沈黙 サイレンスのレビュー・感想・評価
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信仰は人が身勝手に持つのではなく神から与えられるもの
信仰を与えられた人々の沈黙する姿が示すように、人々には苦しみや悲しみの前で沈黙しているように思えるときも、神はいつも共にいてくださる。
そういえば初めて小説の「沈黙」を読んだのは中学生のころで、その頃はクリスチャンではなかったので今日の映画鑑賞後の感想とはまったく違うことを読後に考えていたのを思い出しました。当時、夏休みの読書感想文の宿題に提出したほどなのでインパクトは大きかったのでしょうが。
大人になった今この映画を観ることができて嬉しいです。
「沈黙」を鑑賞して
遠藤周作原作の小説を映画化した「沈黙」という作品を見に行った。監督はマーティン・スコセッシ氏。キリスト者としては、1988年に公開された「最後の誘惑」という映画の監督としても記憶に刻まれる人物だ。「最後の誘惑」において描かれるイエス・キリスト像が、聖書の記述に相入れないものであったので、当時、おびただしいキリスト教会団体が、この映画の上映反対運動を起こしたぐらいであった。ただ、私としては「ディパーテッド」や「シャッターアイランド」など、人間社会の暗部を忌憚なく描き、また人間の生を理想化、安易化しないであからさまに赤裸々と描く氏の手法には脱帽はさせられる。
「最後の沈黙」は、主人公を中心とした各登場人物の苦悩に沈黙を守られる神が、主人公に沈黙の中で語られる有様を描く。時代は江戸時代17世紀の中期、鎖国体制が完成し、織田信長の時代に始まるポルトガル・スペインを中心とする(主にイエズス会が主体となって進めていった)キリスト教布教を経て、日本全国にキリシタンが増え広がっていたが、秀吉から家康、家光に至って、キリシタンおよびキリスト教宣教師に対する激しい弾圧起こり、多くのキリシタン、そして宣教師が殉教した、日本史にとっては稀有な時代である。日本人は「宗教に寛容である」というが、当時のキリシタン弾圧は寺院も絡んでいて、そうした主張は世界の国々と比べれば「民族問題」が比較的僅少である環境に依存しているにすぎない。「異分子を排除する」という性質こそ、今も昔も変わらない日本人の遺伝子である、と言えよう。
この映画の主題は、上記のように、人間が心身ともに苦悩する時に直面する「神の沈黙」であり、また、主人公のように、自らの命ではなく、他者のいのちが天秤にかけられた時に、私たちはどのように決意し、行動を選択していけばよいのか、ということにある。「沈黙」における主人公は、結局、権力側の拷問を受けるキリシタンたちの命を救うために、「外面的に」信仰を捨てる、という選択をする。すなわち、イエス・キリストの像が刻まれた「踏絵」を踏む、ということだ。
この主人公の精神は高邁ではあって、人間の多くは、まずは「自らの命」の保身のために動くのが普通だ。しかし、他者のために命を捨てる決意のある、利他的な人間が、他者を盾にされた時、そして、いわば、「神」を捨てれば他者の命は助かる、という状況に立たされた時、どのようにその危機に立ち向かえばよいのか。
そもそも、「踏絵」自体は神でも何でもないのだから、「踏絵」を踏みつつ内的に信仰を保持していく、という選択は可能性としては成り立つ。また、権力側も一枚岩ではなく、単に上からのキリシタン弾圧命令に服しているだけで、キリシタンに対する処罰自体は後味が悪いため快しとはしない(一部のサディストでなければ、こうした心境の役人も多かったであろう)人物も多数いたと思われ、こうした人たちは、できれば、表面的にでもキリシタンたちに「棄教」してほしい、と思いつつ、弾圧の任務に就いていたのかもしれない。
私たちキリスト者は、この映画が提示する問題に、どのように応答していけばよいのであろうか。それは、キリスト者それぞれに回答があるであろう。まさに、この主人公が苦悩のあてに至った信仰は、カトリック信者であった原作者遠藤周作の至ったそれであり、また、恐らく、スコセッシ氏自体の信仰表明でもあろう。
使徒たちの直接の教えを重んじるプロテスタント信者である私としては、この映画で描かれている、信者が司祭に依存するカトリックの信仰自体にも大きな問題は感じるものの(信者は、イエス・キリストだけが仲介者である、と聖書、使徒が明言している)、それは良いとして、やはり、この映画で描かれる人間の苦悩には共感できるものの、「信仰」に対する取扱いに対しては、はっきりと「否」を突き付けざるを得ない。私のような「平和ぼけ」した、生ぬるい、卑小なキリスト者が、殉教に関して物申すことは、僭越のようにも思える。それでもなお、このことは声を大にして主張したい。
聖書で証する、キリスト者の価値観は、まず、地上のいのちではなく、天のいのちこそ、重要なものである、とする。無論、人間はこの地上で生きていく肉体を持ち、この世の生自体も神が造られたものであるゆえ、非常に尊いものではある。そして、ほとんどのキリスト者は天のいのちを味わい切れずにこの世の生を過ごし、この世の生に重心を置いた生活を営み傾向にある。地上の生は天の生に準ずるものであることを、「信仰」によって実生活に体現することなど、人間業では不可能である。だから、イエス・キリストは「助け主」聖霊を遣わしてくださるのだ。
もし、天のいのちが空想の産物であって、そこに望みを置くことが空しい営みであるとすれば、イエス・キリストのよみがえり(イエスのよみがえりは信者の「初穂」としてのよみがえりである、と使徒は教えている)もでたらめであって、それこそ、キリスト教の土台が崩れ去ることになる。
私は何が言いたいのであろうか?すなわち、私であろうと、他者であろうと、地上のいのちの危機に際して、天のいのちに対する望みを無であるかのように宣言する信仰というものは、神に栄光を帰すこととはならないであろう、ということだ。イエス・キリストは、「愛する者のためにいのちを捨てる、これほど大きな愛はない。」と言われたが、これはご自身の愛を言われたことでもある。そして、その愛とは、「地上のいのち」を救うためではなく、むしろ、「霊的ないのち」(神につながり、神が約束された天的希望を目では見ずとも信仰によって喜んで生きていく力)を救うためであった、ということを明確に付言しておこう。この意味で、この映画の主人公がとった行動は、少なくともイエス・キリストに関わる愛であるとは、私には思えない。彼は「宣教師」であって、「教師」は神から格別きびしいさばきを受けることとなる。そのさばきとは、何に対する責任であるのか?「神のことば」を、羊(信者)に正しくまっすぐに伝えているか、ということだ。
真の「信仰」は、強さの内にではなく、「弱さ」の内に宿る。「信仰」が弱いのではなく、真の「信仰」が発揮できないとすれば、実際はその人は「強い」からであろう。つまり、いかなる手ではあれ、神のみ力に信頼し、より頼むことなくして、危機を脱することができる、という「強さ」だ。「信仰」とは、生きた現実における個々人の魂の神に対する応答、決意であるから、「踏絵」をすること自体が「不信仰」とは言えない事態もあるかもしれないが、いずれにしろ、それが「信仰」に基づいていなかったならば、それは「罪」である(と聖書は明言する)。イエスは、「からし種のような(きわめてちっぽけな信心で)信仰」があったら、(巨大な)桑の木に命じただけでそれが海に移る、と明言した。その意味で、この映画が描く「信仰的な弱者」というものは、霊的な面での洞察に欠けている。イエスに従う道は、この自我の強さを取り扱っていただく道なのである、彼の愛弟子ペテロが主によって取り扱っていただいたように。
この「沈黙」という映画は、生まれながらの人間の心理的葛藤を描いた映画としては、なかなか秀逸な作品と言えるかもしれないし、考えさせられる作品ではあるが、信仰者としては決して模範としてはならない道を示している、と私は申し上げたい。「信仰」の種が芽生え、成長することこそが、霊的ないのちへの道であるとしたならば、主人公の宣教師は、その神の御心(イエスは、「父なる神のみこころは、子(イエス)を見て信じる者が永遠のいのちを持つことだ。」と言われた)に仰向いているように思える。そして、彼が聞いた「イエスの声」とは、自らの罪悪感を掻き消すための「地上的な」内なる自分のつぶやきであった、ということだ。
はっきり言えることは、使徒たちはいかなる危機的な、そして苦渋に満ちた状況においても、信仰を外に明言して殉教していった、ということだ、天にある「神の国」の希望を宣言して。そして、使徒たちが生きたローマ帝国の時代は、あるいは、江戸時代下のキリシタンよりも過酷と言えるかもしれない。私自身は、神の憐れみと御力に寄りすがりつつ、使徒たちの信仰にこそ習いたいと思う。
「沈黙」という映画は、キリスト者の真実の信仰を描いたものではない、と私は考えている。これは、むしろ、「キリスト教ヒューマニズム」の映画だ。しかし、真のキリスト教は、「ヒューマニズム」ならず「ゴッディズム」なのだ。
「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。」(聖書)
あくまで、アメリカ人から観た遠藤周作『沈黙』。
ロドリゴ役の心の葛藤がよかった。フェレイラに対する態度も、じつにその時々の感情が出ていた。
贅沢なほど日本人俳優を端役で使う豪華さ。映像もよし。二時間半をを越す長さも感じなかった。
だけど、やはりどこか物足りない。
一つには、たとえ井上が元キリシタンであったとしても、あそこまでしゃべれるものか?(しかも、米映画という都合上、ポルトガル語じゃなくて英語なのが余計悩ませる)
また、武士はあんなに笑ったりしないということ。特に井上は、原作でも表情がないとなっているくらい、読めないはずなのだ。(にこやかでいいのは通辞くらいのはずで、それがあとで叱責のシーンで活きるのだが)
キチジローの、物語からの去り方も解せない。
ロドリゴの最期も、「心から棄教はしなかった」と言いたいのだろうが、それは「匂わすもの」で、十字架を見せて観客にネタバレしてはいけないと思うのだがどうか。そここそ監督は”沈黙”し(せめて何かを握っているような拳であるとか)、観客自身をロドリゴの悩んだ自問と同じような心理に誘うほうが、効果的だったのでは。
ひなたの匂い
人生を賭けた信仰と絶望的な状況下における人間の選択。予め覚悟はしていたものの、喩えようのない悲しさと寂しさを噛み締めて、深夜の映画館を後にした。
本作は、マーティン・スコセッシ(1942-)の監督作品であることに加え、遠藤周作(1923-1996)の世界的に有名な小説(『沈黙』新潮社1966)が原作であること、さらには出演している俳優陣など、注目される要素は多いように思われるが、日本公開1ヶ月現在における本作の反響は、比較的「静か」な印象を得ている。〔もしかしたら、今の時代には合わない(=受けない)のかもしれない。〕
原作自体が単純明解とは言えない作品である以上、映画もそれなりになっているであろうと予測はしていた。しかし、そこはマーティン・スコセッシ監督の腕の見せ所であろうと期待もしていた。オープニングやエンディングの「虫の音」と暗黒の世界に引き込まれたり圧倒される場面もあれば、ストーリー展開が早すぎて、内容が理解しにくい場面も散見された。私は鑑賞前に原作を読んでから映画館へ足を運んだが、原作を知らない人が観ると、少し違う内容の作品として理解するかもしれない。
この作品は、タイトルの印象から一般的に「神の沈黙を描いた作品」と誤解されている。しかし、遠藤氏曰く「神は沈黙しているのではなく語っている」という意味を込めた作品である。もちろん、作品中で主人公とその友人たちは、様々な苦難に直面する。絶体絶命の状況下で、(キリスト教における)「神」が、なぜ救いの手を差し伸べない(何もしない=沈黙している)のかを問う。それは神に選ばれし者が、神に与えられた「試練」なのか?「見せしめ」なのか?それとも・・・。
キリスト教徒にとって神の存在を否定することは、自らの信仰を失うことになる。神への信頼と疑問。様々な葛藤の末に、主人公がたどり着いた境地とは。本書は、ある信仰者の内面的葛藤を描いた「回想録」である。
ちなみに『沈黙』というタイトルは、著者自身が付けたものではない。元々は「ひなたの匂い」というタイトルで脱稿した作品であり、後日に出版社からの意向を受け、タイトル変更したものである。(遠藤周作『沈黙の声』プレジデント社 1992)
作品の終盤、この「ひなたの匂い」という原題名を感じさせる場面が淡々と続く。ある種の「救い」がそこはあったのだろうか?主人公の両手に隠された十字架だけが、それを知っているのかもしれない。
クワイガンジンを追い求めて、カイロレンとスパイダーマンが旅をする映画。
まともな感想は他の方々が良い事書いてらっしゃるので僕は違う視点で。
配役をみて、ニヤリとするのがスターウォーズファンでは?
エピソード1での指導者的存在のクワイガンジンが異星で行方が途切れ、それを探しにカイロレンとスパイダーマンが旅をする。
フォースを追い求めるジェダイ達が行方不明のジェダイマスターの存在を信じ、そのカイロレンが道半ばで倒れる。
フォースの存在を信じながら。
しかしその地で行方不明だったジェダイマスターはフォースの存在を否定して既に…
ええ、作者の意図ではない事は重々承知だとは思いますが、こういう見方だと、アダムドライバーの演技が余計しみます。
僕だけ?
閑話休題。
原作をあえて読まずに、話の展開を知らずに観るとこの映画そのものが、信仰の踏み絵の様な存在で、度重なるキチジロウの裏切りをどう受け止めるか。
度重なる元カノの浮気を赦し続けた僕の過去と重なり感慨深いものがありました。
良い映画です。
分からなくなる
ある程度の予備知識はある中で観に行ったので、どうしようもないシリアスさは覚悟して行きました。
ですが思ったより、気持ち悪くなったり自分が支配されてしまうまでの重さは無くて良かった。
音をもの凄く効果的に使っている事と、映像美、アンドリューガーフィールドのファニーフェイスのおかげかな。
分からなくなったのは、日本人が受け入れなかったのかキリスト教徒が受け入れなかったのか。明白に日本人だと思って前半は観ていたのに、なぜかキリスト教徒側が頑なに観えてしまった。仏だって同じだろ?のところに、どこか日本人側が受け入れてるような錯覚を覚えてしまった。完全に惑わされてますね。
生命という絶対的なものの前で、どうかこれ以上争いが起きませんように。
ゼウスのナレーションはアダムドライバーかな?踏み絵のシーンは圧巻でした。
信じる者は救われる?
遠藤周作も読んだこと無いし、もちろん『沈黙』も知らない。
クリスチャンでもないし、カトリックでもない、仏教徒でもない無神論者です。
以前天草で『天草四郎メモリアル館(?)』に寄った時に有名な『島原・天草の乱』の話を聞いた。
キリシタンと呼ばれるカトリックの信徒の人たちを主とした一揆(実際には関係の無い人もいたらしい)が起きたその前後のお話。
ある程度は時代背景等を知ってはいるが、色々と難しい言葉もでてきた『転ぶ』って何?って感じw
当時の幕府や大名が外からやってきたキリスト教を危険な物と考えるのはわかるし、今まで信仰してきた宗教を否定されるのが辛いのも理解できる。
(ここから色々な宗教を信仰している人すいませんw)
しかしながら、宗教の為に命を捨てるのは理解に苦しむ。
確かに現代の様な色々な情報や娯楽、色々な楽しみや心の支え等が簡単にいともたやすく入手できる環境では宗教の必要性や考えは軽い物かもしれない。
それでも、ただのプレートを踏むだけをできない、マリア像に唾を吐きかけることが出来ないのは、「とてつもなくつらいことなんだな、、、」と思いながらもずっと??な感じでした。
だから宣教師の苦悩や葛藤を共感する事は難しかった。
結局棄教してしまうのも、「え?熱い信仰心はどこいったのよ?w」と突っ込んでしまった。
もちろん目を覆いたくなる様な拷問や信徒への弾圧があるのですが、それでは殉教していった人たちは一体?と感じました。
しかしながら、映画自体は非常に時代考証されているというか映像も美しく、拷問もかなり強烈ですがキャストの演技が非常に素晴らしく日本人側は特に秀逸です。英語も難しかったとは思いますがググッと引き込まれました。
本当に神はいるのか?もしかしたらいるかもしれないが、これほど信じて求めている人に『沈黙』を決め込むのはいかがなものかと思いますね。『信じる者は救われる』とはよく言いますがそれなら出てきて奇跡を起こしてみたらいいのに、あまりにもあなたを信じたために死んでいった人たちがかわいそうだなと思った作品だった。
すばらしい!!元気な時に鑑賞を。
始めに、ネタバレから。
「信仰に対する揺らぎとその克服」がテーマの映画です。「沈黙」そのものがテーマでは無く、神の沈黙に直面しながら、それでも神が常に側にいることを発見することがテーマです。
豪華キャストが映画の世界に入っていくことを助けてくれます。例えば、井上筑後守は、小説でも特異な性格の人物であることは分かるのですが、明確なイメージを持つのは難しいと思います。しかし、映画ではイッセー尾形が、大胆に一つの人物像(屈折した面も含めて)を示してくれます。浅野忠信が、職務に忠実な武士のイメージを具現化してくれます。
さらに、日本の汎神論的土壌、武士社会の形式主義なども、サブテーマとして描写されていて、今日の日本を世界と比べて理解する助けになると思います。
『深い河』も合わせて読むことをおすすめします。「(自分が神を捨てても)、神は自分を見捨てない」という遠藤周作の信念がより理解できます。
一点だけ残念なのは、自然の美しさの描写が無かったことです。農民の日々の喜びも描かれていません。前半、農村が舞台の間、貧しさの中での信仰と迫害への抵抗が描かれている全てという感じ。原作に忠実ということかもしれませんが、映画なので、五島や平戸の自然の美しさなども盛り込めたのではと思います。
とはいえ、「神はいるのか」という疑問を持つことがある方には絶対おすすめの映画です。
「自分は信仰を持っていないから、理解不能の映画では?」と疑問を持つ向きもあるかもしれません。しかし、この時代のこの地域の農民が、イエズス会の宣教師達に触発され、改宗していった理由も理解できるように配慮されています。始めに信仰ありきの映画ではありません。貧しい農民が、半ば誤解したまま、キリスト教による救済を信じた背景が客観的に描かれています。終盤の仏教寺院のシーンなどは、庶民の生活から切り離された静寂の空間として描かれており、こんな世の中だったら、新しい宗教に救いを求めるかもしれないと理解できました。
3時間近い映画ですし、内容の重さを考えると、元気な時の鑑賞を。
日本人と一神教
キリスト教をタテマエ上禁止するのではなく、癌を切除するかのように隠れキリシタンを排除した井上たちは「キリスト教は危険」と判断したからそうしました。
その残虐行為は、個人の信仰の自由を否定する非道な宗教弾圧に他なりません。
しかしキリスト教が他の一切の宗教を否定し、個人の信仰の自由を認めない宗教であると判断したならば、それは危険と言わざるを得ないでしょう。
私はキリスト教が危険というより、一神教というものが日本人にとって危険かもしれないと思います。
否、日本人のみならず一神教は危険かもしれませんが、ややもすると日本人は一丸となって一神教と心中したがるわけです。
日本人と宗教の関係を要所要所で男と女の関係になぞらえたこの作品は、まことに見事なものでございます。
とはいえ、仏教だけが日本人の唯一の宗教であるかのように描かれている雰囲気もあり、そこがちょっと気になります。
もちろん当事のことはわかりませんので、それで正しいのかもしれませんけれども……。
サイレン沈黙
長崎県天草が舞台なのかな、又見てはいませんけども異国のキリスト教を日本に広めて、徳川家に抹殺去れる話しかと推測します、昔魔界天性と言う角川映画が有りました。これ天草四郎が隠れキリスタンであり摩訶不思議な術使い輪廻天性で死んだ人達を行き返すと言う話しで、駆れ此れ40年前真田と沢田謙二や千葉慎一や成田三夫と名だたる大物俳優さんが出てました、緒形拳さん小次郎役もTVの再放映で見た思い出す、窪塚洋介がリメイク版魔界天生も有りましたけどもつまらない。さて、今回のサイレン沈黙は内容量と日本にキリスト教を必要性があるのか見て見たいです。
潰された傍流。
うれしい!たのしい!大好き!的要素は全くない、棄教しないと殺される状況での信仰についての映画である。
酷すぎるキリシタン迫害を見せ付けられ、やがて棄教を選んだロドリゴの苦悩が描かれた。
ロドリゴは棄教したが、その中で神を見出した。そして、その事を死ぬまで沈黙したという筋である。
私はクリスチャンではないが、キリシタンたちと司祭たちの苦しみに寄り添って見た。
同時に井上や通辞にも。
重層的で、とてもよかった。
日本人のキャストはうれしかっただろうな、ということも常に思っていた。
スコセッシの現場に行きたいと思うよね、よかったね、と思った。
片桐はいりが面白かった。AKIRAや伊佐山ひろ子はどこに出ていたかわからなかった。
加瀬亮にはっきりとしたせりふがなくて(青木氏と立ち話するのみ)、ちょっとさみしく思ったが、リアルな生首だった。
誰かの正義は、おおよそ誰かの悪だと思う。
キリスト教を未開の地に布教せんとするは、ヨーロッパの正義だが、侵食されんとする側にとっては、脅威でしかない場合もある。
政教一致であった時代、布教は侵略と等しい。
おのれが信じる正しさが、誰にとっても正しく、その道を解くことは、望まれるべき事だと考えるのは、傲慢だ。
『沈黙』を見ようが見まいが、この点は私の変えられない意見だ。
ロドリゴとガルペの矜持を、そんな風に思いながら、映画を見た。
キリシタンたちがパードレを欲していたことも、よく分かるし、迫害は酷く、ここまでしなくたっていいじゃないかと思った。
根絶やしにしなくても、表向きは禁止で、こっそり信仰させておく懐の深さはないんかいと。
迫害された結果、日本は独自文化を存続させられた。
大勢のキリシタンの死の上にある。
キリシタンに限らず、主流を揺るがしかねない傍流は、潰される。
そうしなくては主流が主流でなくなるから。
その思想には賛同しないけれど、その結果を生きているわたしに批判する権利はないように思う。
とはいえ潰された傍流の心の中から消えなかった信仰が、美しく崇高なものに見えた。
人は弱い
重い映画。
小説を読んでいる気分そのまま。
救いを求め、苦痛に耐え、信仰し続けているのに、
何故神は沈黙するのか。
家族が踏み絵を踏まず、処刑される中で
キチジローは、踏み絵を何度も踏み、
時に仲間を裏切り、何度もその都度、許しを乞い
許されたいが為に、神にまた頼る弱いキチジロー。
信仰を、『踏み絵を踏まない』という見えるもので、
示そうとする人々。
人の心は、目に見えない。
信仰とは、見えないものなはずなのに。
踏み絵を踏んだ宣教師。
しかし、その心は見えない。
彼が最後に信じていたものは、誰にもわからない。
信仰とかなんなのか?
目に見える行為が信仰なのか?
人の弱さ、強さとはなんなのか?
をずーーーと、語り続けてる映画。
泣けるとかはなく、ひたすら考えさせられる。
私は自分の弱さや日本の信仰、はたまたイスラム教、キリスト教について考えてしまった。
残酷な拷問シーンもあるよ!
信仰とはなんなのか…
日本の小説を海外の監督が映画化したいと熱望したと聞いて興味が湧きました。
リーアム・ニーソンが出演していた事も大きかったですね。
冒頭から生首と凄惨な拷問が映し出されて痛々しく辛かったです。
同じ日本人同士で厳しい拷問というか処刑だよねあれは…
日本にも、こんな時代があったのかと今のイスラムを見てるようで複雑な気持ちになりました。
あんまり宗教云々は言いたくないので映画の話だけすると役者が良かった。
アンドリュー、アダム、リーアム、この3人の声が聞いてて耳心地が良かった。
この沈黙という作品は、あえてだと思うがBGMがほぼなく自然の音や声がそのまま流れてて、だからより没入できたのかなと思います。
3時間近い作品だったけど長くは感じませんでした。
日本人キャストも有名どころが出演してて、たまにあるアジア系の人を適当に使ったエセ日本人じゃないところは安心でした。
日本人は大半が百姓役なんだけど、この人達が、物凄く痩せこけてて、そういう体型の人を選んだのか減量したのかわからないけど胸や肋に骨が浮いてて、それがより拷問シーンを辛く過酷にみせてたと思います。
信仰に救われる人、揺さぶられる人、捨てる人。
色々な人がいたけれど人の奥底の心理をのぞいたようで難しく暗く悲しい話だったかな。
静かに淡々とでも確実に何かが蝕まれて消えていく、そんな感覚でした。
ロドリゴもフェレイラも、日本人の様に生きていたけど、ロザリオや聖書が無くても心の底では信仰心は捨ててなかったんじゃないかなと私は思いました。
もういっそ殺してあげてよ
途中、一瞬で首切られる人が出てくるけど
おそらくこの映画で一番幸せなのはこの人でしょう
そう思ってしまうくらいの凄まじい弾圧です
性的な虐待描写はなかったですが
もうただただつらい
途中からキリスト教なのに禅問答状態になるし
うまーく洗脳状態にさせるような手法も怖い
役者は全員当たり役でした
特に窪塚洋介は本当に良かった
彼がいい意味で道化役を本当に演じきっていました
この映画のロケ地を台湾にとられてしまったのは
凄まじい失策だと思う
これは長崎県で撮影して欲しかった
曇天の暗い海と深い闇
キリスト教を知らない方には少し難解かも知れません。少しばかり宗教的な問答があります。比較宗教学や哲学・道徳的な論争もあるのですが、小説の「沈黙」は映画よりかなり突っ込んだ論争がされています。
これは遠藤周作が小説やエッセイで屡々語っていることなのですが、当時のキリシタンにはキリスト教が正しく伝わっていないのではないか、ということです。映画の中で太陽を指差す場面がありますが、あれは大日如来のことで、大日=デウス の発音が似ていることから、誤解して信仰してしまっていたのではないか、遠藤はそう語っていました。
苦しく楽しみも教養を与えるものもない、農民たちの暮らし、そんな中に不思議な説法と儀式を行う見たこともない西欧人、苦しみばかりの現世から解放されて、パライソ(天国)に行ける。彼らを惹きつけないわけがない。来世を夢見て、陰惨な拷問に耐え抜いて、やがて果てていく。
現代でも過激なムスリム達が自爆テロを起こしたりしてる。彼らのように、当時のキリシタン達は、間違った信仰をしていたのではないか。つまり「地に根付かない」とはこのことを指しているのです。
遠藤は現代の小説家では村上春樹、安部公房に次いで海外で有名な作家です。司祭が踏み絵をするというショッキングな内容にカトリックからの反発は未だに強い。本来なら、大江ではなく遠藤がノーベル賞を獲っていたはずです。スコセッシ監督が長年実現できなかったというのも、そういう意味で困難さがあったのでは。
小説をかなり忠実に再現したと思います。あと、町人や、武士の表現方法が外国人の演出らしく、面白いなと思いました。
遠藤周作らしさなのかな?
映像は良くできている。日本でもよく知られた俳優がたくさん出ていて、演技も素晴らしかった。贔屓目かもしれないが日本の俳優の質の高さが感じられた。拷問の場面が多いのはあまり好意的には思えないが、主題のためには無理もないのかもしれない。キリスト教の信仰と当時の日本社会の齟齬なようなものについての解釈は遠藤周作さんや映画監督の考え方なのだろう。疑問に思える部分もあったが、色んなことを考えさせてくれる映画だった。
BGMは一切無し!だったと思う
この作品は登場人物の誰に感情移入するかによって印象は大きく変わるのだが、いつもは勿論主人公に感情移入するのだけれど、これは日本が舞台なのでつい日本人にそうしてしまった。じゃあ誰にかというとキチジローにであって、自分自身のすごく弱い部分であるとか卑怯なところであるとか、そういったところがキチジローによって具現化されているような気がして嫌な気持ちになった。彼は裏切り者のユダか或いは人間のネガティヴな部分の象徴なのではなかろうか。
主人公よりも脇を固める、リーアムニーソンや浅野忠信、そして何と言ってもイッセー尾形の演技に痺れた。大いなる葛藤を決して口にはしないリーアムニーソン、主人公にどこか友情のようなものを感じ始めている浅野忠信、そして実は何とか助けようと努めるイッセー尾形。ガーフィールドが完全に食われていたように感じた。
オープニングの、虫の音からのsilenceという演出がすごく好きだ。
宗教観の違い
異国の地からキリスト教を布教するためにやって来た宣教師の半生を描いた作品です。
宣教師達は自分達の信じている神と日本の切支丹の信じている神に対する認識の差に直面します。
そして日本の切支丹達の信仰が強すぎるが故に更なる苦しみに耐えなければならない宣教師の葛藤は随所に良く表現されていました。
神を信じ抜くことで多くの人が犠牲になるなか、踏み絵でも何でもして生きることにしがみつくキチジローがとても人間らしくある意味まともに感じました。
そして神のもつ沈黙の意味、これはキリスト教を深く知らない私にとっては到底理解できないことでした。
最初から最後まで拷問のシーンばかりがクローズアップされてしまい、昔の日本のキリスト教迫害が悲惨だったという印象しか残りませんでした・・・(きっと伝えたかったことはもっと別にあったんでしょうけど)
監督も昔の日本の映画を意識して作られたのか、どこか単調で間延びした尺の長い作品で自分には合いませんでした。
数々の矛盾を突く作品
原作を読んでから鑑賞。客層もやはり年配客が多めだった。
スコセッシ監督が描く「沈黙」はどのような物かと、思ったら予想以上に良い物だった。
17世紀前半の日本はガチガチの鎖国で、オランダ以外とは一切貿易を行っていなかった、島原の乱以降でキリスト教は禁止だった事など最低限の日本史は知っておいた方がいいと思う。
矛盾というのは、キリスト教自身の抱える矛盾と日本という国側が抱える矛盾。
当然当時は信教の自由など認められているはずがなく、仏教のみが許される世の中。しかし、人は一度信仰してしまったら例えお上の命に背いてでも信じてしまう、人の心は政治では変えられない。(これは奉行も再三言っているし、ラストシーンも表してる)「形だけ、形だけ」という台詞が既に矛盾を表している。
一方キリスト教も信教の自由の精神があれば、人が何を信仰しても自由であるはずという今日ではあたりまえの事を犯してるとも言える。
そしてキリスト教が抱える頑なさが、21世紀になってもさらに問題を深めている。(同性婚の禁止や中絶の禁止、進化論の否定)
僕はスコセッシ監督は江戸時代の日本を題材とする事で、キリスト教が抱える数々の矛盾を指摘したかったのではないかと考える。
勿論、日本側が行っている宗教弾圧や拷問のなどはとても許される物ではないが、本質ばかりそこではないと思う。
登場人物のキチジローこと窪塚さんは一見根性なしのクズとも取れるが、一方でこの映画で一番感情移入出来るのは彼ではないかと思う。
彼のセリフの数々が実に絶妙に的を射ているし、パードレも我々観客をも悩ませる。
過去の人がこのような弾圧を行っていたという事は、現在の我々でも十分に起こりうるし、単に「昔の人は酷いね~」で済ませてはいけないと思う。
多面的にそして色々な人と観た後感想を述べたくなる作品。
原作にもかなり忠実に描かれてるし、変な日本描写も少なかった。役者の演技も素晴らしかった、日本人も外国人も。
オススメです。
5分で転ぶ
高校生の時に原作を読んでいた(自分は50台)が内容は全く忘れていた。全体を通して冗長な感があった。主人公が転んだ後は死ぬシーンまでいらないくらい。全然関係ないけど、自分なら5分で転ぶ
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