沈黙 サイレンスのレビュー・感想・評価
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日本のイメージを壊す良作
今夜(2024/08/31)観ました。
雰囲気から救われない作品である事に勘付いていたので、敬遠していましたが、評価が高い事や、マーティン・スコセッシ作品にハズレ無しという先入観から観ることにしました。
1600年代の日本が舞台で、ポルトガル人がキリスト教を伝える為に長い船旅を経てやって来る話で、日本人が書いた小説が原作だそうです。
昨今国内外問わず、日本のイメージは良い傾向がありますが、実際は閉鎖的で、他国文化や言語を受け入れたがらない柔軟性に欠ける部分があります。
本作は、その点を包み隠すことなく映像や台詞にのせて表現していて、非常に好感が持てました。
寛大に見せかけた抑圧的な要求によって、ポルトガル人やキリスト教信者の日本人を支配する、イッセー尾形扮する井上公の優しそうな雰囲気からかけ離れた狂気を感じさせるキャラクターに怒りを覚えた程です😅
浅野忠信扮する通辞や、ドスの効いた声で村民を威圧する侍の指揮官扮する菅田俊は次点と言ったところでしょうか。キチジロー扮する窪塚洋介もなかなかのものでした。
とにかく、日本人キャストの演技に今回は脱帽です。
踏み絵を強制され、キリスト教の教えに背かざるを得ない局面を迎える終盤は、フェレイラや通辞の説得に意地でも応じないロドリゴの頑固さに、苛立ちを覚えました。彼の様な敬虔なクリスチャンならば、そうなるのでしょうね。しかしながら命あっての物種です。
予想通りスカッとするシーンも、大逆転も一切ないストーリーでしたが、ラストシーンでは息を呑みました。
3時間近い尺ながら、やはり観応えがあるスコセッシ映画です。一度ご覧ください🎬✨
キリスト教への脅威
仏とイエスキリストの違いを語る場面があったが、イエスキリストは自らの命を捧げ、その死をもって沈黙することでその後、神となった。
当時、命を賭けて海を渡り、東の果の日本にまで布教するというキリスト教宣教師がいるということだけで、キリスト教の恐ろしさを感じる。
神の元でひたすら救いを求め、自己犠牲を厭わないクリスチャンそのもの、そうさせてしまうキリスト教という日本にとっての新興宗教が、当時の日本から見て脅威であったに違いない。
げんにそれらは貧しい農村部から拡がり民衆か一揆を起こすこともあったのだから。
そんな時代に翻弄されたポルトガル宣教師たちがいた事を初めて知った。
ちょっとドライ
見初めて10分くらい。
この話記憶にある気がする、と思ったら
同原作で70年代に既に映画化されていたのですね。
その過去作のほうも随分前に観ていたのでした。
なのでその記憶とどうしても比較しながら見てしまったのですが、
どちらかといえばこのスコセッシ版のほうが見易いです。
篠田監督版のほうは見ていてじっとりと
嫌な汗が常に付いて回るような、湿度が感じられて陰鬱。
むしろ拷問の惨さと転んでしまう
無念や惨めさ、無力感はたまらないやりきれなさで
その陰鬱さにとても合致していたのですが、
スコセッシ版はとても自然で比較的描きかたは
サラリとしています。
それでもちゃんと宣教師たちの苦悩は伝わるけれど、
強烈な印象は篠田版のほうでした。
ただし篠田版が描くのは明確に転ぶところまでで、
パードレの生涯までではありません。
原作未読でありますが、生涯の最後が
この映画版のオリジナル演出だったなら
スコセッシの優しさ、同情、敬意を込めたものでしょう。
キリスト教と日本の土着宗教観にとどまらず
人間パードレを描くと言った点では
スコセッシ版が特出していると感じました。
宗教を捨てさせる、歴史の残酷さがメインテーマというよりは
ある意味禅問答のような、
キリスト教の教えとは?仏とは?
信仰とは?にその雄たる司祭が直面し話し合うところが
一番のメインテーマなのでしょう。
神の沈黙とはいったいなんなのか。
その先にあるものは
どんどんと信徒が排除されて
背教徒として彼が残った
だが、彼の心については
神だけが知っている
それが全てですね
日本人俳優さんたち、凄かった
特にイッセー尾形と浅野忠信
あれだけのキャラクターを残せるのがすごい
いい映画だが観ていて辛くなる
スコセッシ監督は以前、「最後の誘惑」でもキリスト教を扱っていたが、キリストが誘惑されてしまうという、キリスト教徒からみれば、とんでもな展開で、かなり非難を浴びるような内容だったので、この映画を見終わった時、スコセッシ監督にしては意外に真面目な映画だと感じた。
個人的には残酷なシーンが多かったので、余り好きな作品とは言えないが、映像美、ライティング、音響、セット、もちろん役者の演技等を含め、かなり全体の完成度は高い作品である。
主人公の苦悩にはかなり共感でき、棄教したことも致し方ないのではと思っていたら、最後、遺体の中に十字架が隠されたいたことに(ある程度は予想できたが)、最後まで棄教したことに悩んでいたのではということが伺えて、ジーンとくるものがあった。そして、エンドロールとなり、普通なら賛美歌か何かの厳かな感じの音楽が流れるところ、音楽はなく、敢えて虫の声と波の音にしたところは、心憎い演出だ。
強いて注文を言えば、主人公が棄教する踏み絵のシーン。逆さ吊りで殺される寸前の何人かを救うためだったが、彼らは顔がむしろで覆われていて顔がわからない。主人公が最初に捕まった時、一緒に捕まった数人の男女がいて、牢屋も一時一緒に過ごした人たち。結局、一人は刀で首を切られ、他の人たちも結局海に投げ込まれ、死んでしまった。顔がわからない人たちよりも、このような一緒に過ごした人たち・・・親密感を覚えた身近な人たちを救うという、より主人公の棄教に対する「止むを得ない」感が増したのではないか。
それにしても、外国映画にしては日本人の英語が違和感なく感じられた。設定そのものが、通辞以外は片言の英語しか喋れないはずなので、流暢な英語のほうが不自然かもしれないが。逆に、イッセー尾形の英語はうますぎて、不自然かもしれない。
ずるい映画として忘れられない
アダム・ドライバー(カイロレン)が好きだったので見た。きっかけとしてはそれだけです。イッセー尾形も好き。舞台やめちゃったので久しぶりに見たなと感じました。原作は読んでいません。
色々印象には残っています。踏み絵というのは知ってたけど、大人になって一番がっつり映像を見たなという思い。
セットや俳優たちの演技も素晴らしかったんだと思います。一生懸命見ました。
でもどうしても、「そっから(逃亡シーン)始めるのずるくない?」っていうのが拭えず忘れられない作品です。
キリスト教ってそもそもそんなに素晴らしいですか?地球上で最も血を流させてる宗教じゃないですか?イギリスとかフランスとかひどいですよね。天草四郎、オタクの大好物の素材ですし、彼はただただ信心深かった純真な若者だったかもしれないけど美化されすぎじゃないですか?十字軍の裏の顔なんて色々暴露されてますよね。
日本が鎖国をしたのは、キリシタン大名が火薬や鉄砲などの戦力と引き換えに日本人キリシタンを奴隷として50万人も海外に売り飛ばしてたからじゃないですか?西欧の世界戦略的にはキリスト教を餌に、現地民から文化とアイデンティティを奪って財力と労働力を手にすることが目的だったのは事実で、日本だってインカ文明のように滅ぼされていたかもしれない。だってみんな黄金の国ジパングを目指してたんだから。イエズス会がその手先だったことは事実ですよね。イエズス会の組織の人間として宣教師たちがそのことを一切自覚してなかったとは思えません。だから、作中の宣教師と信徒たちの立場は全く違うものだと思います。宣教師たちは国家的原住民侵略作戦に失敗した人たちです。可愛そうですか?「キリスト教を信じるか信じないかは別に自由だよ。でも侵略はだめ」って作中でも浅野忠信かイッセーに言わせてませんでした?侵略してる自覚がない宣教師たち、よっぽど恐怖の塊じゃないですか?超排他的ですよ。改宗が順調だったら日本人総奴隷ですよ?
当時秀吉に「日本は自分の国だ」っていう自覚があって、天下統一がほぼ間に合って、外交をコントロールすることができたことは奇跡なわけです。確かに無いで済むならないほうがよかったキリシタンたちの犠牲だとは思いますが、彼らが可哀想だからって鎖国中にじっくりと培われた江戸時代の文化を否定するんですか?今その文化のおこぼれで海外戦略してますけど。
自分が受けた歴史の授業を思い返しても、「キリシタン弾圧があって踏み絵などをさせていた」というのは教わりましたが、それが国を守るためだったという教え方はあんまりしてなかったような記憶です。どうも「天草四郎かわいそう」っていう方向に引っ張っられて終わった気が、、、。そこがそもそも間違ってるんですけど。今も歴史教育的にはそんなもんなんでしょうか。
基本的に踏み絵させるほうが悪者的な切り取り方。確かに自尊心を破壊するひどい拷問だったとは思いますが、キリスト教が行なっていた拷問の方がよっぽどひどかったでしょう?キリスト教が勝った方がよかったんですか?
そういった背景を無視して展開する映画も、日本人なのにスルーして「信仰は辛くて美しい」とか言ってるレビューも、なんなの?って思います。一神教の人たちは他の宗教を一切認める許容がないんですよ?改宗しなきゃ火あぶり皆殺しなんですよ?彼らが成功してたら神社仏閣バンバン破壊されてたんですよ。神道の方は仏教も受け入れたようにキリスト教だって受け入れる気でいたのに、こちらを尊大に否定してきたのはまずあっちです。
白人に憧れすぎじゃないですか?西欧の強引な世界ごちゃ混ぜ奴隷化計画(グローバル化)から逃れた日本は稀有な国です。
お正月に初詣に行って、仏壇に手を合わせ、クリスマスを楽しみにしてる日本人は、とても不思議かもしれないですが、皆殺しにしようとするよりよっぽど良くないですか?神道や仏教はキリスト教に比べて薄っぺらいですか?私は、強迫観念を植えつけることなく生活に寄り添ってくれる八百万の神々は頼もしい存在だし、季節ごとのイベントを大事にする日本は実は大宗教国家だと思ってます。まぁ神様というかほぼ妖怪になってる感もありますが、、、。
別に好きな宗教を信じればいいし、無知で純朴だったキリシタンたちはかわいそうだったと思います。イッセー尾形に言わせたように、
「この国には合わない」。
その部分だけが、監督が勉強して受け入れた部分なんだろうなと思いました。それ以外は、結局のところ白人の優位性、侵略の正当性を表現するのにいい素材だったから撮ってみたんだろうとしか思えません。今や恥です。
なぜ日本には1%しかキリスト教徒がいないのか。中国や韓国ですら3〜4割もいるらしいのに。そのことの方が興味深くないですか?
原作者がキリスト教徒だし、製作陣も海外の方も、そもそもの背景と日本の慣習をどこまでわかって見てたのか?まぁまず絶対理解できないでしょうね。あくまで「俺たちのキリスト教こそが正義なのになんて野蛮なことしてくれてるんじゃい!」っていうスタンスなんでしょう。なので、逃亡シーンから始まってずっと「俺たち悲劇」なトーンだったことがずるくてずるくてなかなか忘れられません。みた海外の人も、あ〜〜信徒たちが受難だ〜〜って感じでしかないんでしょう。遠藤周作はどうだったのか。気にはなるけど原作長そうなので読む気にはなりません。
コロンブスの像も倒されたし、今後見る人からは違った評価をされる映画になるんじゃ無いでしょうか。
そういうのを含めると、「日本人が見ても違和感がない」というけど出演してた日本人の方達は何を考えてたんでしょうね。特にキリシタン側。
タイトルなし
BGMもなく、棄教を迫られる宣教師と弾圧される隠れキリシタンを淡々と描いている。世界遺産登録された隠れキリシタンの壮絶な史実に基づいて、命をかえりみない信仰の深さに驚き、心痛め見た。暗い。
苦悩・・・神は何故沈黙を続けるのか
危険を覚悟の上、使命感に満ちて来日した二人のポルトガル人宣教師が、キリシタン弾圧の対象となり、信者と共に苦悩する姿や、見せしめの為の拷問による処刑シーンに、胸が苦しくなりました。
ロドリゴ神父を演じたアンドリュー・ガーフィールドの演技が秀逸で、フェレイラ神父と対面し、言葉を交わした時の苦悩に満ちた表情が忘れられません。
癖のある井上筑後守をイッセー尾形さん、ネイティブな通詞(通訳)を浅野忠信さん、人間味溢れたどこか飄々とした隠れキリシタンを窪塚洋介さんが表現力豊かに演じられていました。
小松菜奈さんも隠れキリシタンの女性を好演。
当時の日本のキリシタン弾圧のむごたらしさと苦悩を、痛烈に描いた作品。
NHKBSを録画にて鑑賞
モキチさんの賛美歌?が…
私はカトリック教徒です。
この映画みて何だか胸が苦しくなりました
1番はモキチさん達が拷問にあうシーン
十字架に吊るされしかも海の波にもまれるシーン
観てられなかった
モキチさん以外の人達が亡くなる中モキチさんは亡くなるまで数日かかりそんな中賛美歌を歌う
もうここが辛かった
この演技力もすごいと思った
キリスト教が奴隷貿易やってたのはスルー
単純に、キリスト教が善、弾圧する幕府が悪とはなっていないのはスコセッシ監督の気概が感じられる。しかし、そこが限界だ。キリスト教(カトリック)が加害者である事を隠したままでは単なるプロパガンダ映画にしかならないが、事実を描くと公開出来なかっただろう。
この映画を最後までみた人は、2人の宣教師が神を捨てたのをみて少し情けなさを感じたのではないだろうか。苦しむ信徒を助けるために信仰を捨てるというところまでは良い。しかし、その後の彼らは捨てただけではなく幕府に協力的過ぎる。何故ここまで?と思わずにいられない。
しかし、これは映画では表現されていない事実を知ると納得できる。当時、日本にきていたキリスト教はカトリックとプロテスタントに分かれるが、猛烈に弾圧されていたのはカトリックだけだ。理由は簡単でカトリックは日本人を拉致して海外に奴隷として売り払う奴隷貿易に加担していたためだ。被害者は50万人とも言われ、映画の中では100%被害者のように描かれている日本人キリスト教徒は拉致の直接的加害者でもあるのだ。
ふたりの宣教師は脅しだけに屈したわけでは無く、日本人による論理的説得によりキリスト教と決別したと考えれば、その後の彼らが幕府に協力的だった事も辻褄があう。
この映画をみた日本人は、決して幕府が悪でキリスト教が善ではないことを知って欲しいと思う。
170130映画『沈黙(スコセッシ版)』感想
上映時間161分は全く長く感じなかった。むしろ短いと感じるほど、終盤のロドリゴの日常生活や、当時の日本の仏教以外の宗教文化を思わせる習俗、情景などへの描写が、もっと盛り込まれていて欲しかったとわがままを言い出したくなるくらいに、鑑賞直後の私の高揚と充実感とは並々ならぬものだった。
クライマックスでロドリゴがフェレイラの「彼らを救えるのはお前(の転び)だけだ(※うろ覚え)」に対して「それは悪魔の囁きだ、失せろ(※うろ覚え)」と遮り、極限の苦悩に耐えつつ辛うじて自らの信念を繋いだかのようにみえた直後で彼に聴こえた「私は只黙っていたのではなく、常にお前の苦しみと共にあり続けてきたのだ。踏みなさい(※うろ覚え)」という神の声が、はたして先に彼によって語られた筈の悪魔の巧妙な誘惑の囁き、そそのかしではないと断定できる如何なる要素も、この映画では発見できないのではないか。スコセッシ作品群の脈々たる作風に、善悪、善意と悪意、良識と狂気、聖職とマフィア、パンと愛、…等の対抗軸、既存の判断基準への手加減無き批判精神というのがあって、これは何も革新左翼的で浅薄なロック精神だとか反権力精神だとかでは決してなく、そもそもの古典的教養、良識、知性に裏打ちされた伝統保守的な精神から、浅薄な似非ヒューマニズムが作り出し、国際社会的規模の純粋無垢故に無頓着過ぎる群衆の良心をたぶらかしミスリードし続けてきた、正に罪深き、人間の死生観における伝統性故の多様性への侮辱としてのグローバリズムを弾劾する、こういった意味での反骨精神と、私は理解している。スコセッシがグローバリズムを意識的に批判していることは、前作の『ウルフ・オブ・ウォールストリート』でほぼ明白だろうと思うが故に、今作の映画『沈黙(スコセッシ版)』にも彼の反グローバリズムとしての多元主義的な国際共存社会秩序を標榜する思想的ビジョンが貫かれているだろうとする私の推測は、しかし必ずしも無根拠な飛躍ではない。つまり映画『沈黙(スコセッシ版)』では、そもそも人間の苦悩を救済するのは、「沈黙と、沈黙から現実逃避して捻り出された欺瞞としての神からのお告げと」の、はたしていずれなのか?或いは、「それは神のお告げだったのか、それとも悪魔のそそのかしだったのか?」、「信仰の勝利だったのか、それとも自己欺瞞による背信、敗北だったのか?」、いや待て、そもそもキリスト者の信仰における本質とは、それらのこれまで散々使い古されてきた対抗軸を、そもそものイエス・キリストその人が述べた筈の神の愛、許し、救済の精神まで遡るといったいわゆる伝統保守的な視野にまで立ち返った時に潔く捨て去って、「神の愛、許し、救済に優先され得る如何なる信仰も布教も宗教的組織活動も無いのであって、これはたとえキリスト者的なそれらについても決して例外ではないし、このような本質的な判断基準には、神か悪魔か、善か悪か、信仰か背信か、…等を逡巡する精神的な手続きは、この限りにおいては無駄と言う他無い。答えは既にイエス・キリストの述べられたところで与えられていたのだから」と、この反グローバリズムとの整合性も保有していて当然の相互尊重(愛)の精神にまで立ち返るべきところのものだったのではないか、といったかたちで、その似非ヒューマニズムへの反骨精神が貫徹されていたと、私は解釈しているわけだ。
私の記憶が確かなら、映画『沈黙(スコセッシ版)』には劇伴の一切が聴こえてこなかった。江戸初期の日本における隠れキリシタンの歴史を全くノーリスクな鑑賞者の立場、これはあたかも神の立場そのものから傍観させる際に、制作者の意図による過剰な鑑賞者の情感、感傷の誘導を抑制するといった意味での劇伴演出の抑制、などと私には思えたのであり、これは正に制作者たるスコセッシから鑑賞者への「沈黙」に被せたパフォーマンスの一種とも取れるし、或いは天地創造主たる森羅万象の制作者が自身以上の他の頂点的な存在を見出しようも無い孤高の立場における「沈黙」的な状況に鑑賞者の無意識的な感情移入を誘導するための、スコセッシによる手の込んだ演出だったのか、まぁこれら全てを含める以上の様々な意味合いによる完成度を極めた芸当の一側面であったには違いない。この点に関して、私は素直に素晴らしいと思っている。
鑑賞後、スコセッシの『最後の誘惑』と『沈黙』とを比較して一考した。少なくとも、映画『沈黙(スコセッシ版)』においては、「これまでにない信仰をもって、神の愛に報いるのだ(※うろ覚え)」に象徴されるように、組織化される以前のイエス・キリストの精神の本質に立ち返ったが故の「これまでにない信仰」、或いはそれまでにはなかった形式上(といっても不法入国及び禁教の布教の咎で、この見せしめの意味から生涯出国を許されず監視下で拘束され続ける永い時間の振る舞いの一切において)の信仰の敗北という比類無き十字架をロドリゴは「沈黙」の内に、派手さも無く、地味に、惨めに、背負い続けた後に、スコセッシ独自の解釈によるあぁいったかたちでこの生涯を全うしたという部分だけ見ても、勿論『最後の誘惑』には福音を集成したところからヒントを得た原作小説を元に制作した分の相応の深みはあったものの、愛を極めた超人イエス・キリストの派手な伝承と、これに続こうともがく一信仰者ロドリゴの地味な物語との比較という意味においては、より後者が、決して超人足り得ない鑑賞者としての信仰者、或いはその他大勢的な一般的鑑賞者の人の感覚に対して、切実さを増して迫ってくるものなのだろうと、他でもない私の鑑賞がそういった臨場感で絶え間なく終始したところから、思わされている。ここまでくると私にとって『最後の誘惑』や『ミッション』は最早娯楽映画の範疇であり、映画『沈黙(スコセッシ版)』はここと一線を画した思想哲学映画と呼びたくもなる位置付けとなる。ここまで思想哲学的要素の色濃い映画を、私は他に知らないといった意味である。従って、私は映画『沈黙(スコセッシ版)』を娯楽映画としては好評できない。しかし、映画が娯楽映画に留まらない可能性を秘めた精神媒体だと解釈することがどの加減まで許されるのかにも依るが、私はもうこの際、映画として云々はどうでもいいところで、映画『沈黙(スコセッシ版)』が『最後の誘惑』や『ミッション』以上に大好きだとだけ書き残しておきたい。その、多元的国際共栄秩序の要足れよう相互尊重の精神と深く真っ向から向き合ったスコセッシの、遠藤周作の原作との出会い以来約30年の積み重ねの結晶から受ける、より突出した、宗教的に生々しい切実さとこの充実を極めた作中の雰囲気が、私を過去のどの作品にも優って、宗教文学的な精神の範疇で満足させた。そもそも文学も漫画も映画も音楽も、個の自由と公けの秩序とへの標榜を中庸させたところで、人類平和のテーマ性と普遍的に不可分であらざるを得ないと信じて疑わない私にとって、例えば映画『沈黙(スコセッシ版)』と劇場アニメ『この世界の片隅に』とを比較した時、見えてくる違いは作品同士の優劣ではなく、前者における思想哲学的な人類平和のテーマ性へのアプローチと、後者における飽くまで娯楽作品的な人類平和のテーマ性へのアプローチとの差といった、手法の違いが主立って際立つかたちとなる。つまりここで私が言いたいのは、ここ数ヶ月の内にそれら二つもの奇跡的な傑作映画と出会えたことに感激してるということだ。
ところで、ガルペが半ば自殺する形で自信の信仰と命を全うしたことを考えれば、作中のクライマックスをロドリゴの転びのシーンと捉えるのはおかしいのではないか(何故ならロドリゴ只一人の見せしめ的な転びのためだけに、既に転びの宣言を済ませた元隠れキリシタンの日本人百姓らが依然「穴吊り」を強いられ続けていて、この状況でロドリゴが自身の自殺で奉行所が百姓への拷問を止めるだろうと合理的に判断し得えたことは、奉行所の方針が飽くまで禁教撲滅にあって隠れキリシタンへの問答無用な処刑そのものではない、極めて文明的な冷静さで貫徹されたといった描写があったことからも明白なのだから)という疑問が仮にあった場合、これは誤解だ。カトリックの教えでは自殺は自身の命の創造主たる神の愛への背徳行為であり、ロドリゴの生きて味わい続けた屈辱の十字架と、その自殺の背徳行為とのどちらがより教理上で罪深いかといった検証の議論があり得たとしても、少なくとも自らの意志で自身の命を犠牲にする判断が、生き恥を晒す地味で惨めな十字架よりも優った信仰の現われだと、カトリック的な常識感覚から明瞭に断定されることは決してないわけで、他でもないロドリゴやガルペはこのカトリック的な常識感覚に宗教的なアイデンティティを置いていたからこそ、あそこまで八方塞的な逼迫感で苦悩しまくっていたのだ。暴論するなら、ガルペどころかイエス・キリストこそ磔刑に自ら赴いた自殺の急先鋒じゃないかと突っ込む余地を、キリスト者でない外野の感覚からは見出せるかもしれないが、そこには飽くまで自ら命を絶つ明白な意思が無い限り、創造主の愛に刃向かう自殺とされない微妙な基準があるようだ。従って、ガルペは飽くまで処刑される百姓を庇うことを装った自殺を敢行した分、組織化かされて本質から乖離したキリスト者の常識感覚からの苦悩から、少なくともその置かれた状況がどさくさ紛れの自殺を一切許さなかったロドリゴの場合よりも比較的楽に解放されたと、映画『沈黙(スコセッシ版)』のテーマ上で解釈されるのであり、必然的にクライマックスはロドリゴの比類無き転びの十字架の開始のシーンとならざるを得ない。これは原作小説でも同様であり、こう考えると、遠藤周作が『沈黙』を著した理由として述べた「彼らとその苦悩を歴史の影に語られずじまいに埋没させたくなかった(※うろ覚え)」というのは、正にロドリゴが生涯を終えても尚背信者の烙印としての十字架を背負い続けていた凡庸な歴史記述の状況において、彼の深奥のディテールに文学的な記述を加えることでその十字架を下ろしてやるか、これが無理でも共に背負ってやりたいくらいの気概を意味していたとも考えられるし、これを更に視覚的に如実に描写せしめたのが映画『沈黙(スコセッシ版)』だったとも思える。
私は映画『沈黙(スコセッシ版)』は日本でヒットしないと思う。否、米国は勿論、世界的にもヒットしないと思う。イエス・キリストが登場するでもない『沈黙』の表面上の地味さが『最後の誘惑』の興行実績すらも超えることが困難だと推測するなら、むしろその本質的なテーマ性への誤解だけが茶を濁すだけに留まって、理解も記憶もされない惨めな映画となるかもしれない。これは合衆国の新大統領が度々口にする保護貿易主義の時代的な意義を国際社会や諸国それぞれの民主主義的精神が認知できるか、できないかくらいに絶望的に困難な前途の様相である。多元主義的国際秩序を嫌う覇権主義的グローバル利権に洗脳されっ放しの多数派の群衆が民主主義を体現できている錯覚に陥っている限り、映画『沈黙(スコセッシ版)』の本質が世界的な映画市場に理解されることも、果てはキリスト者的な信仰の本質が西欧諸国の精神文化に復古することも、決して叶いはしないと、私はここに断言したい。まぁ、そもそもそこに善悪の基準を差し挟んで目くじらを立て過ぎたところで、人類嫌悪の闇を抱える徒労に終わることも又明白だから、常に諦めず、もてる限りのアプローチの活路を見出す建設的発想に身を委ね続けていたい。所詮は映画の好みの話に過ぎないのだし。
評価が難しい。
司祭として師匠の司祭を探すために日本にやってきたが、キリスト教禁止令のもと、過酷な生活を強いられる。
探し求めていた師匠は改宗していて、改宗を勧めてくる。
そこの葛藤が丁寧に描かれている。
改宗したらキリスト教徒は殺されず解放されるが、司祭ほどの立場で自分の宗旨を否定するのことができるのだろうか、と。
助ける代わりに改宗。布教もできない、罪を聞くこともできない、それを求められても断らなければならない。それを表面上でも仏教徒として生きていけるのか。
踏み絵は教科書で見たが、踏めばいいじゃん!と軽く考えていたのが恥ずかしくなった。それほどの強固な信仰を持って生きる=生き様そのものがキリスト教徒なんだろうね。
『形だけでいいから...。』というところにこそ潜む本質
宗教的バックグラウンドがないだけに、
余計にキリスト教文学の深さに驚かされ、キリスト教と日本の仏教観についてより深く知りたくなる作品でした。
何度か出てくる、
非常に日本的な『形だけ...』というのが非常に印象的で、
日本の隠れキリシタンを題材にしてキリスト教を描く本質的な深みがここにあるのではないかと感じます。
最後にロドリゴが火葬されるシーンでキリストの像を握りしめているカットが入っていることからも分かるように、
(しかも恐らくは死後に妻が本人の意思を察して?そのように握らせて火葬されたのかもしれないと思えば、)
単に批判的な観点ではなく、
日本的な共同体の中では自我を抑えて『形だけ』でもその場を成立させなければならない文化、民族性があり、
たとえ、そのような背景においても個人の信条というものは奪えないものであるということについても考えさせられました。
フェレイラもロドリゴもキチジローも全員転んでいますが、
置かれた環境と状況に合わせてその信仰の形を進化させただけであって本質的な棄教はしておらず、
その心の中では各自の宗教観が生き続けているように見えました。
かつての自分の師がこれまでの教えを全否定するという、
それまでに生きてきた人生や自分自身の誇りや生きる糧を一瞬ですべて否定されるような強烈な場面は釘付けになります。
原作も読みましたが、
自分自身の信念を曲げることが出来ずに殉教する(それまでの価値観にこだわる)ことが、
はたして本当に正しいといえるのか?
という問いかけは普遍的で、
キチジローの惨めに苦悩する姿や、転んだ宣教師たちの姿を軽蔑するマッチョな世界に対する違和感を気づかせてくれます。
そして同時に、
カトリック思想が強く、神学校で学んだこともあるというスコセッシ監督が28年かけて完成させたというカタルシスに思いを馳せると感慨深いものがあります。
涙なしには観れません。
クリスチャンの家に生まれ、親に信仰を強制された私としては、とても感慨深いものがあります。
キリスト教のすべてが悪いとは思っていませんが、人による勝手な解釈で歪められている部分が多いと思います。
この映画を観ていて、私は「生きてこそ」だと思いました。キチジローや主人公を責める気にはなりません。
踏み絵だってただの絵です。
真理が何なのか分かりませんが、殉教が正解だとは思えません。
「沈黙」という題でありながら、クライマックスで答えていますが、これは信仰によるものという解釈でしょうか?
神は沈黙しつづけることも神である所以だと思っていました。
とても重くて難しいストーリー
・何をしてもこのような状況では良い答えが見つからないので、観ていて辛かった
・私は無宗教なので、意味が分からないシーンが結構あった
・キチジローの気持ちや行動に感情移入出来なかった
・映像はリアルに感じてスゴいと思った
弱くてもいい。
信じる人が救われればそれでいいんだと思う。それにしても、人の宗教を弾圧するという恐ろしいことが、あの時代には行われていたというのに、驚いた。踏絵は学校では習っていたが、踏めないという人がいて、殺されていたという事実。
ひどいだけでは語れない。当時は、本当に脅威を感じていたんだろう。そして、殺されていく人たちも、神を裏切らないということで、死後の幸せを得たのかもしれない。
そして、奉行も、殺したくて、殺しているわけではない。
パードレ二人も、結局、心の中までの改宗はされなかった。信じ続けていた。これを、日本の監督ではなく、マーティンスコッセッシが撮影している。すごい。すごいの一言。
ただ、エンタメではない。これは、作品である。いい映画でした。
☆3.0キリスト教を日本に布教させようとする牧師の話。「宗教とかや...
☆3.0キリスト教を日本に布教させようとする牧師の話。「宗教とかややこしいモン持ってくんじゃねーよ!俺たちの封建制度が崩れたら、甘い汁が吸えねーじゃねーか!そもそもお前らも民主主義を広めに来たワケじゃなくて、自分の権力拡大のために来たンだろがよ!」こんな魔国日本でガチンコ勝負のため、SWからクワイ=ガン・ジンとカイロ・レンが参戦!出てるとは知らなかったので嬉しいサプライズでした。日本人が英語を話すシーンが多いのですが、発音の悪さが現実的で良かったです。それでもすんなりと聞き取れちゃう牧師さん達には目を瞑ろうw映画のタイトルとは関係ないでしょうが、BGM一切なしです。エンドロールの時も一切なしです。隠れキリシタンのキチジローが「神は信じたい!でも、拷問は嫌!そんな俺を赦して!神様!」と、むちゃくちゃ人間臭い奴が出てきます。これが良い。この難しい役所を見事に演じたのは窪塚くんでした。流石。後、お役人が「俺もお前らの拷問したり殺したりしたくないねーん。もう形だでエエから踏み絵踏んでくれよー。軽くでいいからさー」って言うシーンが印象に残りました。
救いとは何か
当時の彼ら百姓は今では考えられない貧困と人間扱いされない様から、精神が崩壊寸前のところをキリスト教という「救い」にすがっていたのだと思う。
キリスト教弾圧を学べる作品。
感情移入は到底できない。こうゆうことが実際にあったんだなと。
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