「0か100かの怖さ」羊の木 maruさんの映画レビュー(感想・評価)
0か100かの怖さ
他の殺人犯の印象は『怖い』だが、松田龍平だけが『不気味』な印象を醸し出す。
他の殺人犯は、セックスを繰返した先に、耐え続けた先に、暴力を受け続けた先に、義理を通した先に、『過程を経て』結果として殺した・殺してしまったという結果に至っているが、宮腰一郎(松田龍平)だけ、過程は経ず『いきなり結果に至る=殺す』という【0か100】の異質さがある。完全なる別もの。
随所で月末一(錦戸亮)に「友達」と言われてきた宮腰一郎(松田龍平)は、崖に行って自分が生まれ変われるかを試したかった。家で殺さなかったのは、「友達」だからであり、崖から飛込むのは「2人でなければ意味が無い」からでもある。
宮腰は月末に「一緒に飛込もう」「大丈夫助かるのは君だ」と、決して無理には誘わない。「友達」だから。月末は必死に止め「友達だろ」と言ったあと、奇しくも宮腰の心は決まったように見えた。
宮腰には、小学生のような(友達は助け合うもの)といった純粋な思考のみがあって。(飛込んだら死ぬかもしれない)(友達はこんなことまではしない)といった思考は介在しない。【0か100】。助け合うものか、助け合わないものか、のどっちか。
しかし、崖の上で宮腰に一瞬のためらいも見られた。そこには少しだけ(月末=友達が死ぬかもしれない)と思ったからかもしれない。
しかし、逆に、そのためらいが宮腰にとって(あ…俺変われるかも)と思わせてしまい、その瞬間とっさに手をつなぎ海に飛び込んだ。
結果、のろろ様の銅像の首の落下で海に吞み込まれ、宮腰は死んだかのように見えた。
『魚深の崖で祭りの日に2人の生け贄がそこから飛び込むと、一人は助かり、もう一人は沈んだまま死体が揚がらない、という言い伝え』を実行した。1人は死に、1人は生きる。
自分が改心する術として、年月を経て人格を構築することをせず、【0か100】の極端な方法を試した。まさに「羊の木」の極端な発想そのもの。これは、宮腰一郎の物語なのかもしれない。