良い訳でなく、世界観を平易な言葉で伝える、映画の高度な理解が求められる特殊な仕事だ。
懸命に言葉を紡ぎ出しても伝えられないもどかしさ、理解しようとしても理解しきれない視覚障碍者の想像力。一人の視覚障碍者と向き合いながらヒロインは葛藤する。
視力を失っていく恐怖と不安、彼の人生そのものだった写真を手放さなければいけない悲しみ。それでも生きていくという決意。同情から共感へと変わっていく過程の魂のぶつけ合いは、ラブストーリーと相性抜群である。
ゆるーいストーリーやエンタメ作品も良いけど、たまにはやはり、こういうガツンとくる映画の良作を観たい。
感情の伝え方
水崎綾女のファンになってしまった。
盲目
ともすれば陳腐になりそうなテーマとストーリーでいかにも映画的な演出も目立ったが、ギリギリのラインで上質な雰囲気を保っていたと思う。
過剰なまでの接写と環境音、これが案外押し付けがましくなく、とても効果的だった。
そして特に良かったのが水崎綾女。
他にも綺麗な女優は上手い女優はいるが、この接写の押収の中での表情、光を纏ってのキスシーンの美しさとエロス、これは水崎綾女でなければ絶対にダメだったと言い切れるレベル。
あとこれはあくまで僕の解釈だけど、永瀬正敏が最初は“少し見える”という点の狙いどころは「徐々に完全に見えなくなる恐怖」の演出ではなく、「フォーマルな場でちょろっと出会った子を家に上げ、すぐ愛情に発展する。」ことに説得力を持たせるためではないかと思った。
そこの判断はやはりどうしてもルックスによって変わってくるものですしね、まあ、実際問題。
劇中劇のシーンを中心に、目を閉ざしてもう一度見てみたくなるような、そんな作品でした。
良かった。
64
音声ガイドは分かった
重すぎるわ(笑)
観ていて息苦しくなった。
何度も席を立とうと思った。
ただ、河瀨直美が最後に用意した答えを信じて我慢した。
壮絶な喪失の体験を乗り越えるなんてあり得ないのかも知れないと思った。
ただ、それが難しいんだ。苦しいんだ。
でも、抱えながら、勇気をだしてその時その時に前に進むしかないんだ。
うっすらと差し込む光を浴びながら、逃げずに進むしかないんだ。
どうだ、と言わんばかりの全編緊張感みなぎる映像。ただし、押しつけがましいかと言えばそうではない気がする。
永瀬正敏、すごい。カメラを取り戻す場面、泣いた。カメラと別れる場面、驚いた。弱々しい一歩目、素晴らしかった。
弱々しくも歩き出すしかない時ってあるもの…。
ただ、観終わって、かるーい映画みてえと思ったのも事実…。
アップが多い演出の理由を考察
20代後半(と思われる)尾崎美佐子(水崎綾女)は、視覚障碍者向けの映画音声ガイドをつくる仕事をしている。
今回の映画は、ベテラン北林監督(藤竜也)が自ら主演した介護に係る映画。
北林監督の作品は、これまで同様、余韻や余白を残した映画で、音声ガイドを作るのは難しい。
視覚障碍者のモニター方々の意見を交えながらつくる音声ガイドであるが、今回のモニターの中に、ひとり気難しい男性がいた。
彼の名前は、中森雅哉(永瀬正敏)。
以前は一線で活躍していた彼だが、目の病から仕事から退き、いまはほとんど見えていない。
拡大読書機などの助けを借りて、文字を読み取るのが精いっぱい。
しかし、愛用の二眼レフ・ローライのカメラは手放していない。
そんな彼から美佐子は厳しい一言を受ける。
「押しつけがましいんだよ、君の音声ガイドは・・・」
というところから始まる物語で、映画の王道ともいうべき、価値観の異なる二人が出逢って、互いの価値観を受け容れつつ、自身が変化していくという物語だ。
なので謳い文句にある「河瀬直美監督が挑む珠玉のラブストーリー」というのは、少々誇張しすぎかもしれない。
ストーリーの基軸をなすふたりの異なる価値観(生き方といってもいい)は次の通り。
中森は、徐々に見えなくなっていく現状(否、もうほとんどみえていない現状)を受け容れずに、これまでの自分を生きる支えとしている男。
常に携帯しているローライのカメラが、その証である。
美佐子はまだ若く、人生の曖昧さ(余白と言ってもいい)を理解していない。
それは音声ガイドにも表れ、晴眼者は視覚障碍者よりも「見えている=わかっている」と思い、「自分の」わかっていることを伝えよう(得てして、押しつけに繋がる)とする。
そして、映画に対しても、余白や余韻や曖昧さを排除して、何らかの確固たる結論(いわゆる「希望」などの言葉で象徴される)ものを欲しており、それが良いものだと思っている。
そんな二人が出会い、結果として、曖昧であるが(曖昧でかつ、か)確固たるものを得るというのがストーリーで、その曖昧で確固たるものの象徴が「光」である。
キャッチーに言い換えれば「愛」かもしれず、その意味では「珠玉のラブストーリー」も嘘ではないが、もう少しかみ砕いていえば「他者に対する理解」である。
そういう物語を、紡ぐ河瀬直美監督の演出はすこぶる上手い。
それまで自分主体の話法であった監督が、前作『あん』で(失礼ながら)ようやく第三者的話法を会得したのかしらん、と思ったのだが、本作ではそれを一歩進めている。
第三者の立場になるように、観客を追い込むような演出方法を取っている。
その方法がアップの多用。
しかしながら、アップの多用というのは、ほとんどが台詞をしゃべる話者を追うという手法で、この手法を採れば登場人物の内面に肉薄できると勘違いしがちな手法。
だが、この映画でアップで映し出される多くは、話し手以上に聞き手。
つまり、画面から得られる情報が極めて少ない。
特に、美佐子が音声ガイドを作っている北林監督の映画の画面は、意図的に隠され、何が写っているのかは、観客にわからないにしている。
これによって、観客を、映画の中の視覚障碍者と同じポジションに追い込んでいく。
画面から得る情報が少ないことで、観客は、それ以外の情報(台詞、それ以外の音(雑音や息遣いも含めて))などい集中せざるを得なくなってくる。
これが、監督が意図した「、観客を第三者(登場人物たち)の立場になるように追い込むような演出、である。
この演出意図さえわかれば、もうあとは、劇中の登場人物になって観ていくだけだ。
そうして、美佐子と中森の価値観が変わるところ(中森の場合はカメラから白杖に変わるのでわかりやすい)に心動かされ、最後の最後に、完成した北林監督作品の音声ガイドを聴けばよいだけだ。
そのラストにしても、「それ」は見えていない。
見えていなくとも、そこに「ある」ことが感じられればよいのだ。
光とは。
アクターの演技力
着目点は素晴らしい。が恋愛模様を描くのは苦手?
さっぱり解りませんでした
『涙こそが目の本質ではあり、視覚ではない』ジャック・デリタ 河瀨直...
『涙こそが目の本質ではあり、視覚ではない』ジャック・デリタ
河瀨直美監督のカンヌ国際映画祭コンペティション部門出品作『光』を観てきた。
思わず唸ってしまう佳作に心がゆすぶられた。
僕は、映画は映画館で観るのが断然好きなのだが、
最近は映画館でもバリアフリーに気を使った映画館も増えているし、車いす専用のスペースを設けていたり、
障碍者の方にとってまだまだ不充分だという声も聞かないこともないことにはないが、
以前に比べて配慮されているように思える。
最近は聴覚障碍者を主に配慮する目的で、スマホなどに専用アプリをダウンロードすると、
端末のマイクが音声を拾って、専用メガネに「日本語字幕」「外国語字幕」「手話映像」を
表示したりする優れものもあるよう。
しかし、主な表現手段を視覚に委ねて観る者に伝えるのが映画や絵画、彫刻、写真などの芸術である。
視覚障碍者にその表現を言語で伝えるむつかしさがすこし理解できたように思える。
様々な「光」が演出される映画だった。光を失いつつある弱視を患うカメラマンの雅哉(永瀬正敏)と、
視覚障碍者のための映画音声ガイド制作者の美佐子(水崎綾女)。この二人のつながりを、
まさしく「光」でもって描いている。
山肌に落ちていく落日、部屋の中に西日が差し込み、部屋に吊るされたプリズムの中を通過する光の反射。
弱視のカメラマン雅哉が“俺の心臓”と言わしめたローライフレックスのファインダーを通して見える光・・・。
でも、この作品は雅哉と美佐子の魂の想像力と共感性に「光」を当てたのだと思う。
劇中、美佐子の作った音声ガイドに雅哉は
「そのガイド、今のままではじゃまなだけです・・・その解釈はあなたの勝手な想像でしょう」と
容赦ない批判を向けてくる。確かにそうなのだ。その情報は美佐子の主観に過ぎないのだ。
美佐子は「あなたは表情がない。想像力がないのではないですか」と反論する。
しかし、同じガイドスタッフから
「あのね、目の見えない人達は私たちよりずっと豊かな想像力の世界に生きているのよ」と諭される。
伝えることのむつかしさをこの一場面が雄弁に語っていた。
映画を通して手持ちカメラが多用されていた。
ドキュメンタリータッチの手法で創作にリアリティさを演出しているカメラワークは役者の演技を引き立たせてた。
ひとつ気になったのがこの映画のキャッチコピーは「珠玉のラブストーリー」となっている。
だれやこんなコピーつけたのは。どこ観とんねん。この映画の主題は「ラブストーリー」ではない。
舞台は河瀨直美監督のふるさと、奈良県がベースとなっている。
エンドロールのロケ地に天理市がテロップされてた。
僕が高校・大学を過ごした場所でもある。(柔道ばかりしてたけど 笑)
すごく懐かしく映像を見ていた。
いいなぁ、あの夕日が里山に消えていくやさしい光にまた会いたくなってきた。
河瀬監督に一言。最後に樹木希林を使うのはずるいな(笑)
帰り道写真を撮りたくなった
音声ガイダンスの試写モニターのシーンがあまりにリアルで、指摘も的を射ていてまるで私がダメ出しされているような気持ちになった。
上司のトモコさんの優しい笑顔に救われる気分に。
ハンデの無い私たちには目が見えない人のことを完全に理解することはできないけど、その距離をできる限り詰めてお互い寄り添うことが大切なんだと思った。
中森の僅かに残っていた視界が閉じてしまったときはそのショックや恐怖が伝わって少し震えてしまった。
最後の上映シーン、美佐子が考え抜いたガイダンスの言葉が素敵だった。
映画に小説の文章を作って加えるようなものでいかに大変かがわかる。
樹木希林のナレーションだと知りびっくり。耳障りのいい声だった。
ただ、イマイチ分かりづらかったシーンも多かった。
セリフや表情が詩的で少しわざとらしく感じてしまい、互いに惹かれていくさまも少々強引に思えた。
美佐子と中森、傷のあった二人が同じ光を見て前に進むことができているので良かったけども。
役者の演技は最高で、美佐子が中森に軽くシャドーボクシングするシーンは可愛くてお気に入り。
詩的な表現はあまり好みに合わなかったけど、重くもあたたかい内容は心地よく観て良かったと思える映画だった。
熱い映画だった
ぎてもう少し長めで恋愛模様も繊細なほうがよかったかも。
耳で観る映画
この映画を観終えたとき、私は「耳で映像を観る」という感覚を初めて味わった。その時見た景色は、時間を経た今となっても、私の脳内で鮮やかな残像となって生きている。
しかし『光』を観た人全員が、これを体験できるわけではない。ラストシーンで、耳で映像を観る境地に至るためには、上映中に映画の作り手が鑑賞者に課してくる「試練」に耐え続け、観客自身が能動的に「耳で見る能力」、すなわち聴覚情報から見えないものを見る想像力を身につけねばならないのだ。
ではその試練とは一体何なのか。それを説明するため、ストーリーを追いながら、この映画のミザンセヌ(映像の構成要素)を、分析していくこととする。
痴呆症の母と別居して暮らす、主人公・美佐子(水崎綾女)は、視覚障がい者のための「映画の音声ガイド」の制作に携わっている。最愛の妻を亡くした老男性の姿を描いた映画、『その砂の行方』のガイドを作るため、美佐子らは、視覚障がい者の人達に参加してもらい、彼らから意見を貰うモニター会を定期的に開いている。そこで、美佐子は誰よりも厳しい指摘をしてくる、元カメラマンで弱視の中森雅哉(永瀬正敏)に出会う。
美佐子は『その砂の行方』のガイドを何度も書き直し、監督に質問する機会を得るも、どうしてもラストシーンにつけるガイドが思い浮かばず、悩み続ける。
美佐子の作ったガイド文に、容赦ない批判を向けてくる中森に対し、美佐子は最初反発を覚える。しかし、同じガイドスタッフから、目の見えない人達は私たちよりずっと豊かな想像力の世界に生きている、という言葉をかけられたのをきっかけに、美佐子は視覚が無い世界とはどのようなものかということを、自ら考えるようになっていく。
あるきっかけで、美佐子は中森と個人的に過ごす機会を持つ。当初苦手に思っていた中森という男と会ううち、彼が未だ写真を撮ることに執着していること、視力を失いゆく絶望の中で一人孤独に生きていることを知り、心を通わせていく……。
『光』では、カメラが映す範囲で役者を動かすのではなく、役者の動きを制限せず、自由に演技をさせ、手持ちカメラが役者を追う。この役者の演技を第一に重視したカメラの動きは、ドキュメンタリー映画にあるような、リアリズム志向の映像作家の撮り方だ。
しかし、そんなカメラの動かし方とは正反対に、その他の映像の構成要素は実に意図的なやり方で撮られている。
各シーンの初めに挿入される、エスタブリッシングショット(その場所がどこかや、状況を示すためのロングショット)を除けば、この映画の殆どのシーンは、クローズアップ、またはミディアムクローズアップ等の、被写体に寄せたショットで構成されている。そして被写界深度は浅く、ピントが当たっている部分以外はぼやけて映される。
また、上記のように寄せて撮影された被写体ですら、必要な情報は全て画面に収まっていない。例えば、役者を映したクローズアップショットでは、役者の頭が画面内に収まりきらず、上部にはみ出たり、焦点を当てた身体の一部以外は画面外へと弾き出されている。つまり画面内に必要な被写体の情報が全て収められたクローズフレームではなく、画面外に「何か」があることを観客に示すオープンフレームで、映画の世界をトリミングしている。
これらの意図的なショットの構成によって出来上がる映像は、日頃私たちが見ている肉眼の世界よりも、ずっと範囲が狭く、窮屈感を覚える。映画のフレームが切り取る世界は、あまりにも狭いため、観客は、まるで視力を失いゆく中森と同様、視界が狭くなっていく弱視を疑似体験させられている感覚を味わい、時に見えにくさに対する苛立ちを感じる。これが、作り手の狙いの一つだろう。
そして同時に、これは映画の鑑賞者の「想像力」を鍛える試みでもある。画面内に映すべきものが全て映されていないというオープンフレームによって、観客は画面外に何があるのか、常にフレーム外の世界を自分で想像し、脳内映像化することを求められる。音声ガイドを作る主人公・美佐子は、視覚障がい者の人々の「見えないものを想像する力」がどんなものかを考えることを求められるが、彼女と同様、この映画の観客も画面に映っていないもの(=画面外の見えない世界)を想像することを上映中求められ続ける。(観ていて疲れる、というこの映画の感想が多いのはこのためだろう)
約一時間半弱の上映時間を通して、この映画は観客に「見えない世界を想像する力」を身につけさせようと、試練を与える。そして真摯にその試練に耐え続けた鑑賞者だけが、その能力を自分のものにすることが出来る。
『光』は、美佐子が苦心して作り上げた「音声ガイド」による劇中映画『その砂の行方』の上映会のシーンで終わる。劇場に集まった目の不自由な観客達は、音声ガイドの再生機からイヤホンを耳に当て、見えない光景を想像する。
想像力を鍛えられた『光』の観客達も、彼らと同様、目で劇中映画を観るのではなく、美佐子の作った音声ガイドから「耳で観る」という体験をする。
『その砂の行方』のラストは、主人公の老人が浜辺を走って行く光景で終わる。そしてその時、『光』の映画内と現実世界、どちらの世界の鑑賞者たちも、耳から脳内にその世界の鮮やかさを映し、感動を自分のものにできるのだ。
ふと、哲学者ジャック・デリダの『涙こそが目の本質ではあり、視覚ではない』という言葉を思い出す。彼は、19世紀の哲学界で「目で見ること=知ること」とされていた視覚中心主義を批判し、視覚に障害を持つ人々に対する差別性を否定する。そして、涙……つまり、無数の他者との共感性を肯定した。
『光』はラブストーリーという宣伝文句を与えられている。しかし、美佐子と中森という見える者と見えない者が、二人の間にある断絶を乗り越え、互いに共感し合う物語……私には、孤独な魂同士が結びついていく過程を描いた作品に思えた。
想像力と共感性……それこそが、この映画の本質ではないだろうか。
あたりまえだから意識しない
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