サーミの血
劇場公開日 2017年9月16日
解説
北欧の少数民族サーミ人の少女が、差別や困難に立ち向かいながら生きる姿を描いたドラマ。1930年代、スウェーデン北部の山間部に居住する少数民族サーミ族は、支配勢力のスウェーデン人によって劣等民族として差別を受けていた。サーミ語を禁じられた寄宿学校に通うエレ・マリャは、成績も良く進学を望んだが、教師からは「あなたたちの脳は文明に適応できない」と告げられてしまう。ある時、スウェーデン人のふりをして忍び込んだ夏祭りで、エレは都会的な少年ニクラスと出会い恋に落ちる。スウェーデン人から奇異の目で見られ、トナカイを飼育しテントで暮らす生活から抜け出したいと思っていたエレは、ニクラスを頼って街に出る。監督のアマンダ・シェーネルはサーミ人の血を引いており、自身のルーツをテーマにした短編映画を手がけた後、同じテーマを扱った本作で長編映画デビューを果たした。主演はノルウェーでトナカイを飼い暮らしているサーミ人のレーネ=セシリア・スパルロク。2016年・第29回東京国際映画祭で審査員特別賞および最優秀女優賞を受賞した。
2016年製作/108分/G/スウェーデン・デンマーク・ノルウェー合作
原題:Sameblod
配給:アップリンク
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2017年9月21日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館
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1930年代。厳しい自然に囲まれた北欧、ラップランド。この物語は、先住民族サーミ人が受けていた差別の歴史を描いた物語でもある。寄宿学校での教育や教師から発せられる言葉、人々がサーミ人へ投げかける冷たい視線などは身を切るほど辛いものがある。が、それでも本作が一向に魅力を失わないのは、ひとえにヒロインの逞しい存在感があるからだろう。彼女が日常の中で何を考え、どのような思いを発露させ、やがてどんな決断を下すのかに主軸を置いて、その心の流れを丁寧に描き出すのである。
当時、多くのサーミ人たちが故郷を捨て二度と戻ることはなかったという。本作は故郷に残った者、故郷を捨てた者のどちらの正当性を訴えるのでもなく、あくまで少女の視点に特化することで“感情”を描き出してみせる。こうした演出ゆえに決して昔話に陥ることなく、現代に生きる我々でもダイレクトに享受できる豊かな心象模様がもたらされたように思えるのだ。
2022年3月7日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館
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サーミ人とは、ノルウェー、スウェーデン、フィンランドの北部とロシアのコラ半島でトナカイを飼い暮らし、フィンランド語に近い独自の言語を持つ先住民族。映画の主な舞台となる1930年代、スウェーデンのサーミ人は他の人種より劣った民族として差別された。(公式HPより)
主人公となる少女エレ・マリャ(レーネ・セシリア・スパルロク)は寄宿学校で優秀な成績をおさめていた。学校ではサーミ語を使わずにスウェーデン語を使わなければならないが、言葉も両方流暢に使いこなしている。帰り道では白人の青年たちから差別的な言葉を投げられ、いつも悔しい思いをするのです。そんな彼女も進学を希望するが、優しい先生から厳しい言葉が発せられる。「サーミ人の脳では文明に適応できない」と。
ある日、エレはスウェーデン人になりすまして忍び込んだ夏祭りで、クリスティーナと名乗り、都会的な青年ニクラスと出会い恋に落ちる。彼を頼ってウプサラという街に出たエレは彼の家に強引に泊まる。ニクラスの母親は「あの子ラップ人でしょ?」と言われ、長居もできなくなってしまう。そんなエレが学校の図書館に入り、本を読んでいると高校の教師から誘われたのだ。これでスウェーデン人に溶け込める・・・と思ったのも束の間、授業料を請求されたのだ。
差別的な扱いを受けても初等教育だけは受けられる。幸か不幸か頭が良かったためにスウェーデン人になりたかったエレの人生。エレには妹ニェンナもいるが、ごく普通の子であったため生涯をサーミ人として過ごし、姉の分までトナカイを育てていたことが告げられる。老婆となったエレがニェンナの葬儀に参列するため故郷に一旦帰るのだが、サーミ人の仲間から逃げた身には辛いものがあった。子どもの頃に白人から受けたイジメとは逆に、逃げたサーミ人として白い目で見られてしまうのだ。
イジメを受けるシーンになぜだか臨場感があり、教師から決定的な言葉を投げかけられたときのショックも手に取るように伝わってきました。なんとかスウェーデン人に溶け込めるようにと祈りながらの鑑賞。しかし、波乱万丈の人生だったろうなぁ・・・
2021年12月5日
スマートフォンから投稿
鑑賞方法:VOD
人権先進国というイメージのスウェーデンでもこのような歴史を持っている。人間はやはり間違いをおかすものなのだろう。
あたかも生物標本のように扱われる場面など、見るのが辛い映画だ。この事実に言い訳をするのか、知らなかったと言うのか、開き直るか、無かったことにするか、過去のことと矮小化するか、その対応に人類の進歩がかかっている気がする。
このような映画を作れるスウェーデンは尊敬出来る。アイヌを描いたこのような映画が日本で作られたのを見たことがない。
自分自身を見直すことが求められる。
2021年8月4日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館、VOD
ー 今作を観て、日本人であれば、即座に倭人と、アイヌ民族との哀しき関係性を想起するであろう。人によっては、沖縄の人と、ウチナンチュウとの関係性を想起するかもしれない。
歴史的に観れば、第二次世界大戦前に、ゲルマン民族至上主義に走った男に追従した国民と、犠牲になったユダヤ民族や、近年で言えばウィグル自治区に居住させられているウィグル民族と、漢民族との関係性や、ミャンマー政府から虐げられているロヒンンギャの人々との関係性も想起させられる作品である。ー
◆感想<Caution! 内容に触れています。>
・冒頭、クリスティーナを名乗っているサーミ人の年老いたエレ・マリャの沈痛な姿が映し出させる。
・その後、物語は1930年代(当時の資料より)のサーミ人の若きエレ・マリャと妹ニェンナが、スェーデン人と思われる若者達から、”臭い”などと言われるシーンに移る。
このシーンだけで、当時、ラップランド地方でトナカイを買い暮らしていたサーミ人の立ち位置が分かる。
この後、度々映される、サーミ人の自然の精霊に対して、畏敬の念を払うヨイクの音色がとても、魅力的なのに・・。
・更に、スェーデン人の女教師クリスティーナから”サーミ語は禁止。スェーデン語で話しなさい・・”と学校で、サーミ人の子供達が言われるシーンや、エレ・マリャ達が”身体検査”と称した骨格検査や、裸体での写真撮影を強要されるシーンも映し出される。
ー スェーデン人達にとってはごく普通の”生体調査”だが、若きサーミ人達にとっては、屈辱でしかないであろう・・。ー
・エレ・マリャはスェーデン人のふりをして忍び込んだ夏祭りで、スェーデン人のニクラスと出会い、恋に落ちる。
だが・・。
<そして、頭脳明晰なエレ・マリャは、哀しき決断をする。
”サーミ人として生きていては、この国では真面に扱われない・・。”
最後半、クリスティーナを名乗っている年老いたエレ・マリャは、故郷に戻り、棺の中で永遠に眠る妹ニェンナに頬を寄せ、涙を流すのである。
民族に優劣などない。
何時になったら、民族間抗争、もしくは一方的な弾圧は無くなるのであろうか・・。>
<2017年10月 京都シネマにて鑑賞>
<2021年8月3日 別媒体にて再鑑賞>
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